ブログ版『ユーリの部屋』

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もう一度復習を

「メムリ」(http://memri.jp

Special Report Series No 34 Sep/15/2004

現代アラブ世界における改革対イスラミズム


メナヘム・ミルソン
・著者のメナヘム・ミルソンはヘブライ大名誉教授(アラブ文学専攻)でMEMRIの学術アドバイザー。本稿はヘブライ大における講演(2004年5月31日)をベースにしている。



2001年9月11日の事件は、イスラムに対する世界的な関心をかきたてた。イスラムとは如何なる宗教なのか。実行犯のテロリスト達は誰の名において行動しているのか。世界貿易センター破壊の報に接して、イスラム世界ではムスリムが通りにあふれ出て、歓喜する光景がテレビで放映され、いやがうえでもこの問題の重要性を印象づけたのである。


本論では、イスラミズム即ち過激イスラム現象を紹介し、それを歴史上宗教上の文脈でどう捉えたらよいかを考察する。まず序論で問題を概括した後、前半でイスラミズムの歴史的展開に触れる。アラブ世界における歴史的文脈でイスラム思想の展開を概括するが、特にエジプトのサラフィー主義(Salafiyya)、サウジアラビアのワッハービ運動(Wahhabiyya)、そして非国家テロ組織群にみられる共通項に、重点をおいて考察する。後半では、イスラミズムのジハード運動イデオロギーを考える。伝統的標準的イスラムとイスラミストの思考にみられる二つの基本概念即ちジハード(聖戦)とシャハード(殉教)を分析する。最後に、アラブの評論家について触れる。イスラミズムに対する評価、改革問題に対する考え方、そして現代イスラム思想における彼等の位置づけに触れる。


序 イスラミズムとは何か


急進的イスラム、戦闘的イスラム、過激イスラム、イスラミズムは、表現が異なるが同義語である。※1 しかしながら、いずれの用語もムスリムが自己規定上使用することはない。彼等は単にムスリムといい、特定の文脈でムジャヒデン(聖戦の戦士)という用語を使う。彼等はその運動をイスラムの覚醒(al-Sahwa al-Islamiyya)、ジハード運動或いは単にダァワー運動(al-Da`wa)と呼ぶ。召命とかイスラムの宣教といった意味である。


本論文のテーマは、外部即ち非ムスリムに向けられたイスラム急進主義である。勿論、急進的イスラムは非ムスリム世界即ち彼等が不信心者とみる者に向けられるだけでなく、ムスリム社会にも等しく関心を抱き、“真の”ムスリム社会の建設を願う。イスラミストの思考によれば、ジハード(イスラムの敵に対する戦い)を第一に優先しなければ、如何なる社会も真のイスラムになれない。


内部に向けられたイスラム急進主義は、彼等自身にとって如何に重要であっても、その種々相を扱うのは、本論文の主旨ではない。ムスリムラマダンの断食を厳守するとか、ワインなどアルコールに触れず禁酒する、女性にベール着用を強要するといったことは、宗教的狂信主義とみなせるかも知れない。しかし、この種問題はとりあげない。同じように、不義密通者を石投げで殺すとか、飲酒者を鞭打ちの刑に処すとか、泥棒の手を切断するといったイスラム法に従ったサウジの苛酷な刑罰は、西側諸国では恐怖感と嫌悪感をかきたて、人権団体が抗議行動をおこす。しかし誰もこの残忍な処置を世界平和に対する脅威とはみなさない。しかし9/11は全く違った事象である。イスラミズムがグローバルな問題になるのは、非ムスリム社会に対する敵意と攻撃のためである。


ムスリムが非ムスリムを必ずしもこのように扱ってきたわけではない。1400年のイスラム史をふりかえってみると、非ムスリムが寛容を以て扱われた時期が随分あったし、逆に
憎悪と迫害つまり非寛容の時代もあった※3。 本論文では、今日の状況に焦点を合わせる。


一昔前イスラム世界といえば、東のインドネシアから西のモロッコまで帯状を呈した地域、と考えられた。しかし今日では、世界の至る所に無数のムスリム共同体があり、今や教徒数は13億となった。ヨーロッパと南北アメリカだけでも数百万の規模である。全部を対象にすれば収拾がつかなくなるので、本論は地域と対象を限定し、「イスラムの中核地帯」即ちアラブ世界に焦点をおいている。イスラム預言者ムハンマドはアラブ人であり、神の言葉コーランアラビア語で明らかにした人物である。イスラムによる初期の征服は、アラブの軍勢が実行した。ムスリムの礼拝用語は、世界中どこでもアラビア語である。さまざまなファクターがイスラムとアラブ人を多面的に結びつけ、双方はすっかり融合している。世界のムスリム人口でアラブ人は4分の1以下しか占めていないが、イスラムにおける役割は極めて重要である。アラビア語で書かれ流布されるイスラムの解釈がムスリム全員に影響を及ぼす。


ビンラーディンとジハードの詩


過激イスラムテロリズムに関する論評は、それにあてはまる歴史上宗教上の文脈が判らないと、とんでもない方へそれてしまう。次の事例がまさにそうである。
2003年2月16日、オサマ・ビンラーディン自作自演の説教が、或るイスラミストのサイトにのせられた。この説教は、メディアが大変関心を抱いてとびついたが、或る詩から数行引用された個所があり、これが好奇心、いや警戒心を呼びおこした。その数行とは、


我が主よ
死が訪れる時、緑の埋葬布でおおわれた棺袈の上に臨まず
我が墓は鷲の腹中、空中に舞う鷲の群れにあって、たま鎮まる。


メディアには、中東研究者、情報関係者、対テロ専門家等々さまざまな分野の専門家が登場して意見を述べたが、解釈はさまざまであった。この詩は空からの攻撃がさしせまっていることを暗示している、と解釈したコメンテーターもいた。9/11の線に沿ったもので鷲は自爆テロリストの乗ったハイジャック機を象徴するというのである。鷲は攻撃そのものではなく、攻撃目標を象徴すると唱えた人もいた。つまり鷲は飛行機ではなくてアメリカをさすという解釈である。“鷲の腹中”に埋葬されたいという願望から、この説教はビンラーディンの遺言と解釈した人もいる。


