ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

アラブのリベラリズム動向

「メムリ」(http://www.memri.jp
Inquiry and Analysis Series No 498 Mar/6/2009
レジスタンス再考―アラブリベラル派の批判と意見
ダニエル・ラヴ(MEMRIの中東・北アフリカ改革プロジェクト長)
本論文はジハード・テロリズム脅威モニタープロジェクト(JTTM)掲載記事。今後JTTMを見る場合は、次のサイトで登録が必要(http://subscriptions.memri.org/content/en/member_registr_jttm.htm)。

・はじめに
近現代におけるアラブの政治思想では、“抵抗”(muqawama)のイデオロギーが中心的地位を占めていた。しかるに近年になって、抵抗の概念、特にこの数年の実行方法がアラブのリベラル派から批判されるようになった。本論は、この批判の概要とそれが依ってきたる状況を扱う。
アラブのリベラリズムは、20世紀後半の中東では微々たる力しかなく、その主張に重みがましてきたのは、つい最近になってからである。それにはいくつかのファクターが作用している。第一はグローバルな左翼勢力が全体的に衰退したことである。特にアラブの左翼勢力については、かつてのアラブマルキストがリベラルな思想を抱くようになった。例えばレバノンAl-Hayat政治部長サギーエー(Hazem Saghieh)、チュニジアの知識人ラフダル(Lafif Lakhdar)、シリアの知識人タラビシ(Georges Tarabishi)がそうである※1。西側では例えばフランスの歴史学者フュレ(Francois Furet)のような欧米の著名知識人がマルクス主義陣営からリベラリズムに転向したが、アラブ側は、(数テンポ遅れて)その現象を示したのである。特定の知識人が転向したことは、確かに注目すべきである。しかし、それよりも重要な現象が、ロシア及び東欧におけるマルクス主義の失墜第三世界民主化傾向が、リベラル化に拍車をかけた点である。アラブ社会の近代化に関心を抱くアラブの思想家達は、相対立する二つの近代化モデルの選択に迷うことがなくなった※2。
リベラル派の蘇生に寄与したファクターのひとつが、9.11事件である。この時の衝撃が、アラブ世界特にサウジと湾岸諸国の知識人を刺激し、現代アラブ社会の基盤を再検討する機会を与えたのである。サウジのリベラル派のひとりは、この分水嶺的事件を「ビンラーディンよ有難う。君がいなければ、我々は1990年代の世界に低迷し、イブン・タイミヤ(Ibn Taymiyya)の教室に坐り、イブン・カシール(Ibn Kathir)と食卓を俱にし、イブン・アルカイム(Ibn Al-Qayyim)の診療所で病人の列に加わり、文明の危機に対する解決策をイブン・ハンバル(Ibn Hanbal)にうけ給わる状態におかれていたであろう」と総括している※3。
知識人の新しい動向は、アラブメディアの構造的変化が後押しする形になった。湾岸諸国は、スンニの過激化とイランの再登場によって国内の安定に問題が生じたことを認識し、メディアに多少のリベラルな論評を許すようになった。クウェートAl-SiyassaAwan、サウジのAl-Watanといった新聞が特に然りである。更に注目すべきは、この発展がアラブ世界における電子メディアの成長と時節的に重なる点Elaph※4、Middle East Transparent※5、Aafaq※6、Al-Awan※7等のように、はっきりとリベラルな性格を持ったウェブサイトが登場したのである。表現の自由に新しい次元をもたらし、各国の評論家の間にネットワークが形成されるのを助け、アラブリベラル派の“文芸共和国”を生みだした。
この評論家達は、イラク国内の戦争、ハマスの選挙勝利と武力クーデター、ヒズボラベイルート乗っ取りなど最近発生した一連の事件で、イスラミストの抵抗問題に注目するようになった。この一連の事件に対するアラブリベラル派の反応は、一部にはイスラミスト集団の行動に向けられるのであるが、多くは更に一歩進んでアラブ社会の“抵抗”概念の総括、批判に向かった。
・左翼抵抗思想の遺物
1967年のアラブ・イスラエル戦争は、アラブ社会の転換点であった。1948年の敗北がアラブ民族主義の第1世代の信用を傷つけたように、1967年の敗北は、世俗派のマルクス主義者と対立関係にある?進歩的?汎アラブ主義政権の名誉を傷つけた。この敗北に対するアラブ左翼の反応が、戦略転換の呼びかけである。通常戦から人民抵抗戦略へ切り換えよと主張したのである。
