快気祝い
昨夜は、ようやく抜糸の運びとなった主人が、快気祝いと称して、自分でチョコレートとフルーツを買い込んで、うれしそうに帰ってきました。
これでようやく、私もほっと一息、といったところです。本人が一番疲れたでしょうが、私の方も、予感が当たってしまったというショックと、緊張に満ちた最初の手当てが済んだ安堵感とが混じり、じわじわと疲れが襲ってきて、本当に当惑した一週間でした。
「今回のことでは、ほんとに迷惑かけたから...」と、素直に反省しています。コモ料理(私の作った野菜たくさん栄養満点の食事を、我が家ではこう命名しています!参照:2008年3月16日・3月19日付「ユーリの部屋」)をたっぷり食べさせ、少しでも早く長く寝かせるように心掛けたら、「傷も、ちゃんと手当てすれば治るんだね」と感激していました。
当たり前のことのようですが、進行性難病患者の心理としては、深い言葉です。だって、薬を飲んでいても治らないどころか、どんどん症状が進んでいく状態を、かれこれ10年も維持し続けてきたのですから。転倒でできた肩と膝の大きなすり傷も、膿が出て痛いのを知って、本人もがっかりしていたのです。「もう、こんな体になっちゃったよ」と。
でも、毎日消毒して、薬を塗っていくうちに、確かに痛みがとれ、赤あざが小さくなって、きれいな肌に戻っていくのを見て、勇気づけられたようでした。これは、心理的にも、とても大事なことです。
「これからは、しなやかにいこうな。かたくなに意固地になってかんばると、ポキンと折れちゃうから」と言うと、「うん」と、これまた素直にうなづいていました。
それに、これは私に言えることですが、今後は、研ぎ澄まされた感覚から、本質をますます大事にしていこう、と思います。元気だと余裕があるので、根拠なく威張り散らしたり、いわれなき優越感を持ってみたり、自分にも人にも、余計なことを言ったりしたり考えたりする傾向が、概してあるのではないでしょうか。その点、私達には、もうそんな余裕がないのですから、それこそなりふり構わず、社会の中での位置づけや当座の評価なんてものも当てにせず、真に自分達が重要だと思う価値観に沿って、暮らしを貫いて行かなければ、と実感します。
難病患者を抱える家族は、神経が大変敏感になっています。私がたびたび、このブログで書いてきた愚痴も、たぶん、言っている本人は気付かないか、それこそ元気そうに見える私の表面だけを見て、「ちょっといじめてやろう」という悪意を出すから、そういう結果になるのでしょう。
単純な勧善懲悪は近代以前の価値観だとはいえ、困窮している人を冷笑する人は、自分がその立場になったらどうするのかという配慮がない点で、あるいは、自分だけはそんなことにはならないと思い込んでいるだろうという点で、極めて浅はかだと思います。