しかし、この一連の解釈はいずれも的はずれである。我々MEMRIが全訳して判ったのである。ビンラーディンがアメリカの鷲やハイジャック機を示唆していないことは明らかである。ビンラーディンの引用した詩は、戦場でシャヒード(殉教者)として英雄の死をとげたいという願望を示すのである。鷲の腹中に入り、その鷲は天へ飛翔しアッラー玉座の前に到るという内容である。この詩の作者は8世紀のアラブ人で、イスラムの狂信的戦闘的教派の一員であった※3。


オサマ・ビンラーディンは自分の説教にこの詩文を引用した。それは急進的イスラムの性格を示すもので、彼の心が奈辺にあるかを物語る。即ち、イスラムの初期世代との一体感である。現代イスラミズムは、初期イスラムのルーツを知らなければ、理解できない。現代イスラミストは、預言者ムハンマド時代及びすぐ後の後継者の時代を、遠大なる広域征服期即ちイスラムの模範時代、霊的刺激の源泉とみなす。主流派イスラムの考えでも、すべての教徒が預言者の伝統に従い、預言者の追随者と後継者の言動に指針を求むべしとされる。しかしながら、このイスラミスト達は、伝統の特定側面即ちジハード、“アッラーのための戦い”に焦点をあて、それを殊更に強調する。


イスラミズムの歴史的展開


1.近代のイスラムと欧米、政治的危機と宗教的反動


今日我々が知るイスラミズムは、現代史の一現象である。まさにパラドキシカルなことであるが、イスラミズム即ちイスラム急進派とその対極の改革派は、アラブ及びその他のムスリムが欧米の文化と影響に押しまくられ、その反動として生じた。


欧米の挑戦は、ムスリム諸国特にオスマントルコ帝国にまさるヨーロッパの政治、軍事力に象徴される。ナポレオンのエジプト侵攻(1798年)は、この優越性を反映し、アラブ、ムスリム世界における欧米の進出、占領のさきがけであった。


ムスリムが経験した欧米列強の影響力滲透と占領はどれ程の意味を持つのであろうか。その意味をよく理解するためには、イスラムの自己認識を考慮しなければならない。つまり、教徒が己の宗教をどのように考え、世界に占める地位をどのように認識しているかである。イスラムは、その発端から単なる宗教ではなく、イスラム共同体(Ummat al-Islam)即ち政治的共同体でもあった。ムハンマドは、単に神の言葉を伝える預言者というだけではなく、政治指導者でもあった。そして、ムスリム国家の軍勢が非ムスリムに勝利することは、イスラムそのものの勝利とうけとめられた。


イスラムによると、アッラーは世界中の諸宗教に対する勝利と優越性を教徒に約束した。そしてアッラーは、バドルの戦いでこの神託を立証してみせたのである。紀元624年のラマダン時、ムハンマッドの率いる兵力300の教徒隊が、バドル(メッカの北部約300km)で、兵力950のクライシュ族(Quraysh)部隊を撃破した。この軍事的勝利が、イスラム的意識の形成に、決定的役割を果たす。


この戦いは、一回だけの勝利におわったわけではなく連戦連勝、やがてこれがムスリム帝国の勃興をもたらす。インドから大西洋沿岸に至る広大な地域で、イスラムの優越性はここに立証され、教徒の宗教意識に深く刻みこまれることになる。勿論、これは単なる幻想ということもできよう。いずれにせよ、これが不動の信念として、ムスリム世界に十数世紀続いたことは確かである。


ムスリムの優越性という不動の信念は、19世紀になって大揺れに揺れた。オスマントルコ帝国はロシアと戦って何度も手痛い敗北を喫し、ムスリム支配地はあちこちで侵食され、非ムスリム支配下に入った。アルジェリアチュニジアはフランスの手に落ち、エジプト、スーダンはイギリスが占領、バルカン諸国の大半は、オスマントルコの頸木を離れて独立した。第一次大戦でトルコ帝国はキリスト教列強に完敗し、1924年にはトルコの世俗的改革派の指導者ケマル・アタチェルクがカリフ制を廃止した。ムスリムからみれば、それは歴史が既定の軌道からはずれたようであった※4。


近現代のムスリムは、神授の優等生というイスラム信仰を抱く一方、ムスリム諸国の後進性、貧困、無能力という対照的状況に直面し、その矛盾に苦しむのである。


ムスリムパワーがヨーロッパ、欧米或いはキリスト教徒パワーに劣るとう認識は心痛むことであった。そしてその認識が、急進派と改革派を問わずそれぞれの世界観を形成するのである。アラブ知識人と政治指導者が直面し今後も直面していく問題は、アラブ人が自分達にふさわしい地位を如何にすれば歴史上とり戻せるか、である。


2.アフガーニ、アブドゥ、改革主義と過激主義


19世紀末から20世紀初頭にかけて登場したイスラム改革派のなかで、一番傑出した人物が、アフガーニ(Jamal al-Din al-Afghani,1839-1897)とアブドゥ(Muhammad `Abduh、1849-1905)である。二人は、ヨーロッパの植民地勢力に対抗する汎イスラム連帯を共同して呼びかた。二人は、“有害な推積異物”をイスラムから排除する努力の一環として、内部改革も呼びかけた。


アフガーニとアブドゥのつくった行動原理がある。これまですべてのイスラム擁護者が弁明に使ってきたもので「イスラムは無謬であり、欠陥は教徒にある」という内容である。この弁解者達によると、ムスリムがオリジナルの純粋なイスラムへ回帰した時、ムスリム社会の諸悪は一掃される。アフガーニとアブドゥは、とりわけ批判の目をスーフィズムイスラム神秘主義)に向けた。二人はこれを正統派イスラムからの逸脱、退廃と後進性の源泉と考えた。


スーフィズムは、教徒にアッラーへの絶対的帰依(tawakkul)を求めるのに対し、改革派はスーフィズムの神への従順と瞑想的アプローチこそが社会の衰退源であり、改革の障害であると考える※5。 アフガーニとアブドゥを含む近代の改革派は、中世の偉大なイスラム系学者タイミーヤ(Ibn Taymiyya,1263-1328)の教えを引用する。タイミーヤは、スーフィ達をイスラムからの逸脱者と非難した人物である。現代のイスラミスト達はタイミーヤを我等が師と言い、“イスラムの偉大な教師”(Sheikh al-Islam al-Akbar)と呼ぶ。