このアプローチの推進派のひとりが、シリアの哲学者アズム(Sadik Jalal Al-'Azm)である。初期の著書「敗北後の自己批判」、「宗教思想批判」は、1967年の敗北に伴なって生じたアラブ左翼の懸念を総括した内容である。最初の本は、出版後すぐ評判になったが、数ヶ国で発禁処分をうけた。アラブの敗北という現実を前にして、アラブの政治・宗教文化に痛烈な批判を加えている。アズムは、“進歩的”政権の生ぬるい政策が敗北因であるとし、その政権が革命的社会主義、伝統的社会とその価値観のいずれでもない第3の道を模索した点に問題があるとした。アズムは、このやり方が失敗であり、ベトコン方式がモデルであると繰り返し主張、イスラエルに対してゲリラ戦術を使い、“人民解放戦争”を遂行すべきで、アラブ諸国は総動員体制で支援すべきである、と主張した。
この時点でアズムはリベラル派とは考えられていないし、自分をリベラルとも考えていなかった。著書「敗北後の自己批判」で、彼は次のように書いている。
「モダンなアラブ社会の建設を求めるリベラル派は、アラブの後進性克服を呼びかける。アラブの土地に対する拡張主義シオニストのプレゼンス撃退、即ち人民解放戦争の手っとり早い代案である。しかし、この二つの目的は現実には補完性を有し、矛盾しない。社会主義人民は伝統的な社会構造の根絶と国家近代化のため、このような戦争を不可抗力的に使う。抵抗(muqawama)と人民戦争に個々人が直接間接にかかわることが、必然的にその人の地平を拡大する。人民は、部族と家族の単なる一員ではなく自分が国家(watan)と共同体(umma)を有することを認識する…」※8。
つまりアズムは、武力抵抗と近代化は共同歩調をとると考える。しかし、1980年代になってこの考え方は説得力を失なってしまう。イスラミストが左翼と民族主義者を押しのけて、対イスラエル、対西側武力紛争の正面に登場したからである。革命的民族主義とは違い、アズムが語った地平の拡大は、ポリティカルイスラムの唱える領土と歴史の範囲になってしまった。
・イスラミストの登場、そして左からリベラリズムへの転換
アズムの2番目の著書「宗教思想批判」は、第1作「敗北後の自己批判」の延長線上にある。アズムは敗北因のひとつとして宗教々義をとりあげ、広く流布している宗教イデオロギーについて、これまで誰も組織的批判を展開した者がいないとし、自論を紹介した。宗教イデオロギーは反動の主要武器であるのみならず、1967年以降?革新派?の一部が純粋な信念か政治的野心のためかのいずれかであろうが、次第に宗教へ回帰している、と指摘した。
アズムの分析は、イスラミストの登場を予想したといえるだろうが、その潮流を押し返すことにはならなかった。80年代から90年代にかけて、左翼過激主義とアラブ民族主義は、次第にイスラミズムに押しのけられていった。レバノンでは、PLOが支配していた南レバノンに、まずアマル、その次にヒズボラが進出して拠点を築いた。パレスチナの領域では、自前の“抵抗”手形を持ったハマスが登場し、PLOオスロー合意を受入れたため、抵抗の立場をいよいよ強めるに至った。イスラム抵抗運動の勃興は、革命派イランの登場、アフガンジハードの活動、広汎な宗教リバイバル現象によって支えられ、力をつけた。イスラミストの運動は大半が、目的とするアラブの政権打倒に失敗しているが、それでも“抵抗”の看板はしっかり手にした。
前述のように、アズムは対イスラエル人民ゲリラ戦がアラブ世界の進歩、近代化と共同歩調をとると論じた。しかし上記の展開はこの主張にはっきりと疑問符をつけてしまった。この二つの願望は、今や対極にあるようにみえる。対イスラエル対西側闘争でイスラミストを支援すべきか、それとも世俗主義と進歩の建前からイスラミストに反対すべきか。モダニストはこの二者択一に直面している。グローバルな社会主義陣営の衰退が、改革派左翼とニューリベラルを後押しすることになり、双方は進歩には西側との調和とその価値観のとりこみが必要と認識するようになった。
この点について、イラク人の抵抗問題がアラブリベラル派に対して厳しい世代交替のテストになった。新しいリベラル派の抵抗批判に直面した時、第三世界反帝国主義のモチーフにどの位の賞味期間があるのか、永続性をはかることになる。旧世代のアラブ改革派には、イブラヒム(Sa'ad Eddin Ibrahim)とバナ(Gamal Al-Bana)らがいるが、イスラミストの立場に批判的な場合が多いのに、彼等が反イスラエル、反西側闘争をやっている限りは、このイスラミストの反リベラリズムに目をつぶることもあった。新しいアラブリベラル派は、旧世代とは異なる。
