ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

新たなマレー語訳聖書の動き?

今日は、民博図書室へ出かけ、借りていた博士論文5冊などを、とりあえず返却しました。とりあえず、というのは、全部読み切れなかったからですが、いずれ要りようになることは必須なので、まずは返却日にきちんと義務を果たし、また折を見て借りようという魂胆(?)です。あれもこれも、と焦るよりも、一つ一つ着実に、といったところでしょうね。もうこの歳になったからには、焦ってみても仕方がないことですし、テーマがテーマなだけに、こちらがいくらがんばってみたところで、相手が動いていなければ、データが充分集まらないわけですから。
ネット情報および今日届いたカトリック週刊紙ヘラルド』紙によれば、先週のクアラルンプールで開催された書籍展示で、何やらマレー語聖書に関して妙な動きがあったらしいです(参照:2009年4月26日・4月27日付‘Lily's Room'(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20090426)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20090427))。神の名‘Allah'のキリスト教による使用が、ムスリムであるマレー当局によって長年、問題視され続けてきたことは、もうこのブログでも随分取り上げましたので(参照:2008年9月11日・9月12日・2009年2月27日・2月28日・3月1日・3月2日付「ユーリの部屋」)、ここで繰り返すことはいたしません。ただ、この新しいマレー語版聖書‘Kitab Suci'では、‘Allah'の代わりに、ヘブライ語の原語‘Elohim'を使ったり、‘Tuhan’には‘Yahweh'を用いたりしているのだそうです。しかも、その版が、クアラルンプールのワールドトレードセンターの展示で、ムスリム文書に混じって並べられていたとか。写真付きですので、ほぼ事実なのでしょうが、何だかここへ来て変な動きが始まったと思います。
カトリック新聞『ヘラルド』のマレー語版における‘Allah'の使用について、もう一度、裁判をやり直す意気込みのカトリック側は、もちろん、この新たなマレー語聖書版にご不満のようです。ただし、私自身、実はこのような提案が一部にあることは、1999年にマレーシア聖書協会のマレー語聖書翻訳者(カダザン人のプロテスタント牧師夫人)から、話だけは聞いていました。でも、長年定着してしまった聖書翻訳における‘Allah'使用については、変更を潔しとしないという意見でした。
ただ、マレーシアの非マレー人クリスチャンの中には、‘Allah'を用いているばかりに、マレー当局やムスリムとの間に齟齬が繰り返し生じているならば、語使用を避ければ、問題そのものが解消すると考える人々がいるようです(参照:2008年9月12日付「ユーリの部屋」)。論理的にはわかりますが、翻訳上ですっかり定着してしまった神の名を変えるというのは、何語であってもそれほど容易なことではないので、今回、突然のように展示されたマレー語聖書の新版には、いささかびっくりといったところです。
もっとも、ロバート・ハント先生から、「マレー語への聖書翻訳について、新しい動きがあるみたいですよ」とは事前にうかがっていたので(参照:2008年12月29日付「ユーリの部屋」)、このことかもしれない、とは思いましたが。
それにしてもわざわざ、ムスリム文書に交えて、十字架付きの表紙である‘Kitab Suci'を、何も展示しなくてもよさそうなものなのに。誰の発行で、誰による展示なのでしょうか。
一つ気になるのが、以前もこのような書籍展示の際、ムスリム文書と一緒に『バルナバ福音書』が並べられてあったという事実です。この福音書なるものに関しては、キリスト教学の方で既に偽物であると結論が出ており(参照:2008年3月30日・4月28日・6月8日・6月11日・6月25日・7月24日付「ユーリの部屋」)、キリスト教にとっては、何ら問題はありません。ところが、こういう書を展示することで、いかにキリスト教が間違っているかを示そうとするムスリム側の意図は、どのように考えればよいのでしょうか。

マレーシア聖書協会にこの‘Kitab Suci'についてメールで問い合わせたところ、受取通知だけは届きましたが、特にお返事はありません。またこれで、ひとつ調べ物が増えました。これが果たしてよいことなのかどうか、だんだんわからなくなってきました。20代の頃ならば、喜んで没頭していたことでしょうが、何だかもう飽き飽きしてきました。
このところ、夢中になって読んでいるのが、Sidney H. Griffith "The Church in the Shadow of the Mosque: Christians and Muslims in the World of Islam", Princeton University Press, 2008です(参照:2008年5月22日・10月25日・2009年3月16日付「ユーリの部屋」)。イスラーム勃興に伴い、中東クリスチャンが、どのようにアラビア語で護教文書を作成したかの状況がよくわかります。そして、護教とムスリムへの論駁が無理だとわかると、シリア語やギリシャ語やアラム語などからアラビア語への翻訳活動にエネルギーを注いだりした状況が、極めて実証的に細かく記述されています。
この書には、マレーシアやインドネシアの聖書翻訳関係者がよく主張する「イスラーム発生以前から、アラブのクリスチャンは‘Allah'を礼拝で用いていた」の当否が、詳細に記されています。そういう意味で、大変に興味深く、しかも、こまごまとした研究でも、それが一級の資料に基づく限り、極めて重要であることがわかり、大いに励まされるところの多い書です。