ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

亡命した人の心境を抜粋する

ミラン・クンデラ無知』(西永良成・訳)集英社2001年)から

・あらゆる予見は間違う。それが人間にあたえられている稀な確信のひとつだ。(p.18)
・予見は彼らがみずからの現在時をいかに生きているのかを理解する最良の鍵になるのだ。(p.18)
・夢というじつに私的な経験が、どうして集団的に生きられるのか?(p.21)
・何千という亡命者たちが全員、同じ夜のあいだ、同じ夢を見ているということだ。(p.21)
・それはむしろ不幸の幻想、亡命者にたいするみんなの理解の仕方によって唆された幻想ではないのかしら?わたしは他人たちがこっそり手に忍び込ませた説明書に従って、自分自身の人生を読んでいるのではないかしら?自分自身はそうと気づかなかったけど。わたしの自由を侵害した歴史の仮借ない力がわたしを自由にしてくれたんだ。(p.29) 
・ふたりとも分類され、レッテルを貼られているが、彼らが評価されるのは、それぞれのレッテルへの忠実さによってなのだ。(p.30)
・つい最近まで、そう、めいめいが旧体制のもとで自分のほうが他人より苦しんだことを証明しようと、みんなで口論し合っていたんだから。みんなが犠牲者だと認められたがっていたわけ。でも、そんな苦しみ合戦は終わったの。今は苦しみじゃなく、成功を自慢し合っているわ。(p.48)
・彼らが手紙を書かなかったのは用心のためではなかったのだ。真実はもっと悪いものだった。彼らにとって、彼はもはや存在していなかったのだ。(p.60)
プラハは過去40年のあいだ、すべての住民が小学校から学ばねばならなかったロシア語を思いもよらない速度で忘れ、(省略)等々の英語の掲示に飾られた姿を道行く人びとに見せびらかした。(p.105)
・過去を歪曲し、書き直し、捏造する者たち、ある出来事の重要性を誇張し、別の出来事には沈黙する者たちをひとは批判してやまない。←あるがままの人間的記憶の批判がその批判に先立っていなければ大した重要性をもたない。(p.134)
・ドイツ人、ロシア人といった、チェコ人の敵たち...何しろ彼らは大国民。みずからの栄光、重み、普遍的な使命に高揚する。チェコ人が自分の国を愛するのは、この国に栄光があるからではなく知られていないからであり、大国だからではなく小国で、たえず脅かされていたからだ。デンマーク人も同じだ。(p.150)
・かつて真摯に、誠実に信じた共産主義の終焉をどのように生きたのだろうか?彼のマルクス主義の教養は、全世界に拍手喝采された資本主義の回帰と、どのように折り合いをつけているのか?(p.151) 
・話すとき、デンマーク人たちが軽やかに走っているのに、自分はそのあとを二十キロの荷物を背負って、よたよたついてくような気がしていた。(pp.167-168)

(引用終)

亡命するのも大変、亡命生活もさらに大変、亡命後に国に戻ったらもっと大変だったことが、まざまざとうかがえる文章だと思いました。