リベラル陣営内の分裂を示す明確な例が、エジプトの社会学者イブラヒム(前出)とイラクリベラル派との論争である。後者にはフセイン('Abd Al-Khaliq Hussein)、ブロカ(Hosheng Broka)、ハビブ(Kazem Habib)らがいる。2007年末イブラヒムがイラク戦争に関する二つの記事を書いた。それは、ベトナムアルジェリアの前例をベースとした抵抗の決定論的理論で、これが論争のもとになったのである。イブラヒムは、外国軍の占領状況にかかわりなく、現地住民はいつの日か必ず銃を手に立上り、早晩占領者は敗北して出て行くと論じた。論文はイラクレジスタンスに同情的なトーンを帯び、アルカーイダをアルジェリア民族解放戦線(FLN)やホー・チミンなど第三世界のイコンと同列において論じたので、これが論争に火をつけた。
イブラヒムを批判した3人のイラク人は、大なり小なり同じ反対を表明した。即ち、“抵抗”のパラダイムは、イラクの状況を分析評価するうえで適当な枠組とはならない。次に侵攻作戦を3人全員が支持したわけではないが、サッダム政権がファシストで人種主義政権であり、イラク人抵抗の主たる行動が無辜の一般人民殺しに堕している点で、3人共に見解を同じくする。フセインは、部族の覚醒運動をイラク人自身が抵抗に反対している証拠とみる。フセインとブロカは、実際には抵抗の指導者が誰ひとりとしてイラク人ではない、と主張する。ハビブが指摘しているように、イブラヒムは「民族抵抗とアフガンのタリバン型統治をイラクに押しつけようとする反啓蒙勢力との区別がつかない」のである…。
アラブリベラリズムの大長老のひとりに対する反論が、このように厳しいトーンを帯びているのは、古い第三世界リベラリズムとリベラル派評論家から生まれた新しい世代との間に大きな溝のあることを物語る。ハビブは、イブラヒムが人権と個人の自由そして民主々義のための戦いを忘れ、“イラク人民に対する犯罪行為”の弁護者になりさがった、と書いている※9。
・抵抗の世界観
“抵抗”(muqawama)に関する近代アラブの概念は、西側植民地主義イスラエルに対する戦いから生まれた。具体的目的を持つ具体的な戦争で形成されたのである。しかるに時間がたつうちに、抵抗の概念は、生命力や男らしさ或いは復活といったテーマを含む形而上的概念に形態変化を遂げてしまった。2008年7月16日、イスラエルとの捕虜交換の祝賀演説で、ヒズボラのナスララ書記長は抵抗を中東人民の純正な共通認識と呼び、次のように語った。
「強調しておきたいが、この地域の住民と不動の信念の持主が抱く共通認識とは、抵抗の共通認識、抵抗の意思、抵抗の文化、占領者の手にかかる不名誉と屈辱を拒否する気概である」※10。
抵抗がひとつの特殊な世界観とする考え方は、ヒズボラ副書記長カシム(Sheikh Na'im Qasim)も最近表明している。最近「抵抗社会―殉教願望と勝利の創造」と題する本をだし、その出版サイン会で、「抵抗とは、単に一辺の土地の解放を願う武力集団のことではないし、目的を達成した段階で役割を終えるその場限りの手段でもない。抵抗は、単なる軍事的対応ではなく、ビジョンであり計画である」と言った※11。
この見解を更に敷衍したのがファクール(Muhammad 'Ali Fakhru)、前バハレーン教育相でフランスとベルギーの大使もつとめた人物である。2008年5月15日Al-Quds Al-'Arabiで次のように書いた。
「アラブの郷土で、大半の国が領土の不可侵性を守り得ず、継続性のある全面的成長もできない時、政党と組合を含む社会の諸勢力が活動を抑えられ弱体化している時、絶望とアノミーの空気に包まれ、明白の太陽を見る希望も持てない時、抵抗の火だけは消えてない。生存意志と自尊心、気高い道義そして名誉がまだアラブ共同体に脈打っている…。
イラクパレスチナそしてレバノンの抵抗は単なる事件ではない。この共同体の現実の中にあって、気高さと名誉を堂々と示す精神の発露である。従ってこれに参加する時道義上精神上高いレベルに到達しなければならない。抵抗は高い山なみのその上空を飛翔する鷲である。そこいらの虫やゴミを漁る鶏のような生き方をする者は、烈風や嵐をつき雷鳴の轟き渡るなかを飛ぶ鷲の心は理解できない…」※12。
ファクールは、運動やそのイデオロギーそのものには殆んど触れていない。この記事の特徴はそこにある。抵抗運動の肝心な点は戦闘にある。戦闘こそアラブの生命力を証明するものであり、抵抗運動を“山なみの頂上”のうえまで高め、狭量なるリベラル派の批判が持つ認識の地平を越えるというわけである。
ファクールの記事は「抵抗に対する謂われなき批判」と題するが、この記事でもうひとつ特徴的なのが、弁解がましい点である。記事が書かれたのは、ヒズボラベイルート占拠時で、覚醒運動がイラクのアルカーイダを多数撲滅した後で、抵抗の擁護者は、自分自身が受身になっていることを感じている。それは、抵抗批判が主流になったことを示唆する。
・リベラル派の批判
 この抵抗の世界観に対して、Al-Hayat紙の政治部長でアラブのリベラル派評論家の重鎮サギーエー(Hazem Saghieh)が簡潔な言葉で批判を加えている。即ち、抵抗運動の中心的欠陥が次にあるとする。1)二元的世界観、2)ニヒリズムと暴力の賛美、3)抵抗自体を究極の目的とする見解、4)勝利後も残る抵抗メンタリティ。次に、この論文をもとに、抵抗運動に関するアラブリベラル派の立場を検討してみよう。
