ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

中東アラブ問題の一総括

チャンドラ・ムザファー教授の来日講演の夕べから、9.11以降の日本の大学における小さな経験と私なりの回顧を綴った(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160118)。
これに関連して、日本から見た中東アラブ問題の総括の一つとしては、中東世界で長らく外交官を務められた野口雅昭先生の最近のブログが参考になると思う。
議論のための議論、自己を主張するための議論の吹っ掛け合いではなく、現地経験に基づく観察と、しっかりした文献調査の積み重ねこそが物を言う。
野口先生の過去ブログ引用のリストはこちらを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130911)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150129)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150130)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150201)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150202)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150204)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150214)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150222)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150317)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150318)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150319)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150524)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151101)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151115)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151116)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151209)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160117)。

http://blog.livedoor.jp/abu_mustafa/archives/4997705.html#comments


・彼らの体制は、英仏等の植民地支配の下での支配機構に、冷戦で彼らが親ソとなったために模倣したソ連、というか社会主義的体制が組み込まれ、ますます抑圧的になり、非効率となり、20世紀後半の変動する世界に対応できなくなっていたが、それがさらにソ連の崩壊で、彼らも体制の危機に直面。


・その典型がシリアとイラクだが、そのほかの国も、非効率で抑圧的な体制下で、経済危機、独裁者の後継者問題という形で、体制の矛盾が噴出してきて、それがチュニジアという最も弱い(何しろここには正統性の根拠などないのだから!)ところから始まったアラブの春が連鎖反応的に、燃え広がっていっただけのことか。


・70年代以降、アラブ民族主義政権が正統性を失っていく過程で、アラブ社会全体にイスラムへの回帰という現象が広まっていたことだと思う。要するに、アラブ人の多くは、幼少のみぎりからアラブ文明の栄光ということを繰り返し教え込まれているのだが、反面現実の政界では、中東は欧米の植民地、反植民地になっていたところ、これに対する対応としての、親西欧的王政と議会政治による金持ちのための民主化が失敗し、アラブ民族主義の軍人たちにより否定され、その軍人の正統性も怪しくなってくると、アラブ人にとって、結局頼りになるのは自分たちの伝統、すなわちイスラムだということで、70年代以降ほとんどのアラブ社会がイスラム回帰、保守化していたように思う。


60年代のカイロというか、エジプトなどの都会では、西欧的教養とか他の宗教に寛大な雰囲気が残り、カイロ大学などではミニスカートもいたり、政府の会合ではワインも出されたり、街でも大っぴらに飲酒していたが、80年代に行ったら、カイロ大学の女子学生が頭巾をかぶり、ミニスカートなどとんでもないという雰囲気に代わっていた。


ムスリム同胞団は、この記事が言っている福祉、教育、に力を入れ(もっとも彼らは創設当初以来いわゆる社会の底辺に対する奉仕活動に力を入れてきていた、90年代に入ってから、などという付け焼刃ではない)、多くの支持を獲得していたが、同胞団が選挙を通じて(合法的政治活動を通じて)政権取りを目指したことに対して、不満の強硬分子が分離し、過激派組織を作り、各地でテロ活動を行っていき、その連中がアルカイダでも大きな役割を果たしていた、というのが90年代までの中東だと思う。


・都会のいわゆる世俗主義民主化運動は、このような社会的な流れの中では力を持ちえず、所詮は中流階級のお坊ちゃま、お嬢様のお遊びであったように思う。それは言い過ぎとしても、彼らは効果的な政治勢力としては組織化されていなかったし、国民の底辺に影響を広げようなどという努力はしていないと思う。


独裁政権が倒れた後、イスラム勢力が力を得るのは物理的必然で、それがエジプトでもチュニジアでも起きた


・トルコも、当時の影響力はなくなり、今やシリア問題の泥沼に足をとられ、クルド問題を抱え、中東の星どころか、国内基盤の維持に躍起にならざるを得ない状況で、国際的には評価の高いチュニジアだって、経済と治安の悪化を抱え、民主政治の常である政党間、政党内の内部闘争に明け暮れて、とても新しいビジョンを示しているなどとはいいがたい。


・ISが支持を集めているのは、上記の政治的イスラム主義勢力から分離して、武力による社会の改革を要求した、アルジェリアのGIA、エジプトのジハード団、イスラムグループの流れを汲んだ、過激主義が一部の若者たちをひきつけたというのが正しく、またその大きな背景がイラクとシリアの大きな部分を占拠して、国家的色彩を強め、資金も豊富に手に入れ、旧バース党イラク軍の有能な連中をっかえこんだことにあると思う。


・おそらくは、欧州の責任かと思うが、多くの欧州の国で阻害されたと感じている若者が大勢いて、彼らがISに参加して、宣伝広報等の面で威力を発揮していることも大きいと思う。


ISというのは同胞団のなかの最強硬分子で、ムスリムであっても正しくない指導者はこれを倒す(殺す)のが正しいムスリムの道であると説いて、ナセルに処刑されたサイイド・コトブの流れをくむ、ジハード団とかの過激派さらにアルカイダ(現在のアルカイダの指導者のアイマンザワヒリはそのような人物のひとり)につながる、過激・狂信的イスラム主義者の流れの中から出てきたもので、遺憾ながら、このような過激なものはイスラム世界ではごく少数の者たちであっても、現実社会から疎外感を感じる多くの若者を引き付け、またそれを利用しようとした指導者も多いということだろう。


