ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

リベラル派アラブ人の見解

メムリ」(http://memri.jp)より
Special Dispatch Series No 2239 Feb/18/2009

アラブ・ムスリム世界は非ムスリムが加害者の時にしか人権侵害を非難しない―アラブリベラル派の意見―

 アラブ・ムスリム世界は、ガザにおけるイスラエルの行動に対して、一斉に非難し、戦争犯罪の廉で裁判にかけよと要求した。これについて、アラブのリベラル派はアラブ人とムスリムを偽善者であると批判。リベラル派のウェブサイトwww.elaph.com が、2本の批判記事を掲載した。ひとつはエジプトのリベラル派ゴーブリアル(Kamal Ghobrial)、あとひとつがクウェートのリベラル派スルタン(Fahker Al-Sultan)の意見である。アラブ・ムスリム世界は、アラブ人やムスリムが非ムスリムによって被害をうけると、途端に人権侵害とか残虐行為だと騒ぎだし、一斉に非難する。ところが、被害者が非ムスリムであったり、或いはムスリムが同胞のムスリムを攻撃した場合、見て見ぬふりをする。サッダム時代のイラク、今日ではスーダンダルフールが、その例である、と2人は主張する。この2人の評論家は、このダブルスタンダードが他者特にユダヤ人に対する憎悪に起源を発する、と論じる。スルタンは、他者を拒否する硬直した姿勢ユダヤ的態度を指摘し、この姿勢なり態度なりを煽りたてるうえで、伝統的なイスラムのメンタリティと、そのメンタリティを利用するポリティカルイスラムの果す役割を強調している。以下2人の論文内容である。
・バシルやサッダム・フセインの悪行に沈黙する選択的良心
「特にムスリムの血が流れる時には、熱烈果敢に人権(擁護)云々を口にする(英雄達が)いる。この勇敢なるジハーディストによると、(ムスリムの)血だけが尊い。他者の血は何の価値もなく、その血が流れても良心の呵責は感じない。それだけではない。ムスリムが血を流すのは、供犠の一種で、これを通して天国へ行けるのである
 この人達に言いたい。(スーダンのバシル大統領Omar Al-Bashirは)、自分と同じスンニムスリム人民の血を流したことで非難されている。大統領時代無辜の人民多数に対し犯した罪により、遂に正義の手がのびて、逮捕された。この犯罪行為に全世界が怒った。例外は勿論アラブ人である。批判しなかった。アラブ人は、特定の条件下のもと、意図的煽動に反応する形でしか怒らない。
 ムスリム及びアラブの首都或いは都市で、反バシルのデモがあるだろうか。人民が街頭にくりだし、バシルを国際法廷に引きずり出し、犯した罪にふさわしい罪を与えよ、と要求する声があるだろうか。
 ガザの子供を初め同胞の血が流れ、これに対して我々は感情的反応を示した。この気持のたかぶりが収まる頃、我々は今年2度目の(イデオロギー的)Uターを目撃することになろう。テロリズムを支持する(アラブのテレビネットの)復讐の天使がUターンして、人権擁護のスローガンを放り投げ、被告(バシル)の弁護運動を始めるに違いない。いやそれどころではない。バシルの犯罪は言いがかりで、アラブとムスリムに対する世界陰謀の一環と主張するだろう。
 外部の世界が時折り目撃するアラブとムスリムの怒りは、本当に人権意識とパレスチナ人との連帯に端を発するものであろうか。答がイエスというのであれば、ダルフールの悲劇に対して同じ反応がなければならない…。しかしながら、残虐行為に対するアラブの反応は選択的であることが判る。つまり加害者が誰かによって違ってくる。
 パレスチナ人はシオニストそして敵アメリカから被害をこうむっている…一方ダルフールの人民は、人民の指導者(スンニムスリムである)から被害をこうむっている。同じムスリムの被害であるのに、前者には非難の嵐、後者の対しては何とも言わない。つまり、前者に対する支持は、パレスチナ人に対する同情からではなく、他者即ちシオニストキリスト教徒に対する憎悪に由来する。