20世紀のイスラム思想にその特有な性格を残したのが、アフガーニとアブドゥで、その特徴は次の通りである。


欧米に対する二律背反的態度―敵意と賛美
※ 弁解的傾向―イスラムは無謬である。欠陥は教徒にある。更にこれといった欧米のアイディアは、コーランハディースをきちんと読んで解釈すれば、すべてこの二つにのっていることが判る。
ムスリム社会は、ムスリムが“敬虔な先達”(al-salaf al-salih)―預言者ムハンマドとその教友達―の生き方に戻れば、元々の力と繁栄をとり戻せる
スーフィズム反対の強い姿勢
イスラム改革が実効を伴なうためには、アラブ人の役割が重要とする認識。


以上がサラフィー運動の特徴である。ちなみにこの運動は、イスラムの先達(al-salaf al-salih)の例に従ったイスラムの修復、を求める。


アフガーニとアブドゥは長年協力しあった仲ではあったが、個性や性向は大いに違っていた。アフガーニはヨーロッパの植民地主義と戦うために汎イスラム政治統合が必要と考える。それに対してアブドゥはプラグマチックな内部改革を説いた。内部改革に対するアブドゥの関心は、1899年にエジプトの最高ムフティに任命された後、特にたかまった。


ムハマンド・アブドゥは穏健改革派の好例である。コーランに関する注解や神学書のなかで、アブドゥは現代世界に合うようにイスラムを解釈しようとした。特に強く廃止を求めたのが、ムスリム社会の一夫多妻制であった。コーランの該当箇所の解釈にもとづく主張であったが※6、 不幸にしてアブドゥの進歩的解釈は余り成功せず、今日でもアラブ諸国ではチュニジアを除き一夫多妻制は合法である。


同様に不幸なことであるが、アブドゥの穏健且つ開化的アプローチは、自分の教徒とムスリム大衆には受入れられず、昔の師であり協力者であるアフガーニの挑戦的政治行動主義の方が、大衆にはアピールした。


アブドゥが晩年を迎えた頃の一番弟子は、シリアの聖職者リダー(Rashid Ridha 1865-1935)である。リダーは引続きサラフィー思想の発展に努めたが、師のアブドゥとは全く違った方向へ走った。それは極めて政治色の強いもので、植民地主義イスラムの連帯とアラブの団結、そして勿論ユダヤパレスチナ“侵略”反対を呼びかけた。


リダーの弟子のひとりが、フセイニ(Hajj Amin al-Husseini)、後年エルサレムのムフティとなりナチドイツと協力して悪名を馳せた人物である。シリアの聖職者カッサム(Izz al-Din al-Qassam)も高弟のひとりであった。1920年、フランス当局の追求の手を逃れて、シリアからパレスチナへ潜入し、狂信的ムスリムを組織し、ユダヤとイギリスの“不信心者共”を手当り次第暗殺した。カッサムは1935年にイギリスの部隊と交戦し死亡した。彼の名を引き継いだのがハマスで、この過激派はアル・カッサム旅団と称する武装組織を有している。ガザからイスラエルの市町村への撃ちこまれるロケットにも、カッサムという名前がつけられている。


アブドゥの弟子には、ラジーク(`Ali `Abd al-Raziq)も含まれる。1920年代エジプトのアズハル大学で教鞭をとった人物で、極めて穏健な立場をとり、抜本的改革を呼びかけ、イスラムの宗教と政治権力の関係という重要問題に一石を投じた。著書「イスラムと政治基盤」(Islam and the Foundations of Goverment,1925)のなかで、彼はイスラムの宗教と政治権力の結びつきは絶対的なものではなく、それは預言者ムハンマド時代の特異な現象と論じた。この本が発行されると、エジプトの宗教界から猛烈な反発が生じ、ラジークはアズハル大を追われたのみならず、教育の場からを完全に追放された。勿論、この“異端”の書は、本棚から一掃される。


ジークの穏健改革路線は、不幸にして阻止され口を封じられてしまったが、リダーが説いた過激路線ははずみがついた。1928年、エジプトのアレキサンドリアムスリム同胞団が結成された。サラフィー精神でイスラムの若返りをはかるとし“イスラムこそ解決法”(al-Islam huwa al-hall)を合言葉に、イスラムの宗教法を国法としエジプトをイスラム国家にせよ、と要求した。イギリス、エジプト当局そしてユダヤ人に対して猛烈な敵意を抱いてきたことで知られる。


イスラム過激主義の教宣流布に大きな役割を果したのが、エジプトのムスリム同胞団である。ガザに設立されたパレスチナ人のハマス運動は、その分派のひとつである。オサマ・ビンラーディンの右腕であるザワヒリ(Ayman al -Zawahiri)は、青年時代ムスリム同胞団のメンバーで、その後エジプトのイスラムジハード運動に参加している。


3.汎アラブ主義の失墜とイスラミズムの勃興


アラブ世界には、欧米の影響をうけて民族主義という近代的概念が根づいた。これは一国民族主義、汎アラブ民族主義の二形態を持つ。後者は、アラブ世界に共通する言語と文化を基軸とし、アラブの統一を究極の目的とした。アラブの自己認識とイスラムとの間には緊密な結びつきがあったので、汎アラブ主義の方で―国民族主義(たとえばエジプト)思想よりずっと強い牽引力を持っていた。


アラブの世俗派インテリは、社会の近代化を求めつつ、宗教よりも民族主義をベースとした集団的共通認識を考えた。保守的な一般大衆も、この汎アラブ民族主義に共感できた。イスラムの遺産が沢山含まれていたからである。ウンマという言葉は、伝統的にイスラム運命共同体(Ummat al-Islam)という意味で使われてきたが、アラブ民族主義者達はこれをアラブ共同体(al-umma al-`arabiyya)と言いかえた。彼等は、アラブ共同体の敵に対するジハードを呼びかけた。それは、異教徒、不信心者に対するジハードを喚起するものであった。敵はユダヤ、イギリス、フランス或いはアメリであり、いずれも異教徒、不信心者の類でもある。このように、汎アラブ民族主義は、双方が、つまり近代化を望むインテリと宗教心の強く残る大衆が、受入れることのできる手段であった。


