ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

学恩はいつまでも

尾崎知光先生(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080220)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091218)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091220)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091221)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091222)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100106)のご係累について。

ウィキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E7%9F%A5%E5%85%89)の転載。

尾崎知光(おざき さとあきら、1924年1月25日 - )は、日本の国語学者・国文学者。愛知県立大学名誉教授。専攻は国語学史・国学・古代文学。
愛知県名古屋市生まれ。尾崎忠征、尾崎良知の子孫。1949年東京大学文学部国文学科卒業。名古屋大学大学院、愛知県立女子短期大学講師、愛知県立女子大学助教授、愛知県立大学教授、88年定年退官、名誉教授。


単著


•『和泉式部日記考注』東宝書房 1954
•『近代文章の黎明 二葉亭「浮雲」の場合』桜楓社 1967
•『源氏物語私読抄』笠間書院 1978 笠間選書
•『国語学史の基礎的研究 近世の活語研究を中心として』笠間書院 1983 笠間叢書
•『古事記考説』和泉書院 1989
•『国語学史の探求』新典社 2012 


編纂


•『鎮国守国神社蔵本三宝類聚名義抄』未刊国文資料刊行会 1965
•『古事記』白帝社 1972
本居宣長『菅笠日記』1982 勉誠社文庫
•谷川士清『和訓栞 大綱』1984 勉誠社文庫
•『白氏長慶集諺解』森孝太郎共編 1986 和泉書院影印叢書
本居春庭『詞八衢』1990 勉誠社文庫
•栗田直政『源氏遠鏡』野田昌共編 1991 勉誠社文庫
•草鹿砥宣隆『古言別音抄 草鹿砥氏旧蔵本』1991 和泉書院影印叢刊
•『古事記 全注』おうふう 1995
•尾崎忠征, 尾崎良知『旅雁秘録』私家版 2003


•尾崎知光教授退職記念 愛知県立大学説林 1988-02
•『国語学史の探求』著者紹介

(引用終)

ご先祖については、ウェブサイト(https://kotobank.jp/word/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E5%BF%A0%E5%BE%81-1063120)の転載を。

尾崎忠征 おざき-ただゆき
1810−1890 幕末の武士。


文化7年6月18日生まれ。尾張(おわり)名古屋藩士。藩主徳川慶勝(よしかつ)に重用され,京都留守居役をつとめる。安政5年幕府による慶勝譴責にともない減禄,蟄居(ちっきょ)となった。文久2年復職。維新後名古屋藩少参事となった。明治23年3月9日死去。81歳。通称は大之助,八右衛門,八衛。

(引用終)

https://kotobank.jp/word/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E8%89%AF%E7%9F%A5-1063149

尾崎良知 おざき-よしとも
1840−1901 幕末-明治時代の武士。


天保(てんぽう)11年6月24日生まれ。尾崎忠征(ただゆき)の3男。尾張(おわり)名古屋藩士。養子となり荒川甚作と名のる。小姓頭取などをへて用人兼勘定奉行をつとめる。尊王派の金鉄党に属し,慶応3年新政府参与。4年熱田神宮奉行兼船奉行となる。明治19年復籍。晩年は尾張徳川家顧問。明治34年9月7日死去。62歳。京都出身。通称は源三郎。号は敬斎。

(引用終)

尾崎知光先生は、私の国文学科の卒業論文の指導教授でいらっしゃいました。共通一次試験導入前なら、愛知県立大学の国文学科の尾崎知光先生と言えば、誰もが一歩退くような方でした。
大学院の面接試験の際にも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150210)、「指導教授はどなたですか」と問われ、お名前を申し上げた途端、「ほう」という感嘆の声が上がったことも、印象深く思い起こすところです。

ご年齢は最長なのに、物の考え方や世の中の動向には、非常に柔軟で明るく、そのことに驚きと感銘を受けた学部時代を、今も感謝のうちに懐かしく思い起こします。
それにしても、ここ数日、何の気なしに検索で調べたところ、このようなご家系でいらしたことを知り、改めて驚愕と畏敬の次第です。

先生は、名古屋大学にも教えに行かれていたのですが、学生時代に、卒論のご相談のために研究室へ伺った私におっしゃったには、「入学時点の試験の点数では、確かにあそこに進んだ学生の方がよかったかもしれないが、卒論などを見ると、うちの学生の方が、遙かにしっかりしたレベルの高い内容に仕上げている」とのことでした。
院に合格した時も、恐らくは(気を緩めることなく、絶えず刻苦勉励を)の諭しからでしょうが、「今年だから受かった。来年なら落ちたかもしれない」と、静かに厳しく釘を刺されました(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091219)。
あれ以来、新年の和歌を手書きで記されたお年賀状も頂戴しております。
もう一点、忘れ難い思い出としては、学生時代にドイツ語にも夢中だった私は、NHKラジオ・ドイツ語講座テキストのリスナー兼読者の欄“Brief Taube”に投稿し、冷戦期だったのに、「ライプチッヒのペンフレンドを訪れてみたい」などと、無邪気に書いていました(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071023)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080506)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091110)。ライプチッヒに関しては、幼稚園から習っていたピアノのバッハやメンデルスゾーンの楽譜の解説でも読んでいましたし、ドイツ文学を少し読めば、ゲーテだのルターだの、自分では知っておくべき場だと思ったからです。
当時のラジオ講座は、今のおちゃらけた庶民ムードとは違い、テキストも硬派で真面目な読解文が含まれ、講師の先生も熱心でした。投書欄には、今なら「個人情報」でしょうが、恐らくは、ラジオで独学している人々の交流の場も兼ねていたのでしょうか、投稿者の住所まで掲載されており、早速、ライプチッヒ訪問を思い留まるよう、やんわりと諭す、ありがたい助言のお手紙が数通、届きました。東独には言論の自由がないこと、日本に遊びに来るようになどとは書かないこと、まだ18歳で若いのだから、もう少し文通を続けながら幅広くいろいろなことを学び、それから判断してもいいのではないか、というものでした。
何と、その中には冒頭の尾崎知光先生のご友人だという名古屋有数の高校教諭の方まで混じっていたのです。
尾崎先生がご存じだったかどうかは不明です。少なくとも、若気の至りというのか、無謀な冒険心というのか、そんな私の気楽な投書に対して、学校教育全般や大学やメディアを通したマルクス思想の影響を苦々しく思っていらした先生の親心のようなものだったのでしょうか。直接には何もおっしゃいませんでしたが、まさかご友人が目敏く見つけて、ご多忙の中、わざわざ温かくご教示くださったことは、今でもありがたく思い起こします。
目上の方は自分よりも幅広く何事もご存じだから、ご忠告には、その深い意味がわかってもわからなくても、素直に耳を傾け、じっくりと考えることだ、という教訓を、ここで学びました。
だからこそ、名古屋出身なのに「徳川って、あの徳川ですか?」などと平気で抜かした人が直接間接に関わっていることであろう、最近出版されたというエスペラント事典を見るのが怖くて見ていない(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150217)というのは、皮肉でもあり、憂慮するところでもあります。