1) 二元論
サギーエーは、まず合法性の形態の違いを指摘する。市民が選んだ文民政府の合法性と抵抗運動の合法性の違いである。前者は、人民の総意の原則、それを体現する政府組織をベースとする。これに対し後者は、暴力の中で生まれそのような基盤を欠く状態であり、合法性をイデオロギー上の(或いは想定としてのイデオロギー)基準に求める。正と邪、?我々の陣営対反我々陣営?等々である。なかでも抵抗運動は負の自己規定を進んでおこなう。つまり、外部の敵との対立における自身のアイデンティティ規定である※13。
同じような点を指摘するのが、ソルボンヌ大に学んだアレッポ出身の哲学者エイド('Abd Al-Razzaq 'Eid)である。数年前民主的変革を求めるダマスカス宣言がだされた。すべての反体派集団を傘下にする上部機構がこの宣言にもとづいて、つくられることになった。エイドはその署名人のひとりである。彼は反体制派として政権と野党双方に反対する、と自己を規定する。治安機関にいやがらせを受けたこともある※14。
エイドは、仲間のひとりが逮捕された後2007年12月31日付でリベラル派のウェブサイトMiddle East Transparentに記事を掲載し、シリア政権のイデオロギーとその民族主義モデルを批判した。彼によると、それは“構築した独裁政権”と同じように古臭くなった?無駄話の一種?である(シリアは、抵抗を今だに政権イデオロギーの中核にしているアラブ唯一の国家である)。エイドの見解によると、シリア政権の民族主義は、空虚である。真の民の思想、公民権、契約をベースとする社会構造を欠くからである。その代りに、仮想現実でしかない国内の統一を擁護することに汲々としている。その統一のなかでは、部分は全体に従属し、統一そのものが外部の敵である西側及びイスラエルと対立する。これが、サギーエーのいう“抵抗”の二元論である。
エイドからみると、政権は「出発点として、調和と親和の原則に立脚する社会概念を持つ。その調和と親和の純潔を破るのは只一つ。外部の植民地帝国主義シオニスト」である。しかし、この共通認識としての仮想的統一は、現実には有機的なものではない。外部の敵と対立する形で構築されたのである。エイドはパレスチナの経験を、全体的なアラブの経験のプロトタイプとして提示する。彼の見解によると、パレスチナ人は自分の敵を、生身の歴史的敵と認識せず、絶対的“他者”と見るため、敵の長所から学び得ず、或いは学ぶ用意がない。
既にアズムは「敗北後の自己批判」のなかで、アラブはイスラエルを含む敵の科学精神を学ぶ必要がある、と書いている※15。エイドは、意識してかせずしてか、アラブの自己評価の典型を語っているのであるが、重要なことをひとつつけ加えた。アラブが敗北から教訓を学びとれない理由は、度を過ぎた憎悪、紛争を神秘主義的言語で考える傾向にあるとした。アズムにもあてはまりそうな特徴づけではある。
エイドからみると、この二元論からひきだせる結論は、即ち誠実な自己省察能力の欠如である。エイドの見解では、アラブの理論家は、左翼、汎アラブ主義者或いはイスラミストのいずれも、内なる敵を理解しない。暴政、無知、腐敗がそうである。ここでも、エイドはアズムと違う。イスラエルとの戦いは、国内改革の必要性とスムーズ且つ緊密に結びつかない。それどころか競合し、果ては混乱させてしまう。エイドは、これがアラブ社会を徐々に痛めつけ、やがてばらばらに破壊し吹き飛ばし?人間星雲?にしてしまう。これをひとつにまとめるのは、国内治安という抑圧装置しかない※16。
エイドの批判よりもっと過激な論が、イラクの作家アルワン('Arif 'Alwan)によって唱えられている。アルワンによると、今日のアラブの無気力は、1947年の国連分割決議をアラブが拒否し、彼等の敗北を?ナクバ?として神話化したことに由来する。アルワンは、“ナクバ”のメンタリティが他者を拒否する態度にしっかり組みこまれており、これが逆にアラブにはね返って、アラブの独裁者とイスラミストを生みだす、と主張する。アルワンの見解では、他者の権利を認めない態度が残虐の文化をつくりだし、「従来と異なる全く新しい(基本的)前提に立ち、現代になって考案しナクバと呼ぶようになった宗教儀式の束縛から完全に解放されない限り、希望はない。テロリズムの文化と政治的足枷から身を解き放つことはできない」のである※17。
抵抗の共通認識における憎悪の役割について、イエーメンのリベラル派評論家マネア(Elham Mane'a)が、ヒズボラベイルート占拠(2008年5月)関連の記事をだし、その中でナスララ書記長に対する形で次のように書いた。