しかしながら、エジプト及びシリアでムスリム同胞団を支持するイスラム聖職者にとって、汎アラブ民族主義は目のうえのタンコブであった。そして、ナセル主義とバース党が確立されると、それは本当の敵になった。


汎アラブ主義の影響力は、1950年代から1960年代にかけてピークを迎えた。エジプトのナセル大統領がアラブに昂揚感を与えたのが、この時代である。アラブはやっと然るべき地位をとり戻したという気持である。エジプトのナセルそしてシリアのアサドは共にムスリム同胞団を弾圧したが、公衆の面前では気をつかい、イスラム尊崇の態度を示した。数ある写真のなかで、ナセルが白衣でハッジ(メッカ巡礼)の儀式をする姿をとったものがある。善きムスリムにふさわしい恰好で、よく知られた写真である。


1967年の六日戦争は、ナセル主義の崩壊をもたらしたが、アラブにとって一種の触媒作用をひきおこした。完敗は、宗教的意味を当然持っていた。ムスリム同胞団その他のイスラミストに関していえば、アラブ諸国軍の崩壊は、勿論悲しいことではあるが、反面において理解できる現象であった。彼等の目からみると、敗北はイスラムを棄てた罰なのであり、悔い改めと矯正の機会を与えたのである。1967年の敗北は、世俗的なアラブ民族主義、ナセル主義、バース党精神が無力であることを、証明したわけである。今やイスラムこそ解決法”という行動原則が、強力に前面へ出てくることになった。同胞団指導者のクトゥブ(Sayyid Qutb)は、1966年8月29日ナセル大統領の命令で絞首刑になったが、その思想は広く流布された。


1940年代、クトゥブは文芸評論家としてエジプトで少しは知られた人であった。もともと汎アラブよりはエジプト一国民族主義の信奉者で、当時書いたものを読んでも、イスラムという宗教上の共通認識一辺倒はどこにも見当たらない。しかし2年半のアメリカ留学(1948−1950)後、クトゥブは世界観を180度変えて、同胞団に加わるのである。破壊活動の科で9年間(1995ー1964)の監獄生活を送り、その後も入牢し、更に政府転覆陰謀教唆の科で裁かれ、遂に処刑されてしまう。


クトゥブは刑務所からせっせと書きものを送った。そのひとつが大々的なコーラン注解でコーランに寄り添って」(Fi Zilal al-Qur`an)と題する。彼のユダヤ人憎悪は大変なもので、注解のなかであらゆる機会を捉え、ユダヤは悪とか腐敗していると口汚くののしっている。偽書「シオン長老の議定書」をなぞって、ユダヤ人の世界征服陰謀説を唱え、非難しているのである。


クトゥブはイスラムの宗教法を国法にせよと呼び、ジハードの急先鋒となった。彼によると、ジハードはイスラムの外部の敵だけでなく、内部の敵にも敢行しなければならない。即ち、一見ムスリムにみえる支配者が、実は反イスラムで、これに天誅を加えるという認識である。先輩格のリダーと同じように、14世紀のイスラム学者タイミーヤ(Ibn Taymiyya)の著作をよりどころにしている。タイミーヤによると、重大な悪を犯し、或いは異邦の法(例えば非イスラム法)を適用するムスリムの支配者は、背教(murtadd)と変らず殺して当然である。つまり、この種支配者に対するジハードは宗教上の義務である。


クトゥブの説明によると、現代のムスリムは、1400年程の預言者ムハンマドとその教友達と同じように、敵意にみちた邪教の環境にある。ムスリム一色にみえるような国家でも、そうであるという。欧米文化の悪に染まり、物質主義、性的放縦、経済搾取などの現象があらわれ、彼いうところの文化上倫理上の新しいジャーヒリーヤ(Jahiliyya、野蛮な邪教)の様相を呈し、それはイスラム出現以前と変らない状況であるという。


4.ワッハービ運動


今日のイスラミズムのルーツを理解するためには、歴史を18世紀中頃までさかのぼり、東のアラビア半島に目を向ける必要がある。エジプトのサラフィー運動が起きる150年程、アラビアの真中にあるウャイナというオアシスでイラク、イランで学んだ若手のイスラム学者ワッハーブ(Muhammad ibn `Abd al-Wahhab、1703−1792)が、禁断の革新(bida)や異質の添加物のため、イスラムは衰退し腐敗していると断じた。400年ほど前の先達たるタイミーヤの著作に影響をうけ、イスラムが力を回復するためには、ムスリムは基本たるコーランハディースのみを聖典とし、“敬虔なる先達”を模範にすべきである、と説いた。彼が連合を組んだのが地方の小豪族イブン・サウド(Muhammad ibn Saud)、サウド家の始祖である。ここに、砂漠の王国とイスラムの力をとり戻そうとする宗教運動との統合が生じる。


18世紀のワッハービ運動とエジプトで起きた20世紀のムスリム同胞団は、二つともイスラムの回復を求め、イブン・タイミーヤの“敬虔なる先達(al-Salaf al-Salih)主義をベースにした。この類似性は決して偶然ではない。アルカイダ指導部に、この二つの運動の所産がみられるのも、偶然ではない。サウジ出身のビンラーディンはワッハービ教育の所産であり、その右腕たるエジプト出身のザワヒリ(Ayman al-Zawahiri)は、エジプトのイスラムジハード運動に加わる前ムスリム同胞団イデオロギーを身につけている。


5.今日の急進的イスラム


1979年11月4日、イランの学生達がアメリカ大使館を占拠し、アメリカ人を人質にとった。この行為はムスリム世界で歓喜して称えられた。不信心者、背教の徒に対するイスラムの勝利というわけである。イランの学生達が世界の超大国アメリカに一泡吹かせ屈辱を与えたのである。そしてそれは、イスラムの名で断じて行なえば、不信心者共の一蹴が可能という信念の証明、と受けとめられた。イスラム世界では少数派のシーハ派による行動であったが、そのようなことはどうでもよい。勝利は勝利という昂揚感がムスリム一般大衆の間に横溢した。世界を信仰者と不信心者の二大陣営に区別するところから、ホメイニのイランとほぼ全体的なムスリムの連帯がみられたのである。