 イラククルド族とシーア派住民を虐殺し、侵攻したクウェートでも住民を殺戮した虐殺犯即ちサッダム・フセインが…アラブの英雄、盟主とみなされた頃、我々は彼の犯罪を無視していたのである。そして誰か(非ムスリムが)我々を死の牙から救い出す段になって、初めて目を覚ますのである…。
 もうひとつの例がムスリム同胞団である。今日、同胞団はエジプト各市で数百数千の住民を募り、ガザ住民のために金を集めている…ところが、彼等やイスラム集団(Gama'a Al-Islamiyya)或いはイスラム聖戦は、バシルとサッダムの犯罪には、眉ひとつ動かさなかった。それどころではない。かれらは、エジプトでテロを教唆煽動し、住民、兵隊、治安要員を殺す。特にコプト派と外国人を目の敵にして殺すのである…」※1。
・アラブ・イスラム世界の人権蹂躙を無視しパレスチナだけにこだわる理由
 論文の中でスルタンは、伝統的なポリティカルイスラムとその指導者を他者特にユダヤ人に対する憎悪煽動の廉で非難する。そして、アラブ・ムスリム世界が人権侵害を非難するのか、それとも無視(或いは教唆煽動)するのかどうかを決めるのは、加害者の帰属にかかわる問題と論じ、次のように主張した。
「アラブとムスリムの間にみられるポピュラーな宗教的世界観の本質は何か。つまり、ムスリムを拒否する宗教原則によって是認される傾向の本質は何か。それを調べる格好の例が、レバノンで起きた2006年夏のイスラエルヒズボラ戦争である。この傾向は、イスラムの宗派を問わない。共通する伝統であり、ポリティカルイスラム(のイデオロギー)に顕在し、ヒズボラの政策と行動に端的に表出している…。
 (2006年に)ヒズボラが大々的な支持を得たのは、自然で率直な反応であったのか。それとも敵がイスラエル即ち‘ユダヤ人種主義宗教国家’であることに起因するのか。恐らくこれは、ポリティカルイスラムの伝統的世界観と関係がある。つまり、ポリティカルイスラムが他の宗教特にイスラエルユダヤ人を見る目と関係があるのではないか。
 実際問題として…ムスリムとアラブは何故レバノン人とパレスチナ人の命運だけを問題にするのであろうか。イラク人、スーダン人、アフガン人、ソマリ人等々ほかのアラブ、ムスリム人民が、比較にならない程ひどい迫害にさらされ、テロや戦争に苦しんでいるのに、その命運には左程関心を示さないのは、何故か。
 宗教上の伝統的世界観は、いつも政治(勢力)に操作されているが、ユダヤ人やイスラエルを向うにまわした闘争なら何でも例外なく宗教上からの合法性をひそかに是認してきた。それはまたアラブとムスリムを独善性で汚してしまうのである。そのため自己の後進性や人殺しも(自動的に)他者、即ち外国人、非ムスリム特にユダヤ人のせいにしてしまうのだ。
 アラブ諸国は、レバノン社会とパレスチナ社会を除けば、‘敵’イスラエルと対決してはいない。彼等が戦っている相手は国内の敵である。従って、パレスチナ人の命運に対する彼等の関心は本当のところゼロに近い…。
 1990年、クウェートを侵略し、同国を破壊した時、サッダム・フセインは自己の行為を意図的にパレスチナイスラエル紛争に結びつけ、エルサレム解放の道はクウェートを経由すると言った。ムスリムのポピュラーな考え方は、伝統的歴史的宗教的世界観に根ざし、ユダヤ人やイスラエルに対する敵意を増幅する要素が含まれている。サッダムはこれを知っていたから、上記のような手を使ったのである。
 このやり方でイラクの暴君は…アラブとムスリム人民の支持をとりつけた。特にこの伝統的宗教的世界観を信奉するスンニ派の心に訴えた。しかしながら同時に、サッダムは、うっかりして、政治的に操作された信心とこの世界観の内容する欺瞞と荒唐無稽性を露呈してしまったのである。つまりサッダムは、‘君達の兄弟を支持せよ。兄弟が侵略者か侵略された者かの如何を問わない。特に敵がイスラエルの場合は、とにかく兄弟を支持せよ’という原則を口にしたのである。