「君のような人には、抵抗できる敵が必要なのだ。非常に必要としている。敵がいなければ、君の存在意義がない。敵がなければ、銃を手にする意味がなくなる。銃を構え“この敵を狙う”と言ったものだが、ナスララよ、今日誰にその銃の狙いをつけるのか。君は、誰の胸を切り裂いたのか、誰の血を流したのか。レバノンの胸ではなかったのか。レバノンの未来を切り刻んだのではなかったのか…。
私はナスララに求める…抵抗するな。自分が作りだした敵に抵抗するな…」※18。
マネアは、サギーエーやアルワンと同じように、二元論者の本能は年期を越えた居座り、とみる。自分のアイデンティティが敵との戦いとしっかりからみあっていると、抵抗運動を解体するどころか、次から次と別の敵をみつけ、或いはこしらえていくようになる。
2)暴力の賛美とニヒリズム
サギーエーの見解によると、武力抵抗は、例えば外国軍の侵略、占領といった古典的事例のように、時期によって必要である。しかしその場合でも。抵抗が楽しみであってはならない。暴力に対して暴力を以て対応するのは、不幸な選択肢であり、絶対境としてあがめるものではない。もっともサギーエーは、普通現実場面は逆であることを認め、「闘争イデオロギーの伝統において、暴力は遺憾な手段、或いはなるべく早く手放さなければならない一過性の手段とはみなされない。むしろそれは、人間の内なる生命力と政治エネルギーの表出とみなされ、美化され、リリカルな活動に変容される」と論じている※19。
デンマーク在住のイラク人詩人アンサル(Basim Al-Ansar)は、「抵抗の死」と題する記事でこの問題に触れた。これは2008年8月5日付でElaph e-journalに掲載されたが、抵抗運動の暴力賛美とニヒリズムを加虐被虐愛(サドマゾヒズム)と規定し、次のように述べている。
「武力抵抗のレキシコンでは、暴力はサディステックなものを持つ。それは絶対無視できないものである。この(サディズム)は、敵を拷問にかけ命を奪うことに喜びを感じるところにある。それと同時に、それには、はっきりとしたマゾ的側面もある。仲間によってはその死に喜びを感じ、殉教と犠牲に陶酔する…」※20。
イラク国内の戦争と抵抗の名のもとに犯された残虐行為が、この批判を非常に強めた。イラク抵抗運動の嘲笑的批判ともいうべきサブジャンルすら生まれた。例えばスーダンの評論家イブラヒム(Ibrahim Al-Khayr Ibrahim)は、「バスに乗って学校や駄菓子屋へ行きたい子供達、或いは市場に生活必需品を買いに行った男女の大人達。この外国の手先に対する猛烈果敢なる汎アラブ/イスラミストの抵抗が達成した歴史的業績」に脱帽した※21。イラクの評論家フラサン(Jamal Khurasan)は「抵抗は橋梁爆破」と規定し「この後ろ向きの連中にとって橋が敵になってしまった。考えてみると、橋の罪は只一つ、イラク国民に無料サービスをしていることだが、“抵抗運動”の内規ではこれが1級の犯罪になるとか」と皮肉った※22。
同じようにアルワンは「ナクバメンタリティ」と題する記事で、まずパレスチナ人の仲間同士の殺し合いに触れ、次のように論じた。
「ガザのサラフィ暴徒達がパレスチナ人幹部のひとりを捕まえ、手足を縛って14階から生きたまま突き落して殺した時、私は自問した。?このようにショッキングな残虐方法で人間の命をもてあそぶとは、この若者達の頭に如何なる政治、宗教的教えが吹きこまれたのであろうか?と。第2次インティファダの初めの頃であったが、イスラエル兵の遺骸が2体パレスチナの町の(建物の)2階から放り投げられるのをテレビで見た…無力の人の命をもてあそぶ時、すべての倫理観を心から消し去ることのできる歴史上の言語歪曲とは、一体何であろうか」。
抵抗の暴力賛美に対する抗議の声は、フランツ・ファノンの救いの暴力論(redemptive violence)に対する暗喩の批判として聞くことができる。
3)究極の目的として抵抗
これについて、サギーエーは次のように書いている。
「相対的平衡を絶対的表現に変容させたのは、恐らくフランツ・ファノンであった。この絶対のなかで抵抗そのものがゴールとなる…ファノンは、独立に向けたアルジェリアの平和的発展が具体化することを、はっきりと恐れていた…」
サギーエーによると、ファノンはアルジェリアブルジョアがフランスの占領と大同小異と考えたが故に、平和的発展に反対し、(後代のアズムのように)抵抗運動の占領者を駆逐するだけでなく社会的転換の原動力になることを願った※23。
実際にファノンが抵抗を?究極の目的?と考えていたのか、明らかではない。しかし、それが、単なる公式の独立を越える力、即ち転換を可能にする特質を持つと考えたのは確かである。ファンノは「植民地主義は、軍事占領後の民族支配体制である。解放戦争は改革を目ざすものではなく、干からびてしまった人民が立上がった崇高な行為であり、人民の才能を再発見し、その歴史をとり戻し、主権を守ることである」と書いた※24。ファノンは「植民地解放は…マジック的手法、自然ショック或いは友好的な理解の結果として生ずるものではない…灼熱の銃弾と血塗られた刀剣こそが、植民地解放の赤裸々な姿である。結末が先ず来るかどうかは、相対する二つの力の血みどろの決戦を経なければ判らない…」とも書いている※25。