しかしながらサウジの政権にとって、イランのイスラム革命がかちとった名声は問題であった。真のイスラムの後見人たるべきは、二つの聖地(メッカ、メディナ)の守護者たるサウド家、即ちワッハービ精神に従ったスンニイスラムである。彼等の見解によると、イスラムの覚醒を主導する資格があるのは彼等であって、異端のシーア派アヤトラ・ホメイニではない。ホメイニは不信心者も同様である。サウド家の放つ宗教的オーラは、汎アラブ及び国際社会では政治力として機能する。国内ではいうまでもない。彼等はこの宗教的権威を保持するため、イスラムの王座をめぐる闘争に勝利しなければならない。これはまさに全ムスリムの心と魂を勝ちとるための戦いであった。


サウジは、イラン革命がつきつける挑戦に対して、二重の行動をとった。即ち、1979年におきたソ連アフガニスタン侵攻に対して、ジハードを宣言し、それと平行して大々的なイスラム宣伝作戦を実施した。そのためサウジは数十億ドルの金を注ぎこみ、イスラム慈善団体を通して世界中にモスクとマドラサ(madrasa、宗教学校)を建てた。ワッハービ運動、イブン・タイミーヤ精神の普及のためである。サウジの政権は、モラルの弛緩を糾弾されていたので、ワッハーブイスラムの教宣は、国内対策の意味もあった。


過去25年世界中でワッハービ化が展開されたと言っても決して誇張ではない。その影響は世界中におよび、マンチェスターから大西洋を越えてサンディエゴ、上海からユーラシア大陸を抜けてオスローまでと、あらゆるムスリム社会に足跡を残した。


1989年、ソ連アフガニスタンから撤収した。この退却はイスラミズムにとって大きな勝利であった。イランのホメイニ革命から10年、スンニ・イスラムは不信心の背教徒たる共産勢力に勝利したわけであるが、当時アメリカは、ソビエト打倒にイスラムを利用できたと考えた。しかしイスラミストの目からみると、これは単独の戦いであり、そのようなグローバルなドラマはイスラムの究極の勝利を以て幕をとじる。裏を返せばアメリカを徹底的にたたきのめす迄戦いは終らない。


1990年代におきた一連のテロ事件は、イスラミストの暗躍を物語る。それには次の事件が含まれる。


※ 1993年2月26日、世界貿易センター爆破、死亡6  ニューヨーク
※ 1993年3月、複数のアメリカ人外交官殺害  パキスタン
※ 1995年11月、サウジ軍基地攻撃、死亡数十名  リヤド
※ 1996年6月、ダーランの米軍宿舎ホバルタワーズ攻撃、死亡数十、負傷数百名
※ 1998年8月、米大使館同時攻撃、ナイロビ(死亡アメリカ人12、ケニア人280)、ダルエスサラーム(死亡アメリカ人1、タンザニア人10)
※ 2000年10月、米駆逐艦コール号襲撃、死亡17負傷数十名  アデン近海


1998年2月23日、オサマ・ビンラーディンはザワヒリを含む4人の補佐と連名で、「十字軍及びユダヤ人に対するジハード宣言」をだした。これは、アメリカとその盟友達に対する全面聖戦の発動宣言である。「民間人軍人の如何を問わず、アメリカとその盟友達の殺戮は、ムスリム個々人すべての宗教的責務であり、場所を問わず出来るところで実行すべし」という※7。 この宣言の特異なところは、ビンラーディンとその一派がこのジハードは世界中のムスリム各員の個人的責務と発言した点にある。彼等は、イブン・タイミーヤを中心とする中世時代のムスリム権威者の教えをベースに、この決定をくだし、今日、ムスリムのおかれている状況が、決定を正当化するとした。


イスラミストのジハードは二つのグローバルな目的を持つ。第一は、ムスリム諸国にのさばる悪の政権の打倒である。表面上ムスリムの顔をしているだけの連中は、叩きのめして追いだし、その後に真のイスラムによる支配体制を確立するのである。もうひとつの目的は、不信心の背教徒代表であるアメリカとその盟友達との戦いである。


ビンラーディンのジハード宣言では、イスラエルユダヤ人が特別指名をうけている。宣言によると、1991年の湾岸戦争は“十字軍、シオニスト”共同謀議の戦争であり、アメリカが実施する中東作戦の目的のひとつは、「小さなユダヤ国家を助け、エルサレムを占領しムスリムを殺している事実から世界の目をそらす」ためである。


オサマ・ビンラーディンのジハード宣言は、単発であったわけではない。同様の呼びかけがおこなわれている。もっと強い調子の内容で、金曜日の説教が定期的にアラブ、ムスリム世界のテレビに生中継され、欧米へ流されることもある。説教は、「アッラーは不信心者を殺すように命じられた」として、ユダヤ人とアメリカ人の殺戮を奨励している※8。


イスラミストからみると、ムスリムはジハードという激しい戦争の最中にある。これまで考察したように19世紀から20世紀初めにかけてイスラムは欧米文化と出会い、そのトラウマからサラフィー主義がうまれ、やがてムスリム同胞団や、それに類似する集団が出現した。2世紀の時間をおいて二つのイスラム運動が生まれたことも、我々は見てきた。即ちワッハーブ運動とムスリム同胞団とその分派だが、いずれもイブン・タイミーヤを精神的父にいただき、世界を変えずんば止まぬ聖戦を、共通の行動とする。


イスラミストのジハードイデオロギー


1.イスラムとジハード


イスラムは、預言者達を通して神によって啓示された唯一の真なる宗教である、と自己規定する。その預言者とはまずアブラハムに始まり、モーセ、イエスと続き、最後に現われたのがムハンマドである。人間は二種に分けられる。信仰者即ちイスラムの信奉者、不信心者即ち非ムスリムである。その意味するところは二つある。第一、人間はひとり残らずアッラーの真の信仰を受入れなければならない。第二、この信仰を宣教流布しそのために戦うのが、イスラム共同体の責務である。不信心者は、イスラムによると二つに分けられる。偶像崇拝者或いは多神教信仰者(al-mushrikun)と、経典の民(ahl al-kitab)即ちユダヤ人とキリスト教である。


