ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

イスラエルの「イスラム運動」

メムリ」(http://memri.jp/bin/articles.cgi?ID=IA62810
Inquiry and Analysis Series No 628 Aug/23/2010

イスラエルの「イスラム運動」は、焦点をエルサレムからパレスチナに移している


筆者:L・バルカン(Barkan)MEMRIの研究員


初めに


イスラエルの「イスラム運動(Islamic Movement)」の北部支部はラーイド・サラーフ(Raed Salah)師を指導者とする。同組織は長く、エルサレムの諸問題とアルアクサー・モスクの防衛を活動の最前線に置くと見なされてきた。しかし、最近になって、イデオロギーと政治の焦点を、ハマースとパレスチナ当局の権力闘争、(パレスチナ難民の)帰還権、イスラエルとの交渉などパレスチナ問題全体に拡大した。この過程にあって同組織は今やハマースの(パレスチナ問題)認識を採り入れ、公に支持している。


この論文が取り上げるのは、「イスラム運動」の政治・イデオロギー議論(ディスコース)の拡大と、同組織のハマース支援、ハマースのための政治的行動主義、イスラエルに対する戦争の呼び掛け、(パレスチナ難民の)以前の家への帰還権の断固たる支援、同組織の活動の核心であり続けるエルサレム問題――である。このほか、「イスラム運動」とハマースの主張を掲載する、イスラエルの2つのウエブサイトを取り上げる。


イスラム運動」の議論(ディスコース)の拡大と、ハマースへのイデオロギー支援


ラーイド・サラーフは、イスラムオンライン(Islamonline)のインタビューに、「イスラム運動」のローカルな活動から、パレスチナ全体とグローバルな活動への拡大について、こう語った。「イスラム運動とその指導部は、占領されたアルクドス(エルサレム)とアルアクサー・モスクの問題で傑出した役割を果たした。正確に言えば、被占領のアルクドスとアルアクサー・モスクの問題における(「イスラム運動」の役割は)ローカルなレベルから、パレスチナ全体のレベルに、さらにはグローバルなレベルに拡大し始めた。「イスラム運動」は、アルクドスとアルアクサー(の問題に係わったことで)同組織がしばしば係わる全ての問題でグローバルな繋がりの創出に扉を開いた」。これらの問題は、サラーフによれば、エルサレム、アルアクサー、帰還権、ガザ封鎖の破壊、そして、「地球上の全ての人々に、パレスチナ人の正当な立場を提示する(ため)、またシオニストの議論の誤った主張を暴露するために、アラブ・イスラム(世界)と人類全体との繋がりを創り出すことなどだ」。


サラーフは同じインタビューで、パレスチナ問題関与の切迫した必要性について語った。そして、パレスチナ解放機構PLO)にイスラエルとの交渉の失敗を認めるよう求めて、こう語った。「パレスチナ問題は現在後退しているーーこの状態が続くなら、吉兆とはならない。したがって、あらゆる真っ直ぐな人が、パレスチナ問題を現在の苦境から救うため行動することが必要だ。また、パレスチナ人の諸権利の実現促進のため、またパレスチナ問題のすべての原則補助のため、あらゆる真っ直ぐで野心的なアイデアが必要だ。個人的に言って、私がこれを履行できる人物とは思わない。しかし、私は、パレスチナ人の内部の亀裂を癒し、パレスチナ指導部とパレスチナ各派、パレスチナ公衆を一体化する目的で、現在求められている集団的努力に参加することを切望する・・・


私見では、今日必要なのは、(イスラエルとの)交渉を自ら選択したパレスチナ指導部が立場を大胆に明らかにし、交渉が幻想であると言うこと、また、交渉は20年間続いたが、パレスチナ問題を後退させたにすぎないと言うこと。さらには(パレスチナ問題の)出発点と集団的思考に戻り、指導部、各派、パレスチナ公衆、さまざまな機関を一体化する集団的ビジョンに戻ることだ」