抵抗に関する現代アラブの主張が、ファノンから取ったものかどうかは別として、抵抗自体を究極の目的とみる。例えばヒズボラのナスララ書記長にとっては?生命現象?なのである※27。
リベラル派による暴力賛美の抵抗批判でみたように、リベラル派は抵抗の暴力が転換力であり、本質的価値を有するとも思わない。民族再生へ向かう代りに、抵抗メンタリティは二元論的世界観に従って、暴力を持続させる。つまるところ、古典的な解放闘争が終った後、今度は敵のレッテルをはられた同胞に対して、同じ暴力が相も変らず投入される。
4)勝利後の抵抗メンタリティの持続、そして内戦の実体を隠すマスク機能
サギーエーは、勝利後の抵抗メンタリティの持続を、抵抗に内在する二元論に起因すると考え、次のように主張する。
「抵抗は、負の自己規定を広げる原動力である。その自己規定は、対立するものとしての他者規定を伴っている。ナチズムに対する抵抗のように、極端な事例の場合は正当化できるが、政治の合理主義に裂け目を作る。そして、解放なった後抵抗勢力は権力にしがみつき、その裂け目に圧政的な便宣主義とめくら撃ちの暴力が入りこんでくる」※28。
同様に、アンサルも論文「抵抗の死」で、次のように書いている。
「勝利は、抵抗のレキシコンからすれば、破壊的側面を有し、それが敵或いは占領者が駆逐された後でも持続する。それを信ずる者の性格の一部となり、集団のために戦ってきた筈であるのに、今度はその者は集団の成員にそれを適用する」※29。
抵抗に内包される二元論的世界観が、抵抗の正当な役割終焉後でも、抵抗メンタリティを持続せしめるのである。
この批判の線が急速に広がった歴史的背景が、ガザ、レバノンそして2007年のイラクにおける出来事である。この一連の事象をきっかけとして、多数の批評家達が、抵抗は現実には外国の敵との戦いではない、少なくとも主たる戦いではない、派閥間闘争になっていると論じるようになった。2006年(第2次レバノン戦争)の場合ですら、リベラル派の批評家のなかには、ヒズボラの対イスラエル戦を別の角度から観察している者がいた。イスラエルが南レバノンから撤収して6年。名目上は捕虜奪還の看板を掲げながら境界の外にいるイスラエルと戦ったのは、実際にはムッソリーニのローマ進軍よろしくベイルート進軍が果せるために、運動に“民族主義的イスラミストの後光”という箔をつけるためと論じた※30。
2008年夏ヒズボラは現実にベイルートを占拠した。その直後ジャーナリストのアミン(Hazem Al-Amin)がAl-Hayat紙で次のように論じた。
ベイルートで起きたことが最終で、東方の?抵抗?のすべてが、レバノンからパレスチナイラクまで北阿ではアルジェリアからリビアを経てソマリアまでアッラーの広大な土地におけるすべての?抵抗?が終局を迎えたというのは本当であろうか。果てしない?抵抗?が内戦となってもつれ合っているのが現実である…。
ここで非難するのが私の目的ではないが、内戦の実体を覆い隠す“抵抗”の行く末を考えたいのである。ベイルートで起きたのは最悪の事例であるが、イラクについても見てみよう。あの国の内戦が、?抵抗?とからみ合っていることに疑問の余地があるだろうか。我々は抵抗の“純粋派”を探したいのであるが、ひとつとして見当たらない。いずれも内戦のなかでからみ合っている。(彼等は)抵抗を手段或いは活動とはみなさず、絶対値と考えるのである」※31。
・まとめ
抵抗の文化は、20世紀のアラブ政治文化のイデオロギー上一主流を成すが、これに関するリベラル派アラブの批判が広範囲にひろがっている。それは粘着性を持ち、決してばらばらなものではない。いくつかのファクターが融合してうみだしたのである。地政学レベルでは、冷戦の終焉と第三世界派左翼の衰退によって、進歩的アラブ知識人は、西側を悪の根源ではなく学ぶべき点が多々あるところ、と考えるようになった。これと平行してアラブ世界にイスラミズムが抬頭した。抵抗の大義名分をカバーとした登場であったが、この抵抗諸派モダニストにとって魅力に欠けた。9/11攻撃とイラクにおけるアルカーイダの活動が、疎遠な関係を一段と強め、更に2007年と2008年にはガザとレバノンで内部抗争が激発した。イラク諸派同様ハマスヒズボラも、この戦闘を“抵抗”と称した。この一連のファクターの合体から生まれた批判が、新しく出現したアラブリベラル派の電子メディァのネットワークで広く流布され、一握りではあるが、リベラル傾向紙でも扱われるようになった。