多神教の信者は、彼等がイスラムを受入れなければ死しかない。これはコーラン(第9改悛5)に明示してあるところで、“剣の章”として知られる。経典の民については、イスラムユダヤ人とキリスト教徒が神の啓示と神の律法を受けたことを認めるが、神の御言葉と聖典を歪曲した。よって不信心の背教徒と主張する。しかしながら、この二者は神の啓示をうけたのであるから、多神教徒には認められない選択を与えられる。即ち、イスラムの支配と保護のもとにある隷属民(ahl al-dhimma、ズィンミーとして、生きることができる。ムスリムは、彼等がイスラムを受入れるか人頭税(Jizya)を払うかを選択するまで、戦うことが義務づけられる人頭税は、隷属民になるための前提条件であると共に、屈辱の表示である。コーラン(第9改悛29)に明示され、“人頭税の章”として知られる※10。


世界自体は二つに分けられる。即ち、イスラムの家(dar al-Islam)と戦争の家(dar al-harb)である。後者はすべての未征服地を意味する。この未征服地をイスラムの家に編入するため、ジハードを敢行するのがムスリムの責務である。


ジハードという用語は全体的にどう理解されているのであろうか。答はすぐ見つかる。アラブの学校でどう教えられているのかを調べれば充分である。例えばヨルダン及びパレスチナ自治政府の高校(11学年)用教科書には、次のように書いてある。


「ジハードはイスラムの用語で、ほかの諸国で使われている戦争と同義語である。違いは次の点にある。即ち、ジハードは高貴にして気高い目的のため、アッラーのため(の戦争)であり、ほかの国々の戦争は、領土占領、天然資源奪取等々物質目的と卑しい願望を目的とした悪の戦争である」※11。


イスラムの信仰五行―信仰告白(Shahada)、礼拝、断食、巡礼、喜捨(Zakat)―と違って、普通ジハードは個人の義務ではない。イスラム共同体全体に課せられた集団的義務であり、特別な条件下でしか個々のムスリム全員の義務にならない。それには二つあり、第一はムスリムの支配者がジハードを宣言した時で、命じられた者は参戦の義務がある。


第二は、非ムスリムムスリムを攻撃したり或いはムスリム国家に侵攻した時である。ビンラーディンを初めとするイスラム過激派は、今日の状況がこれに該当すると主張する。その主張によると、イスラムは、精神的物理的に攻撃を受けている。不信心の背教者たるキリスト教徒とユダヤ人は、サウジアラビアパレスチナチェチェンといったイスラムの土地を侵略している。今やジハードはすべてのムスリムに課せられた個々人の責任になったという。


2.イスラムシャハーダ(殉教)


アッラーのための戦いで自己を犠牲にする思考(Shahada)が、ジハードと結びついている※12。 非イスラムとの戦いで死ぬ者はシャヒード(Shahid,殉教者)である。戦場の実戦で死ぬかどうかは問わない。ムスリムの男、女、子供は、イスラムの敵を向うにまわして直接、間接行動で死ねば、シャヒードとなる。積極的に殉教の死を求める者(istishhad)は、特に賞賛される。


コーランは、シャヒードに来世の褒賞を約束する。この光輝燦たる褒賞はいくつかの章で詳しく説明され、大いにうたいあげるのがイスラムの伝統である。シャヒードの褒賞は、死の苦しみなく(`adhab al-qabh)、審判の日を待つことなく天国に直行というだけではない。殉教者は家族縁者や友人を70名天国へ同行できる。


2003年10月ハイファ市のレストラン「マキシム」で自爆テロをやったハナディ・ジャラダットの場合も、この褒賞が“遺言と遺書”の中で明確にうたわれている。

パレスチナイスラム 

ジハードのサイトにのせられた遺言によると、
「慈悲深きアッラーの御名において、祈りと平安が人類の先達、我等が先達ムハンマドのうえにありますように、アッラームハンマドのために祈りと平安を与えられますように。


あの気高い方は(コーランで)、“アッラーの御為に殺された人達を決して死んだものと思ってはならぬ。彼等は立派に神様のお傍で生きている。何でも充分にいただいて”と仰有られた(第3イムラン家169)。まことアッラーのお言葉は有難い。


家族の者よ。世界の主が、聖なる御書で“忍耐強く堪えている者共には喜びの音信を伝えてやるがよい”と約束されているように(第2牡牛155)、必ず褒美をくださる。アッラーは根気強くやり通した者に天国を約束なさっている。


私の犠牲的行為をあてにせよ。アッラーの御嘉賞により家族全員が必ずむくわれる。私は、アッラーの教えのためには身を犠牲にしても自分の命は惜しくない。私はいつも聖コーランでいわれることを信じ、天国への川を渡ることを希求し、アッラーの御尊顔を拝しまぶしい光を見ようと願ってきた…」


ジャラダットの手紙には、「私の犠牲的行為をあてにしてアッラーの御褒美を待て」という言葉が4回もでてくる。家族、愛人、父そして母に触れた箇所である。シャヒードの死後、忌中や喪に服したりすることはなく、家族はお祝いをやる。母は結婚式と同じように喜びの言葉を述べ、参会者に菓子をくばる。


西側の人間にとって、ジハードとイスチシャハード(殉教者の死)はショッキングで理解の域を越える現象である。それでも何とか理解しょうとして、多くのコメンテーターが西側の人間に判る言葉で論理性を持たせ、説明を試みた。例えば、ヨーロッパのイスラムテロは、第2、第3世代のムスリム移民がヨーロッパで直面する失業、経済的苦境、フラストレーションが背景にあるとして、経済的社会的要因で説明しようとする


この説明は、世俗派の西側人士に馴染の概念をベースにしており、従って意味を成す。しかしそれは、肝心な点が抜けているのである。ヨーロッパ、アメリカその他の国で行動するイスラムテロリストの経歴をみると、上記説明に属さない階層であることが判る。例えば、マドリッドの列車爆破事件(2004年3月11日)の犯人達がそうである。車内で自爆したリーダーは、チュニジア出身の移民で、スペインの大学に籍をおき、スペインの政府奨学金をうけており、不動産屋も経営していた。メンバーのひとりはモロッコ出身の移民で、携帯電話店を経営していたし、3人目のメンバーも同じモロッコ出身で化学工業の学位所持者。4番目のメンバーはボスニア出身の建築学科生、スペイン政府の奨学金を貰っていた。