サラーフはこう述べた。(1993年PLOイスラエルと結んだ)オスロ合意は、エルサレムにとって悲劇的な結果に繋がった。そして、「48年パレスチナ人」━1948年の領域(イスラエルの意)に住んでいるパレスチナ人、つまりイスラエル・アラブを指す━を(イスラエルから)追放する同国の準備に繋がった。これが意味するのは(パレスチナ)難民の帰還権の撤回である。「オスロ合意はアルクドス(エルサレム)問題を(交渉の最後まで)延期すると主張し、アルクドスに係わる全てのことにおいてパレスチナ側の手を縛った・・オスロ合意は同時に、アルクドスと、アルアクサー・モスク初め(イスラムの)聖域の不断のユダヤ化を継続するフリーハンドを占領者であるイスラエルに与えた・・・オスロ合意は、占領されたアルクドスとアルアクサー・モスクに係わる全てに悲劇━その言葉の完全な意味における悲劇━を引き起こした。同合意はまた「48年のパレスチナ人」の(イスラエルからの)追放に扉を開いた。私は誇張しているわけではないーーたとえ、この発見が手遅れだったにしても、だ。これは、オスロ合意の長期の副次的効果のひとつであり、イスラエル側は実際、この国家(イスラエル)がユダヤ人(国家)であると語り始めた。このことは、2つのことを意味する。1つは、帰還権と難民の権利に(扉を)閉ざすことであり、2つ目は「48年のパレスチナ人」が彼らの土地、彼らの家、彼らの聖地に(現在)居ることはあくまで一時的と見なすことだ」。彼はまた「48年パレスチナ人」に対するイスラエルの動向、土地の収奪と住宅の破壊は、「追放への前兆」とも語った。※1


サラーフは、「イスラム運動」の機関誌サウト・アル・ハック・ワル・フッリーヤ(「権利と自由の声」の意)及びPls48.netに掲載した記事「パレスチナ問題は危険に陥っている」で、類似の立場を表明した。サラーフはパレスチナ問題の再生を呼び掛け、それが厳密にパレスチナ問題なのか、アラブ全体の問題なのか、イスラムの問題なのか決定するよう呼び掛けた。彼はまた、パレスチナ指導部の提案━パレスチナ解放機構PLO)の選挙を行い、ディアスポラ(離散)のパレスチナ人を含めた、全てのパレスチナ人にPLO指導部の直接選出への参加を認めるというパレスチナ指導部の提案━について論じた。この提案はハマースの要求━パレスチナ立法評議会(PLC)選挙の実施と全てのパレスチナの構成分子を代表するようなPLO再編成の要求━に符合する提案だ。


同じ文脈で、サラーフは、ガザ地区のハマース執行部と西岸のファタハ政府間の抗争、および、パレスチナ当局(あるいはパレスチナ自治政府)(Palestine Authrity)大統領マフムード・アッバース(Mahmoud Abbas)の任期延長の問題を論じた。彼はこう書いた。「(2007年6月ガザと西岸の分断)発生以来の現状を見ると、2つの政府と2人の首相が存在する。近年のパレスチナ選挙の結果出てきたイスマイール・ハニーヤ(Ism’ail Haniya)首相と(2007年の)パレスチナ分断後に登場したサラーム・ファイヤード(Salam Fayyad)だ—そしてパレスチナ憲法(の問題)がある。ハニーヤとファイヤードの(憲法上の)合法性は何か。行われた決定と配分されたポストの合法性は何か。アッバース大統領の任期延長の合法性は何か・・・また、現行の交渉、それが直接であれ、間接であれ、現行交渉の合法性についてはどうか。現行交渉は(われわれの)交渉に関する基本的な立場を考慮に入れていない・・・※2 サラーフの、アッバースパレスチナ当局大統領の任期延長に対する批判は穏やかだが、サウト・アル・ハック・ワル・フッリーヤ編集長のハミード・アグバリーヤ(Hamid Al-Aghbariya)は公然とアッバースを攻撃する。アッバースは2010年6月米国のユダヤ・ロビー代表との会合で、イスラエルに対するユダヤ人の権利を否定しないと語ったとされる。※3 この発言に対し、アグバリーヤはこう語った。「(アッバースは)パレスチナ人民の大統領ではない。その一部の大統領ですらない。彼はせいぜい惨めな(パレスチナ)当局の議長にすぎない。その任期もずいぶん前に終わっている。しかし、彼はなお、イスラエルの現体制、アメリカ、いくつかのアラブ政権が(投げ掛けている)糸に『ぶら下がっている』。とりわけ、アッバースは自分が代表していると主張する人民の権利の表現はもちろん、ラーマッラーの入り口の小さな軍事的障害物(すら)排除することができなかった。したがって、アッバースに、パレスチナ人民の名前で、パレスチナに対する他者(ユダヤ人の意)の権利を話す権利はない」※4