 ここで我々は自問しなければならない。自家栽培の迫害、侵略、テロリズム、暴政そして過激主義の犠牲になっている、ムスリム人民の命運はどうなのかと。このムスリム人民は己の抑圧的独裁政権にくいものにされているのに、何故(レバノン人やパレスチナ人のように)支援をうけられないのか。
 ポピュリストの名に恥じぬイスラミスト達は、パレスチナ人やレバノン人の人権を侵害しているとして、アメリカとイスラエルの政策や行動を攻撃する。ところが、アラブ・イスラム諸国における人権蹂躙には口をつぐんでしまう。例えばほとんどすべての刑務所で日常茶飯事におこなわれている拷問や残虐行為に対して、沈黙する。女性や子供の権利、外国人労働者の権利、個人としての政治及び社会的権利を含め、ありとあらゆる人種侵害があるのに、沈黙するのは何故か。
・加害者がアラブ、ムスリムの時は沈黙
 アラブとムスリムの個人としての尊厳が同じ兄弟によって侵害されているのに、‘加害者’がイスラエルの時だけ何故声高になるのだろう。人権擁護と称して何故人種差別をするのか。迫害の結果は同じであるのに、迫害する敵を区別して一方を非難し、片一方には何故沈黙するのか。
 これは、伝統的な宗教世界観とポリティカルイスラムの欠陥に由来する。この種世界観を捧持し解釈するイスラム法学者の責任は重い。この差別的アプローチは、非人間的人種主義としか言いようがない。このアプローチの推進者は、迫害者とさまざまな迫害行為に声をあげるのではなく、ユダヤ人の行為のみに反対する。それが宗教的世界観にぴたりあてはまり、ポピュリストとしての政治目的にかなうからである。
 このアプローチを守り育てるには、反イスラエル闘争が恰好の場である。この場のなかで権威主義的宗教スローガンが大いに鼓吹される。すべての危機が、宗教的真理を欠くものと絶対的宗教的真理をもつものとの闘争として位置づけられる。シャリーアによれば、この真理は、たとい国家や社会の利益に反し無辜の人民の命を多数犠牲にしても、死守すべきものである。
・二者択一の世界観
 イスラエルのかかわる紛争があれば、必ず政治的に操作された伝統的宗教的メンタリティが顔をだす。そしてそれは、アッラーの代表たる信仰の人々と、サタンの代表たる裏切り者、手先、無信仰の人間、多神教者との二者対決の形を必ずとる。つまり、真理の勢力と偽りの勢力の戦いとして認識し、宗教上の言葉を鞭としてこの認識を強要する。ユダヤ人とムスリムの決定的宗教対決として持ちだし、出るべき批判も押さえてしまうのである…。
 宗教スローガンと神秘的な幻想にコントロールされたアラブ諸国とアラブの社会では、この種の伝統的宗教的世界観が幅をきかせ、それを推進する者共が、非ムスリム特にユダヤ人との対決に大いに利用する。そして真理の担い手であるムスリムにつくか、偽りの代表側につくかの二者択一をせまる。そこには中間の立場を許す余裕はない。別種の選択肢もない。
 彼等の意見によれば、個々人は二つに色分けされる。シオニストとその手先そして裏切り者か、アッラーを信じ政治的路線を引いたイスラムの道に従い、アッラームスリムに勝利を与え、ユダヤ人とその国家の抹殺を確信する者かのどちらかである…。
 2006年夏ヒズボラが2名のイスラエル兵を拉致し、(今回は)ハマスが御粗末なロケットを(イスラエルへ)撃ちこみ続けて、戦争のきっかけをつくった。この二つの行為は、まっとうで客観的な批判の対象にならないのであろうか。
 更に我々は、この二つの運動と指導者そしてそのイデオロギーを批判の対象にしてはならないのであろうか。この宗教集団の政治行動には目をつぶり、イスラエル側だけを口汚くののしり非難するのが、正しい道なのであろうか。
 (この二つの集団は)、自分達の政策と行動が、高遠なる信念にもとづくと唱える。そしてそれは、真にして根源的な神の言葉に由来するから、批判の対象にならないと主張するのである」※2。

※1 2009年1月13日付www.elaph.com
※2 2009年1月12日付同上
(引用終)