このように、“挫折した第2世代移民”観では、列車爆破の説明がつかない。ほかのテロ攻撃でもそうである。2002年4月のジェルバ島(チュニジア)攻撃、2003年5月のカサブランカ攻撃、数度に及ぶリャド攻撃、いや9.11事件のテロ犯19名のうち、挫折した移民や第2世代移民はひとりもいなかった。全員がアラブの学生か専門職の職業人であった(サウジ人15名、エジプト人13名、レバノン人1名)。
換言すれば、イスラミストのテロ行為の根源に彼等の信念体系があることを認めなければ、彼等の行動の性格や本質が理解できないということである。


ムスリム世界ではイスラミストのテロリズムが共感を得ている。しかし彼等の大々的ジハードの呼びかけは、大きな成果をあげていない。過激派イスラム組織はすべて秘密集団で、アラブ諸政府は自衛本能から、さまざまな自衛策を講じている。イスラムの宗教的観点から、非合法化しているところもある。しかしながら、このような非合法化は簡単な問題ではない。イスラムの第一世代(al-salaf al-salih、敬虔なる先達)に対する賛美は、全ムスリムが共通して抱いており、イスラミストに対するイデオロギー闘争は、彼等がこの先達の権威を前面に押したてるため、一段と難しくなるのである。


アラブの諸政府はいつも個有のイデオロギィー的矛盾に直面する。その治安部隊はジハード組織と戦い、一方において国立の学校やモスクは、アッラーのためのジハードを教育、宣伝流布し、そのジハード遂行を呼号するのである。


穏健派イスラム:勇気ある第一歩


穏健派イスラムは過激派イスラムの対極にあるわけではない。穏健派イスラムは体系的教義を持たない。それ相当の組織があるわけではなく、外部からの財政援助は僅かで、政府の支持もない。


今日、穏健なムスリムアラブの声が多く聞かれる。しかし、“穏健派イスラムの教義”と呼べるようなイデオロギー構造はなく、その輪郭を描くのはまだ難しい。改革の必要性を説くムスリム聖職者はごく僅かで、その声をあげている人の大半はジャーナリストや学者である。従って、穏健派イスラムというより穏健派ムスリムといった方が、より正確である。改革主義者は二種類の敵に遭遇する。即ち二正面の戦いである。イスラミストの激しい脅迫にさらされ、時には襲撃されることもある。一方独裁体制を批判するためアラブの政権からは迫害されるのである。


それでは、このアラブ改革派は如何なる見解を唱えているのであろうか。彼等はまず民主々義を求める。女性の権利、言論の自由も然りである。アラブムスリム社会は陰謀説をもてはやし、社会の悪は外部勢力(植民地主義シオニズムなど)がもたらしたといった話が横行している。アラブのメディアや政治思想にごく普通にみられる傾向であるが、改革派でこの傾向を批判する者もいる。


過激派を批判するムスリムは、通常その凶暴な行動―イスラムの名を汚す行動―に焦点をあてる。しかし、そのイデオロギィーまでの踏みこむことはしない。ましてや“敬虔な先達”という模範的性格のドグマには、疑問をはさまない。しかしながら、アラブ改革派思想家で、一歩前へ踏みだす者が増えていることも確かである。彼等は、イスラムの危機を最も基本的なところで考えようとする。その勇気ある人物四名の見解を、次に示す※13。


反イスラミストの聖職者としてアンサリ博士(Sheikh Dr.`Abd al-Hamid al-Ansari)の名があげられる。カタール大前イスラム法(Shari`a)学部長で、タリバンアルカイダ及びその同類の犯罪を非難するだけではなく、その犯罪行動を支持する聖職者や説教師も,容赦せずに責める。独裁政治の権力に迎合し、イスラム内部の悪を支持するのみならず、タリバンのジハードとサッダム・フセインのため青少年をけしかけているとして、聖職者達を批判するのである。


ガマル・アルバナ(Gamal al-Bana,1920- )、ムスリム同胞団創立者ハサン・アルバナの弟で、嘗ては同胞団のメンバーであった。その後労働運動のリーダーとなり、社会主義思想を抱いていた。今日彼は毅然たる態度で宗教改革を説き、現代のムスリムは、イスラムの基本たるコーランハディースへたち帰り、イスラム法を改革せよと呼ぶ。イスラム法の解釈と法理論の伝統そのものを完全に無視し、この伝統に頼ることなく、現代の生活の常識の命ずるところに従って、二つの基本聖典を解釈せよ、と主張する。アルバナによると、1400年に及ぶムスリムの法伝統に依存することは、足枷になるばかりか、コーランのもともとの意図と衝突することになりかねない。


サウジのヌケイダン(Mansur al-Nuqeidan,1970- )も穏健派のひとりである。サウジアラビアセミナリーで教育をうけ、リヤドの或るモスクでイマムを勤めたこともある。イスラミストグループのメンバーとしてさまざまな暴力的行動に関与し、ビデオショップの放火事件で裁判にかけられ、数年の実刑判決をうけている。入牢時代イデオロギーの180度の転換を遂げ、今や最も勇気ある過激派イスラムの批判家となった。サウジ政府はテロリズムと戦いながら、教育の現場ではテロリズムを培養しているとして、サウジの教育制度を非難している。アラブ世界で本当の改革がおこなわれるには政教分離が必要とも説く。ファイナンシャルタイムズのインタビュー(2003年7年19日付週末版)で、「我々はアタチュルクのような人物が必要」と述べている。


最も体系的且つ総合的改革思想を持つのがナブルシ(Shaker al-Nabulsi)である。彼の立場は最近だした論文に要約されている※14。 彼の主張によると、9.11はイスラム及びアラブ思想史の転機になり、この重大な挑戦をうけて立つには新しいリベラルなアラブの思想が出現する必要がある。ナブルシは「ニュー アラブ リベラル」について、そのイデオロギーのルーツは改革者として知られるアフガーニ、アブドゥやその後のアラブのリベラルな思想家にあると、と述べている。