サラーフのハマースとの緊密な関係のひとつに、彼がイスラエルの警察官を攻撃した容疑で逮捕されたことへのハマースの反応がある。サラーフの逮捕にハマース所属のウエブサイトPalestine-info.infoは特別セクションの全てをあて、ハマース当局者の逮捕非難声明と、サラーフ賞賛の記事を掲載した。ハマースのハニーヤ首相はサラーフを「パレスチナ人民、(アラブ)民族、(イスラムの)ウンマ(信仰共同体)及びアルクドスとアルアクサーの栄誉を帯びる人物」と表現した。※5


ハマースに対する政治的、実践的支援


イスラム運動」のハマース支援はイデオロギーだけでなく、政治的かつ実践的である。この顕著な例に、サラーフが、ガザの封鎖を破る目的でトルコから船出した「自由船団(Freedom Flotilla)」への参加がある。「イスラム運動」によると、ガザの封鎖は「(ガザの人々が)単に自由な民主的選択を行ったとの理由で」※6 (ガザに)課せられたものだ。サラーフはトルコに出かける前に、(イスラエルガリリー地域のアラブ人の町)カフル・カナーで開いたナクバ(アラブの1948年パレスチナ戦争の敗北)の記念行事で、こう語った。「(自由船団の参加者は)高貴で、自由で、勇敢で、意志の堅固なガザの封鎖を破るだろう。ガザでは、最も小さな子供(でも)アメリカとシオニストのテロを踏みつぶすことに成功した。アッラーが望むなら、この数日間のうちに、この封鎖は破られよう・・・」※7


サラーフはこの船団で中心的役割を果たした。数人の乗船者によると、サラーフはジハード支持の説教すら行った。例えば、クウェートの国会議員ワリード・タバタバーイ(walid Tabatanai)はクウェートに戻った後、サラーフは船団のスターで、その船旅について熱狂的な発言を行ったと語った。※8


 エジプト国会のムスリム同胞団会派の事務局次長ムハンマド・バルタージー(Muhammad Al-Baltaji)は、イスラエル軍が船団を襲撃した夜、いく人かのイスラム宗教人が乗客を奮い立たせる説教を行ったと報告した。タバタバーイによると、サラーフは、ジハードと(イスラエル南部の)アシュケロンにおけるリバート(イスラム世界の境界地域、ムスリムが非ムスリムとの戦いに出発する地点)の徳性について説明したムハンマドハディース(言行録)について語った。サラーフはガザをアシュケロンの一部と見なしていると、ベルタージーは付け加えた。※9


イスラム運動」のメンバーたちが語ったところだと、船団参加はハマース政府を支援する政治的行為だった。メンバーの1人、アブドルハキーム・ムフィード(’Abd Al-Hakim Mufid)はパレスチナ当局とエジプト、そして船団に参加しなかったイスラエル・アラブを非難してこう語った。「包囲されているガザに航行することは、単に人道的な行為ではない・・・ガザの封鎖解除への参加である。それは政治的行為である。それは政治的立場の(表明である)。ここで正確に分かるのは、誰が船舶を阻もうと試みたのか、あるいは、誰が(船舶の)到着を阻もうと試みることによって(イスラエルの)パートナーとなったのか、あるいは、誰が(この試みに)目をつぶったのか、だ。このことにおいて、パレスチナ当局とエジプト政府の立場と、船団不参加を兵站上の理由で正当化した、これらの者たち(つまり、イスラエル・アラブ)の立場に違いはない・・・」※10


イスラム運動」の、サラーフに次ぐ指導者カマル・カティーブ(Kamal Khatib)はこう書いた。


「(テオドールTheodor)ヘルツル(Herzl)がユダヤ人国家建設の最初のレンガを置くためにトルコからパレスチナに航行したとして・・・今日トルコ人は包囲を解除するため、さらには(ガザ支配者としての)ハマースの資格を強調するためにパレスチナに航行する。住民はハマースを、ガザ地区経営のため、また、将来の、地と海と空における、パレスチナ国家樹立の核となるよう選んだのだ。(トルコの)首相エルドアンも同じことを語っている」※11

