ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

花の命は短くて

「花の命は短くて」の通り、満開だった桜は、山桜を除き、この辺りではもう葉桜になってしまっています。見頃はほんの二日間が勝負だということを改めて思います。
明日は我が町の選挙。今も、選挙カーの絶叫や徒歩でのマイクロホン行進や自転車集団など、それぞれのスタイルで候補者名の連呼。かっぱ(実はウインドブレーカーのようなもの)の色が、レモン色やピンク色やブルーや黄緑色など、発光色ないしは蛍光色が目立ちます。人口約3万人の小さな町で、産業構造も人口比率も地域ごとにかなり違う特色があり、しかも、歴史豊かな古い伝統と現代部門が共存したような土地柄なので、今度はどうなるかなあ、というところです。
プロのうぐいす嬢(うぐいすおばさん?)を雇っている候補者もいますが、全般的に目立つのが、今ひとつ素人っぽさが残る応援団の態度。普通、票が欲しければ、誰にでも頭を下げて愛想良くすべきなのに、ただプレハブ小屋のような小さな即席選挙事務所に座っているだけのおじさん達など。にこにこと声をかけて、お辞儀したら、そこで一票入る可能性が高い、かな...。
とはいえ、今回は予想以上に候補者が多く、ポスターを立ち止まって眺めている人もよく見かけます。激戦、でしょうね。
チラシ配布は結構普段から積極的な候補者も何人かいて、ホームページを持っているというので開いてみると、なんと私の住む地域は、町内のビバリーヒルズと呼ばれているのだとか。初めて知りました。世間知らず。本当のビバリーヒルズを知らないから、そう呼ぶのでしょうけれど。選挙カーで回っている人も、「ここの住環境の良さには驚きました。静かで空気もおいしい。全然違います」などと書いていました。確かに、大都市など、便利で見栄えはよくても、空気のまずい場所に平気でマンションや家がこまごまと建っているところがありますもんね。もっと自信持とうっと。
ところで、ミラン・クンデラを読み始めたのが、ちょうど一ヶ月前。昨日まで、図書館から借り出しては読み、読みながら次を予約し、返したついでにまた借りて、を繰り返し、あとは『不滅』の残りを読み終えるだけになりました。クンデラ・ワールドは、もうこの辺りで充分かな。いろいろ読み通して、やはり最初の印象が強いためか、『存在の耐えられない軽さ』『冗談』『生は彼方に』がおもしろかった、と思います。そのほかには、『小説の精神』によって、どのようにクンデラが自分の作品を語るか、どのように小説をつくっていくのか、エルサレム賞受賞時には何を語ったか、などが勉強になりました。構成や語りに慣れないと、多少読みにくいかもしれませんが、それさえクリアできれば、本当におもしろいです。おかげさまで、長年の宿題だった『ドン・キホーテ』がようやく読めましたし、トーマス・マンカフカなどの作家についての見方が新鮮だったし、ストラヴィンスキーヤナーチェクなどの音楽についても、短い五線譜がところどころに挿入されていて、興味深かったです。
ただし、ラブ・ストーリーが多い割には、亡命者としての経験に基づく哲学的思考や瞑想的な文なども含まれ、真剣にテーマを考えるには、読み応えのあるかなり重い作品が中心となっています。そこで彼特有の毒づいたユーモアが生きてくるのですが。フランス語で書くと、チェコ語よりも分量が少なくなる傾向も、やむを得ないとはいえ、やや残念な気がします。チェコが共産体制になったから、あのような小説家が生まれたのか、チェコが小国ながらも平穏なままだったら、クンデラクンデラたり得たかなども、気になるところです。
いずれにせよ、大変勉強になったことは確かです。それまで読んだことのある芸術としての小説とは、まったく作風や物の見方が異なっていましたから。俗っぽい喩えで恐縮ですが、普段使わない部分を使わないと読めなかったという点で、頭の中身のマッサージになった感じです。
昨日借りた本は、山本七平加瀬英明イスラムの読み方−なぜ、欧米・日本と折りあえないのか祥伝社2005年)です。これは、元々『イスラムの発想−アラブ産油国のホンネがわかる本』と題して、徳間書店から1979年に出版されたものの再編集プラス書き下ろし一章だそうです。大学の研究者ならここまで言わないだろうと思われるようなはっきりした書き方もあり、読み物としては、それなりにおもしろいです。また、ズバリと言い当ててある箇所があるのには、驚かされます。
山本七平氏といえば、『日本人とユダヤ人』で有名になり、該博な聖書知識を元にした日本論がお得意のようでしたが、私が知ったきっかけは、高校の現代国語の模擬試験。「全会一致」に関する一節からの出題でした。普段、模試の文章なんて、英語でも国語でも、問題に使われた元の本を読んでみようという気にはならないものなのに、この本だけはなぜか印象が強かったので、大学に入ってすぐに読みました。おもしろかった!ただ、その直後あたりに、別の日本人の聖書学者が、「イザヤ・ベンダサン」なる人物の実在か架空かを真剣にメディアでも取り上げ、訳の間違いをけなし、だから偽作だとかなんとか主張していたことをきっかけに、すっかり興ざめしてしまいました。
クンデラ式にいえば、いずれもユーモアを解さない危険な態度なのであろうし、世に自説ないしは持論を問う一つの手法としての「イザヤ・ベンダサン」だったのだろうに、内容の当否以上に、ペンネームあるいは偽名を用いたかどうかが議論の焦点となったという意味で、今から思えば、おかしくも残念な時代でもあったと思います。
一つ言えることは、マレーシアのマレー人社会を見ていてもそう思いますが、自分とは異なる立場から学び、批判的に物事を捉えつつも、吸収できるものは吸収するという分別的な態度があるかどうかで、発展の度合いが相当違ってしまうのだということです。だからこそ、発禁だとか偽作だとか何とか制約をかけないで、あらゆるものに接して、一つ一つを自分で判断していかなければならないのでしょう。そのような読み物としては、ミラン・クンデラも上記本も、気分転換になり、そういう面でのおもしろさを感じています。