ナブルシは「ニュー アラブ リベラル宣言」をあらわし、そのなかでガイドラインを列挙している。宗教に関する基本要求には「宗教テロの支配」に鑑みた宗教々育の改革、「あらゆるタイプの残虐な武装宗教・政治汎アラブテロリズム」との闘争、「神聖視された既存の価値観、伝統、法及び倫理観の精査、再吟味」の必要性、が含まれる。ナブルシは、非ムスリムに対する敵意を「1500年前存在した特殊な政治的状況に発するもの」として否定する。彼はイスラム法(Shari`a)を「この特殊な時代と場所のために導入されたもので、聖職者が言うような“歴史をつらぬく法”ではない」と考え、「今日自由な思考と科学思想の障害になっているのは、預言者自身が授けた宗教ではなく、ムスリム神学者と法学者がつくりあげたイスラム思想である」としている。 


ナブルシは過去礼賛、過去崇拝の傾向に反対し、アラブ人民に過去のしがらみから身を解き放なせと求める。「現在を理解するため」イスラム史を批判的立場で検討せよと主張、「新しい改革者は、19世紀後半から20世紀初めにかけて先輩達が避けてきた諸問題を、すべてとりあげなければならない」と言う。


変革を効果あらしめるため外部の支援を求めるべきかどうか。これは議論の多い問題であるが、ナブルシの立場は明確である。「苛烈な独裁体制を打倒し、専制、圧制のビールスを完全に抹殺して、アラブ民主々義をうちたてるため、外部勢力の支援を得ても、何の不都合もない。社会のエリートは無力であり、政党も脆弱で、この独裁体制を打倒して民主体制を敷くのは単独では無理」と主張する。彼はその前例があるとし、アメリカがヨーロッパでナチズムと戦かってヨーロッパを支援し、第二次大戦で日本の軍国主義と戦った例をあげている。


パレスチナイスラエル紛争については、ナブルシは話合いによる平和的解決法を支持し、双方の将来のため、イスラエルとの完全な関係正常化が必要と主張している。


ナブルシは、女性の権利についても完全な男女同権を主張し、「アラブ女性の解放のアラブ型モデル…」として、チュニジア個人地位法1957の導入を求めている。


結び


過激イスラム或いはイスラミズムは、組織化された勢力であり、包括的な教義を持ち資金も潤沢である。その支持者、追随者は欧米文化を敵視し、燃えたぎるような憎悪感を抱いている。狂信的な使命観を持ち、究極において勝つと確信している。この勢力とは、断固として戦わなければならない。


それとは対照的に、アラブの改革派は組織化された勢力になっていない。派といっても個人レベルのことであり、孤立している場合が多く、個々人の見解もばらばらである。政治的支援はなく資金援助もなく、国では迫害されている。アラブ社会に改革が根づくためには、西側が彼等の発言に耳を傾け、激励し支持する必要がある。


過激派イスラムは脅威であり危険な存在である。一縷の望みは改革派にある。
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※1 フランス語でいうIslam integristeは英語でいうイスラミズムに相応し、過激イスラムの意味で使われるようになった。
※2 例えば9世紀中期アッバース朝のカリフムタワッキル(Abbasid Calif Al-Mutawakkil)は、ズインミー(隷属民、非保護民)の地位にあるキリスト教徒、ユダヤ人全員に識別用の衣服着用を命じた。それは、彼等を差別し屈辱感を与えるための措置、であった。スペイン、北アフリカを支配したイスラムは、11世紀のムラビート、12世紀のムワッヒド朝は、その指導者(前者Murabitun、後者Muwahiddun)がキリスト教徒とユダヤ人を迫害した。それとは逆にオスマントルコ帝国下では、ユダヤ人とキリスト教徒は比較的恵まれた環境にあった。当時ヨーロッパで少数民族が味わった状況と、対照をなす。
※3 MEMRI Special Dispatch �・476(2003年3月5日付)を参照。引用の詩人はAl-Tirrimah ibn al-Hakim al-Ta`i(660-743)。
※4 カルロヴィッツ条約(1669)の締結の結果、早くも18世紀の初めトルコはムスリムキリスト教世界の力関係が変ったことを認識し、改革が必要と考えるようになった。その結果ヨーロッパの軍事技術を導入しようとした。しかし、この危機感はムスリムエリートの間にひろがらず、19世紀をまたなければならなかった。
※ 5 奇妙なことに、イスラム研究者や宗教に救いを求める欧米人が関心を寄せ賛美したのは、このスーフィ運動であった。
※ 6 コーラン第4女3。
※ 7www.fas.org/irp/world/para/docs/980223-fatwa.htmを参照。
※ 8 MEMRI Special Report �・25(2004年1月27日付)を参照。皆殺しを正当化する現代イスラミストイデオロギーを詳述。
※ 9 そのくだりは第9改悛5で、「だが、(四ヶ月の)神聖月があけたなら、多神教徒は見つけ次第、殺してしまうがよい。ひっとらえ、追いこみ、いたるところに伏兵をおいて待伏せよ。しかし、もし彼等が改悛し、礼拝の務めをはたし、喜捨も払うなら、その時はにがしてやるがよい。まことにアッラーはよくお赦しになる情深い御神である」とある。
※ 10 コーラン第9改竣29で、「アッラーも最後の日も信じようとせず、アッラー使徒ムハンマド)の禁じたものを禁断とせず、また聖典をいただいた身でありながら真理の宗教を信奉もせぬ人々に対しては、進んで貢税(Jizya)を差出し、平身低頭する迄はあくまで戦い続けよ」とある。
※ 11 PA教育省編「イスラム教育」(Al-Thaqafa al-Islamiyya) p208.2003年刊ラマラ。
※ 12 シャハーダ(Shahada)字義は「証拠」、「証言」で、二つの意味を持つ。第一はイスラム信仰告白第二は大シャハーダで、アッラーのための戦いにおける自己犠牲、即ち殉教
※ 13 アラブ/ムスリム世界には改革及び改革派に関する文献が数百ある。詳しくはMEMRIのムスリム世界プロジェクト http://www2.memri.org/refom.htmlを参照。
※ 14 リベラル派のインターネットサイトElaphに掲載され、2004年6月22日付Al-Siyassa(クウェート)、Al-Mada(イラク)、Al-Ahdath Al-Maghribiya(モロッコ)に転載された。
著者のメナヘム・ミルソンはヘブライ大名誉教授(アラブ文学専攻)でMEMRIの学術アドバイザー。本稿はヘブライ大における講演(2004年5月31日)をベースにしている。

(引用終)