船団出航の前にトルコで演説するラーイド・サラーフ。Pls48.net, 2010年5月23日より。


サラーフは言う。トルコはシオニズムの終焉をもたらすだろう


ハマースに似た過激なイスラムをサラーフが採用したことは、彼とナンバー2、カマール・カティーブが行った声明━シオニズムの差し迫った終焉及びイスラエルと戦う必要性に関する声明━でも表明されている。これらの声明は、船団というイベント、同船団におけるトルコの役割という枠組みで行われた。また、包括的なイデオロギーのビジョンの表明という形で行われた。カティーブは、トルコがシオニストとの戦いを開始したと主張。この戦いは、イスラエルの地をユダヤ人に売るようトルコのスルタンに頼んだヘルツルの陰謀を支持するシオニストを罰するのが目的として、こう書いた。「ヘルツルがドンメー・ユダヤ人※12 と共に、トルコのオスマンイスラム・カリフ制国家を騙し、陰謀を企ててから、ちょうど100年が過ぎた・・・1世紀が過ぎた。そして現在、状況は変化しつつある。企みは暴かれつつある。陰謀を企む者に対してわれわれが決起し、清算を求め、彼らを罰する時だ。これがトルコの街中とトルコ政府の状況だ。(イスラエルの首相ベニヤミンBinyamin)ネタニヤフ(Netanyahu)の先祖は狡猾にオスマン・カリフ制国家を崩壊させた。そして今日(オスマン帝国末期の)スルタン、アブドルハミド(’Abd Al-Hamid)の末裔たちがヘルツルの末裔たちと直接対決している。どちらがハッピー・エンドとなるか、いずれ分かるだろう」※13


また、サラーフは船団事件後の記者会見で、トルコがシオニズムの終焉をもたらすだろうと賞賛し、こう述べた。「かつてヘルツルは、シオニストの(イスラエル樹立)計画がトルコで始まることを望んだ。そして現在、さまざまな事件が起き、誰であれ知識ある者なら、シオニストの計画がトルコで終わることを見て取っている・・・「Freedom Flotilla(自由な小艦隊)」のシャヒード(殉教者)と負傷者が流した血は、多くのメッセージを帯びている、その1つは、パレスチナ人とトルコ人の血の混合だ・・・イスタンブールの将来はアルクドス(エルサレム)の将来の一環である。アンカラの将来は、ガザの将来の一環である。そして(イスタンブールの)ファーティハ・モスクの将来は、アルアクサー・モスクの将来の一部である」※14


イスラム運動」のナンバー2、カティーブは言う。今や、イスラエルを攻撃する時だ


サラーフは対イスラエル闘争に関する上記以外の声明で、また記者会見でも、その視点を民族的視点から宗教的視点、とりわけシャハーダ(殉教)に移して、こう語った。「われわれは(イスラエルに対して)言う。(たとえ)おまえに核爆弾、ミサイル、戦車、大砲、陸海空三軍があっても、生命を与え、それを取り去るのがアッラーであることを知れ。われわれが恐れるのは『宇宙の主権者』だけだ。シャハーダは信仰であり、全て(のムスリム)に課せられた義務である。われわれの誰もがそれを希望し、それを希求して死なねばならない・・・」※15


イスラム運動」のナンバー2、カマール・カティーブはある記事で、いっそう過激な見解を表明した。彼はこの記事で、ムハンマドの、数でまさったユダヤ人と多神教徒に対する勝利を、現在のムスリムイスラエルの状況に比べた。カティーブは今こそイスラエルを攻撃し、征服すべき時だとして、こう書いた。「今日、アラブ、パレスチナ人、一般にムスリムイスラエルの関係は、ムハンマドの時代のムスリムと、とりわけメディナにおけるユダヤ人部族との関係、さらには(ムスリムの)アラブと多神教部族との関係に酷似している」


ティーブはその例として「メディナの戦い」に関する(コーラン第33章)「部族同盟の章」に言及した。この戦いでは、3000人のムスリムが、包囲した1万人の多神教徒を破った。カティーブはこう書いた。「『部族の戦い』━『神経戦』━の教訓的勝利は、『今、われわれが彼らを攻撃するのは、彼らにわれわれを攻撃させないためだ』と預言者が語ったように、ムスリムの行動とイニシアチブの強力な動機になっている・・・多神教徒の拠点であり、当時の異端者の住処だった聖なるメッカは、「部族の戦い」のちょうど3年後、偉大な征服の日に速やかに白旗を掲げることになる。これは、祝福されたイスラムの信仰の流出の一環として起きた。そして、イスラム信仰は預言者の時代のアラビア半島を覆っただけでなく(その後)地球の約4分の1(を征服するに至る)・・・」