それでは、この批判はどの位影響力を持つのであろうか。近年確かにリベラル派知識人がアラブメディアで地歩を占めるに至ったが、リベラリズムが努力してアラブ世界で重要な政治勢力に成長するには、時間がかかる(クウェートのリベラル派政党のさえない行動はその一例)。一方、湾岸諸国とエジプトは、イスラエルや西側よりもイスラミストの挑戦(イラン、アルカーイダ、ムスリム同胞団)をもっと恐れており、リベラル派の批判は、国益と緊密につなぎ合う。
結論をいえば、この批判が存在し、広がりつつあるという点が、今のところ重要である。数十年前と比べれば、アラブ社会に多元論的考え方が成長しつつあり、アラブのリベラル運動が然るべき地位を徐々に築き始めている。
※1H.サギーエーについてはアブウクサ(Wael Abu 'Uqsa)著「現代アラブ思想におけるリベラリズムと左翼―ポスト1992年サギーエー著作研究」2007年ヘブライ大学修士論文(pp32-34)、未刊行。
ラフィフ・ラフダルについては、2007年1月5日付MEMRI I&A No.314 メナヘム・ミルソン「ラフィフ・ラフダル―ヨーロッパのムスリム改革派」 (http://memri.org/bin/articles.cgi?Page=archives&Area=ia&ID=IA31407
ジョルジュ・タラビシについては2008年1月23日付Al-Sharq Al-Awsatインタビューを参照。左翼に対する不満は、特にレバノン内戦に起因している。
※2世界的潮流として自由民主主義へ収束するとの考え方は、F.フクヤマが「歴史の終り」1989年夏季版The National Interestで提唱。
※3 Saleh Al-Rashed, “Shukran Bin Laden” 2008年8月12日付 (www.elaph.com/Web/ElaphWriter/2008/8/3555651)
※4 www.elaph.com
※5 www.middleeasttransparent.com
※6 www.aafaq.org
※7 www.alawan.org
※8 Sadik Jalal Al-'Azm, Al-Naqd al-dhati ba'd al-hazma, Damascus: Dar Mamduh 'Udwan, 2007; pp.94-5
※9 2007年12月21日付MEMRI S&D No.1790「イラクリベラル派、イラクベトナムアルジェリアと対比し、抵抗に共感を示したとしてエジプトの改革派イブラヒム(Sa'ad Eddin Ibrahim)を攻撃」 (http://memri.org/bin/articles.cgi?Page=archives&Area=sd&ID=SP179007
類似の論争が起きている。もうひとりのエジプト人旧世代リベラル派の雄バナ(Gamal Al-Bana)が、9/11攻撃5周年にあたり、自爆パイロットを“極めて勇敢”とする記事を書き、その攻撃をアメリカの外交政策に供されるデザートと表現した。この記事は、バナのイスラムリベラリズムとは強いコントラストを有する。また、アルカーイダと比べるとはるかに穏健なイスラミストに対し、常習的ともいえる程手厳しい批判を加えているが、これとも強いコントラストがある。ここで、イブラヒムの事例と同じように、アメリカの力に対する古典的第三世界主義の敵意が背景にあるように見える。Gamal Al-bana, "La raha li-amrika ba'da al-yawm," 2006年9月11日付Al-Masri Al-Yawm(エジプト) http://www.almasry-alyoum.com/article2.aspx?ArticleID=29955
2007年3月16日付MEMRI I&A No.334 A.ダンコヴィツ、Y.フェルドナー「シェイク・ガマル・アルバナ―社会的宗教的穏健対政治的過激主義」 http://memri.org/bin/articles.cgi?Page=archives&Area=ia&ID=IA33407#_edn25
次も参照: Shaker Al-Nabulusi, Sujun bi-la qudban, Beirut: Al-mu'assasa al-'arabiya li'l-dirasat w'al-nashr, 2007, pp.168-180
※10 2008年7月17日付www.almanar.com lb
※11 2008年6月23日付Al-Hayat(エジプト)、2008年6月22日付www.almanar.com lb,
※12 2008年5月15日付Al-Quds Al-'Arabi(ロンドン)'Ali Muhammad Fakhru, "Al-naqd al-zalim li'l-muqawama al-'arabiyya,"