・地道な宗教活動では引き付けられず、手っ取り早い過激思想に惹かれる若者が多いことが、事の本質だろう。


・この現象は、ある意味ではナチスが、その狂信的な思潮で、ドイツのみならず多くの欧州諸国の阻害された若者を引き付けたことと、どこかで似ているように思われる。


宣伝にものすごく巧みなところも両者の類似点かもしれません。何しろ放送、映画を、当時もっとも効果的に駆使したのが、ナチでしたが、現在ではそれがソシャルネットになっただけのことかもしれません

(部分抜粋引用終)
チュニジアについては、最初から私は上記のように思っていた。ところが、2011年4月頃の関西の某大学(注:同志社ではない)でのチュニジア出身のムスリム講師の話は、妙に楽観的で、どこかはぐらかされたようなものだった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120204)。
最後に、『メムリ』の記事転載を。

http://memri.jp/bin/articles.cgi?ID=SP623015


緊急報告シリーズ Special Dispatch Series No 6230 Dec/10/2015



イスラエルは我々の敵ではない―クウェート紙の主張―」


政府系クウェート紙Al-Anbaは、2015年11月23 日付紙面で※1、「イスラエルは我々の敵ではない」と題する記事を掲載した。ジャーナリストである筆者アル・シヤィエジ(Saleh Al-Shayeji)は「単一の(アラブ)民族という幻想」を放棄し、それぞれの関心事を追求せよ、とアラブ諸国に呼びかけた。その一環としてアラブ諸国は、パレスチナ人との紛争があるからといって、イスラエルを敵視することをやめなければならないイスラエルクウェートに一度も侵攻したことはなく、戦ったこともないのに、何故イスラエルを敵視するのか。一方イラククウェートを侵略し占領さえしたのに、何故姉妹国として扱うのか、実に解せない話である、とアル・シヤィエジは主張する。以下その記事内容である。



この記事を書くに際し、私は極力事実に立脚し、理性的且つ客観的姿勢を堅持するように努める。何故ならば、私の書く内容が、牢固として存在する信念、規範、触れてはならぬタブーと、正面から衝突するからである。

イスラエルは敵なのであろうか。永遠に続く敵意の対象なのだろうか。それとも変わりつつあるのか。一定の状況、条件、立場そして利害に関わるもので、条件次第というのであろうか。



イスラエルに対するアラブの敵意は、イスラエルが建国される前に始まる。アラブ諸国パレスチナユダヤ人集団と戦う力を有していた頃である。ところがその集団は、各種兵器を揃えたアラブ七ヶ国軍の攻撃を持ちこたえた。それから、国際社会がパレスチナをめぐるアラブ・ユダヤ紛争を解決すべく介入した。しかし傲慢なアラブ諸国は分割決議を拒否した。これがユダヤ人にとって第2の勝利となる。この後…イスラエル国の独立が宣言され、アラブ諸国を除く世界がこれを承認した。ほかにも承認しなかった国がいくらかあったが、後年選択の余地はなく、承認に踏みきった。



イスラエルは誰の敵なのであろうか。全アラブ国家の敵なのか。パレスチナ人がイスラエルに敵意を抱くのは判る。彼等はイスラエルが自分達の土地の一部を占領している、と信じているからである。彼等が信念で敵視するのは判る。我々はできる限り支持し、支援する。しかし、アラブ諸国ができるのはそこまで、それだけである…



我々の真の敵は誰であろうか。アラブの全国家は同じ敵を持つのであろうか。それとも各国が或いは各グループ国が、それぞれ(異なる)敵を持つのであろうか。それとも各国が或いは各グループ国がそれぞれ(異なる)敵を持つのであろうか。ほかの(アラブ)諸国の友邦或いは親密な友人は誰なのであろうか。

アラブ改革の第一歩は、汎アラブ主義或いはアラブはひとつという思想を放棄することである。この思想は偽りであることが証明されている。無効である。そして、それが無効である証明なら沢山ある。友好という幻想(の証明)よりずっと多い…我国クウェートを例にとって考えてみよう。イスラエルクウェートの敵なのだろうか。イスラエルが侵攻したことがあろうか。答はすべてノーである。では何故クウェートイスラエルを敵とみなすのか。一方クウェートは自国を侵略し占領したのにイラクを友人、同盟国、良き隣人、姉妹国として何故扱うのか。私は、イラクをこのまま敵として扱えと言っているわけではない。その逆である。クウェートは(イラクとの和解で)正しい決断をした。敵意は永久不滅(の存在)ではなく、ダイナミックなものである。特に政治の世界では然りで、(そこでは)昨日の敵は今日の友であり、或いは今日の友が明日の敵になり得る。これが現実である。私の幻想ではない。



結論から言えば、イスラエルはアラブの敵ではない。アラブは、汎アラブ主義の自縛から己を解放しなければならない。そして、単一の(汎アラブ)民族という幻想を放棄し、それぞれ独立した判断と行動をとらなければならない。



[1] Al-Anba (Kuwait), November 23, 2015.

(転載終)