ティーブは続けて、近年イスラエルが敗北を続けた結果、ムスリムウンマ(信仰共同体)が優勢となり、最終的に勝利するだろうと主張し、こう述べた。「5月15日のナクバ、5月24日のイスラエルレバノン逃亡、2005年夏のガザからの撤退、2006年夏(レバノンで起きた、イスラエルの)軍事的歴史における最初の教訓的敗北、2008年から2009年(イスラエルが犯した)ホロコーストで、ガザとその指導部を打倒できず、イスラエルの邪悪な手下ムハンマド・ダハラン(Muhammad Dahran)※16 とその傭兵にガザを引き渡せなかったことーーこれら記念日の全てを想起すれば、分別のある人なら、今日ウンマの現実が『凶年』時代の現実と極めて異なっていることがわかる」。カティーブは結論として、イスラエルは以前の栄光を取り戻すために間もなく軍事攻勢を開始するだろうと主張、同時に、パレスチナ人とムスリムが軍事力ではなく、信仰の力によって勝利者になるだろうと強調した。※17


難民には、イスラエルの彼らの家に戻る権利がある


イスラム運動」は、1948年に所有していた家と土地に帰還するパレスチナ難民の権利に固執するよう呼びかけている。そして、難民が帰還権を放棄することと交換に、難民をパレスチナの外部に「再定住」させる考えを拒絶する。「帰還権」の認識に関しアッバースと彼のスポークスマンはあいまいな定義を続けているが、「イスラム運動」の立場はハマース、PLOPAパレスチナ当局)の立場に調和するものだ。※18 


サラーフは彼の記事「パレスチナ問題は危険に陥っている」で、難民が帰還するまで彼らの財産を保護するよう呼びかけた。「1948年のナクバ以来、われわれパレスチナ人民が追放された家、土地、聖地を積極的に保護することなく、難民の帰還権がパレスチナ問題の主要原則のひとつだとわれわれが合意するだけで十分なのか。さもなければ、われわれは、一時的に━つまり、帰還権が実現され、パレスチナ人民がガリリー地方、トライアングル ※19、ネゲブ砂漠、そしてアッコ、ハイファ、ジャッファ、ラムレといった地中海岸の町々の土地、家、聖地に戻るまでの間一時的に━必要として、彼らの土地、家、及び聖地を守る戦略プランを提案すべきではないか。今日われわれにとって、パレスチナ問題の主要な原則のひとつである帰還権のために緊急に行動することが必要ではないか・・・」※20


2010年5月はじめ、サラーフはベルリンで開いた欧州パレスチナ人の第8回年次総会に参加した。この大会の焦点となったのは帰還権だった。ヨーロッパ中から1万人以上のパレスチナ人が出席した。会議が行われたホールは、パレスチナ難民のステータスを象徴してテントのようにデザインされた。※21


 サラーフはこの会議での演説で、今後も「自由船団」に参加する計画を表明。さらにホームランドに帰還する難民を出迎えるのが希望だと付け加えて、こう語った。「われわれは全世界に向かって強調するが、「自由船団」は間もなくやって来る別の船団の先駆けだ。あなた方は、それが何に繋がるか知っているか。それは、パレスチナ難民の船団が、われわれの土地、われわれの平原、われわれの海とわれわれの土地、われわれの農地と果樹園に戻ってくることだ・・・私は喜んで(帰還するパレスチナ難民の)あなた方を歓迎する。しかし、もし私が死ぬなら、私の息子たち━ウマル(’Umar)、アルカカー(Al-Qa’qaa)、サラーフッディン(Salah Al-Din)━があなた方を出迎えるだろう」※22