※13 2007年6月21日付Al-Hayat Hazem Saghieh, "Fi hija' al-silah w'al-muqawamat: tazawuj al-'adamiyya wa-wazifiyya la tahjubuha al-gadasa,"
※14 "Liqa' ma'a al-mufakkir al-duktur 'Abd al-Razzaq 'Eid hawla thalatha ayyam min al-tahqiq fi far' al-aman al-'askari(filastin)fi dimashq," 2006年3月21日付http://middleeasttransparent.com/old/texts/abdelrazak_eid/abdelrazak_eid_interview.htm
"Liqa' ma'a al-mufakkir 'Abd al-Razzaq 'Eid hawla tahdid jaridat al-siria niyuz[Syria News] wa-radd bayan i'lan dimashq," 2007年11月7日付
http://www.free-syria.com/loadarticle.php?articleid=23565
※15 Jalal Al-'Azm, Al-naqd al-dhati, pp. 91-110
※16 'Abd Al-Razzaq 'Eid,"Sajn Fida' Hourani khatt watani ahmar," 2007年12月31日 http://middleeasttransparent.com/article.hph3?id_article=3002
※17 2008年4月15日付MEMRI S&R No.1897「イラク人評論家アレフ・アルワン:ユダヤ人はパレスチナに歴史的権利を持つ」 http://www.memri.org/bin/latestnews.cgi?ID=SD189708
※18 Elham Mane'a, "Man tuqawim ya Nasrallah," 2008年5月11日付 http://middleeasttransparent.com/article.php3?id_article=3839
※19 Saghieh, Al-Hayat, op. cit
※20 Basim Al-Ansar, "Mawt al-muqawama," 2008年8月5日付 www.elaph.com/Web/AsdaElaph/2008/354204.htm
※21 Ibrahim Al-Khayr Ibrahim, "Injazat al-muqawama al-ilamiyya al-qawmiyya," 2007年5月10日付www.elaph.com/ElaphWeb/ElaphWriter/2007/5/232596.htm
※22 Jamal Al-Khurasan Ibrahim, "Al-Muqawama min al-dhabh ila al-intiqam min al-jusur," 2007年5月13日付www.elaph.com/ElaphWeb/AsdaElaph/2007/5/233335.htm
※23 Saghieh, Al-Hayat, op. cit.ファノンのブルジョア云々については次を参照。 Franz Fanon, The Wretched of the Earth, Presence Africaine, 1963, p.121ff(邦訳、地に呪われし者)
※24 Fanon, Toward the African Revolution, New York: Monthly Review Press, 1967,pp.83-84(邦訳:アフリカの革命に向けて
※25 Fanon, The Wretched of the Earth, pp.29-30
※26 2008年7月17日付www.almanar.com ib
※27 Fakhru, "Al-Naqd al-zalim," op.cit 
※28 Saghieh, Al-Hayat, op. cit
※29 Al-Ansar, "Mawt al-muqawama," op. cit
※30 Pierre 'Akel, "Fi inqilab Hasan Nasrallah wa-hizbihi 'ala al-sulta al-shari'yya wa-mithaq 1943 wa-ittifaq al-ta'if-mujaddadan," 2008年5月9日付(2006年7月17日付掲載の再録) www.middleeasttransparent.com/imprimer.php3id_article=3824  
※31 2008年6月8日付Al-Hayat(ロンドン)
(引用終)