サラーフは、ベルリンの会議の数日後カフル・カナーで開いたナクバ・デー記念集会で、ベルリン会議の参加者たちがこう語ったと紹介した。「帰還権を引っ込めることはありえない。帰還権の引き換えの再定住(を受け入れることは)ありえないーーこれは呪われた提案だ。帰還権と引き換えに賠償(を受け入れることは)ありえないーーこれは大いなる裏切りだ。帰還権との引き換えの妥協は一切ありえないーー(妥協は)手痛い敗北だ・・・カギはなお(難民の)首に掛けられている。これらのカギを持って難民が帰還し、ガリリー、トライアングル、沿岸の諸都市アッコ、ハイファ、ジャッファ、ロッド、ラムレなどの、彼らが追放された(家々の)扉を、そのカギで開ける日は近い・・・われわれは(彼らに)呼びかけて、こう言う。おー、あらゆるところのパレスチナ人難民よ、われわれはあなた方を待っている、と・・・」※23


エルサレムとアルアクサーの防衛が、「イスラム運動」の活動の核心


サラーフ指導下の「イスラム運動」の活動の核心は伝統的に、エルサレムとアルアクサー・モスクをユダヤ化から守ることだった。「イスラム運動」のイデオロギーと政治活動の拡大は、このことからの逸脱ではない。依然サラーフはエルサレムの防衛と、イスラエルの占領からの解放キャンペーンを率いていると思われている。サラーフは彼の記事「パレスチナ問題は危険に陥っている」でこう書いた。「アルクドス(エルサレム)とアルアクサーがパレスチナ問題の(基本)原則であると合意するだけでは十分ではない。これらを守るためにあらゆる手段を用いることを合意せねばならず、また、占領(国家)イスラエルアルクドスをユダヤ化し、アルアクサー・モスクの廃墟に偽りの神殿を建設するために執拗に活動しているイスラエル━との対決を合意せねばならない。占領(国家)イスラエルが間もなくアルクドスとアルアクサーから去るが、それまでに(これらの行動を取らねばならない)」※24


ハマース・ウエブサイトのコラムニストで、西岸に住むイッザディン(Izz Al-Din)はアルアクサー・モスクを防衛するサラーフの活動を賞賛して、こう書いた。「われわれの親愛なる師ラーイド・サラーフよ。あなたはパレスチナの「イスラム運動」の指導者である。(しかし)私は、あなたが(単に、1948年領域)内部のイスラム運動の指導者ではなく、全パレスチナイスラム運動の指導者だと言おう。ガザの同運動の老いも若きも騎士━彼らを訪ね、彼らを抱擁するために海の波をものともしない騎士━を愛する。(西)岸の同運動の若者たちは、英雄的な師が兵士の戦闘に立ち、少年と男たちを徴兵し、彼らをアルアクサー防衛の闘いで率いているのを観察している。むろん、(パレスチナの)外のわれわれの兄弟たちは、アルアクサーとパレスチナのためにあなたが為したことを記憶している。これは、あなたの立場と勇敢さを知っている全てのムスリムも同じだ・・・


「親愛なる師よ・・・あなたは彼らと、あなたのような英雄━ウンマの先達の遺産の一環である英雄━にのみふさわしい決断力をもって戦っている・・・われわれは(誰がシャヒード(殉教者)になるか)アッラーに代わって選択することはできない。しかし、あなたこそ、比喩として、また実際にも、『生きているシャヒード』にふさわしい・・・あなたこそ、アッラーが、その人を通じてウンマを再活性化し、アルアクサーを防衛する人である。歴史は、ラーイド・サラーフが、彼の到来の先駆けとなった(十字軍と戦ったイスラムの英雄)サラーフッディンの前衛 ※25だったことを示し、誇りと栄光をもって記録するだろう。サラーフッディンこそ、サラーフの到来の先駆けとなり、勝利と征服の世代、サラーフッディンの世代を訓練する(ことによって)サラーフのために道を敷いたのだ・・・」。イッザディンはサラーフの賞賛を続け、彼を、アルアクサーのランプを石油と血で灯す「アルアクサーの聖堂のガード」と呼んだ。※26


イスラエル・アラブのウエブサイトは、ハマースと同盟した


ウエブサイトPls48/netは1948年領域(イスラエルの意)に住んでいるパレスチナ人、つまりイスラエル・アラブを代表していると主張する。だが、同サイドは自らがどこに所属するのか言及していないものの、ざっと目を通すだけで、「イスラム運動」の機関であることがわかる。同サイトの恒常的なライターはラーイド・サラーフやナンバー2、カマール・カティーブといった「イスラム運動」の幹部である。同サイトはまた、「イスラム運動」の公式機関紙であるサウト・アルハック・ワルフッリーヤの記事やレポートを転載している。同じく、前述したように、ハマース・ウエブサイトのさまざまなレポートやハマース幹部の声明を転載している。ハマースの刊行物と同一のスタイルと表現を使ってもいる。例えば、パレスチナ当局のメディアはハマース政府を「解散された政府」と呼び続けているが、これに対して同サイトはイスマイール・ハニーヤを「パレスチナ政府の長」と呼ぶ。同サイドはまた、マフムード・アッバースについては、ハマースと同じく、「任期の終了したパレスチナ当局の議長」と呼ぶか、さもなければ「パレスチナ当局の議長」とか「ラーマッラー当局の議長」とか呼ぶ。


同ウエブサイトは、その本部が、サラーフの故郷であり、現在の居住先である(住民の大半がアラブ人の、イスラエル・ハイファ地域の市)ウンム・アルファフムにあると言う。この町で、サラーフは10年以上にわたって市長を務めた。この町には町自体のウエブサイトUm-elfahem.netがある。同サイトは「イスラム運動」の宣伝機関のひとつでもある。ローカルな行事の情報を知らせるサイトではなく、サラーフの活動をフォローし、彼のインタビューと記事をカバーしている。内容の一部はサウト・アルハック・ワルフッリーヤや、ハマース所属のウエブサイトPalestine-info.infoから採っている。結論として、この2つのイスラエル・アラブ・ウエブサイトは「イスラム運動」の主張内容を掲載し、そうすることで、同様にハマースの主張内容を掲載している。

Pls48の記事セクション。ラーイド・サラーフ、カマール・カティーブ、ハミード・アクバリーヤの記事をフィーチャーしている。


注:
[1] Islamonline.net, July 26, 2010.
[2] www.pls48.net, May 23, 2010.
[3] アッバースの声明は、イスラエルの新聞(ハアレツ2010年6月10日付)に掲載された。しかし、その後パレスチナ当局の交渉チーフ、サーイブ・アリーカート(Saeb ‘Eriqat)が否定した。その説明だと、アッバースアメリカのユダヤ人指導者との会合で、コーランそのものの中で述べられているように、ユダヤ人が歴史を通じて、中東とパレスチナに住んで来たことをPLOは否定しないと述べたすぎない。
www.aljazeera.net 2010年6月11日。
[4] Sawt Al-Haq W'al-Hurriya (Israel), June 12, 2010.
[5] Palestine-info.info, July 25, 2010
[6] www.pls48.net, May 27, 2010.
[7] www.pls48.net, May 14, 2010.
[8] Al-Rai (Kuwait), June 3, 2010.
[9] このハディースは、預言者が「・・・あなたの最善のジハードはリバートであり、最善のリバートはアシュケロンである」と述べたことに関連している。
[10] Sawt Al-Haq W'al-Hurriya (Israel), June 6, 2010.
[11] Al-Sinara (Israel), June 11, 2010.
[12] ドンマは(ユダヤ教シャブタイ派である。トルコのユダヤ人に付けられた名前で、彼らはシャブタイ・ツヴィの末裔と信じられている。
[13] Al-Sinara (Israel), June 25, 2010.
[14] www.pls48.net, June 3, 2010.
[15] www.pls48.net, June 3, 2010.
[16]ダハランは(PLO主流派)ファタハの国会議員であり、ハマースが2007年クーデター(でガザを制圧する)以前、パレスチナ当局のガザ地区の治安問題担当相だった。
[17] www.pls48.net, May 19, 2010.
[18]MEMRIの緊急報告シリーズNo.2995「パレスチナ人:誰にも帰還権を撤回する権限はない」2010年6月3日付。
http://www.memri.org/report/en/0/0/0/0/0/0/4270.htm .
[19] グリーン・ライン(パレスチナ戦争のライン)に近いイスラエル・アラブの町と村の地域
[20] www.pls48.net, May 23, 2010.
[21] www.alawda.eu, May 8, 2010.
[22] http://alsedeek.com/alsedeek, May 10, 2010.
[23] www.pls48.net, May 14, 2010.
[24] www.pls48.net, May 23, 2010.
[25]ラーイドはアラビア語で「前衛」を意味する。
[26] www.palestine-info.info, June 5, 2010.

(引用終)