ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

メムリ・レポート

オバマ新大統領が就任されました。課題は山積みで期待値が高いだけに、これからが大変でしょうが、我々も遠くから、協力体制で(といっても何もできませんが)見守っていきたいと思います。
というわけで、今日はいずみホールでのリサイタル第二弾を一時お休みさせていただき、「メムリ」から重要だと感じた記事を引用させていただきます。

メムリ」(http://memri.jp

Inquiry and Analysis Series No 491 Jan/20/2009

「ガザ戦争の陰に隠れたもう一つの戦争―パキスタン、インド、アフガニスタンで攻勢に出るイスラム武装集団―」
トファイル・アフマド(MEMRIのウルドゥ・パシュート語メディアのプロジェクト長)

・はじめに

国際社会がイスラエルのガザ攻撃に気を取られている時、パキスタンアフガニスタン及びインド側カシミールイスラム武装集団が武力活動を強めていた。
パキスタンの部族地区では、タリバン武装集団が支配力を強めている。パキスタン紙が認めているように、タリバンの後押しする武装集団が、シーア派ムスリムの孤立拠点を次々と潰している。何の罪もない人々がタリバンに‘アメリカのスパイ’というレッテルをはられ、毎日のように首をはねられている
アフガニスタンでは、アルカーイダの指導者オサマ・ビンラーディンが米軍の憤怒を逃れて、トラボラ山地に身を隠した。この山地をベースとするタリバンとアルカーイダの武装集団は、アメリカのオバマ次期大統領宛のメッセージを発表し、米軍のアフガニスタン撤収を強く求め、ワシントンD.Cを吹き飛ばすと威嚇した。一方、アフガニスタンの米軍及びNATO軍の損害が増加しつつある。
インド側カシミールでは、パキスタンの後押しするイスラム武装集団が丸1日インド軍と互角に戦闘した後、逃走した。11月26日から29日にかけてムンバイでテロ攻撃をやった実行犯達の行動と、よく似ている。ムンバイのテロ攻撃について、パキスタン政府は同国を拠点とする武装集団の果した役割を認めていない。認めることを拒否しているが、その間にもインド国内のホテル襲撃という新しいテロの脅威がたかまっている。
以下、このリポートで高まるジハーディストの脅威について詳しく検討する。

パキスタンの部族地区

パキスタンの北西国境州(NWFP)のハング地区で、2009年1月9日に新しい武力衝突が始まった。タリバンの支援するスンニ派グループとシーアムスリムが戦い、40人近くが殺された※1。シーアムスリムの約60%は家を追われ、この地域から流出した。
クッラム居留地のハング及び隣接の部族地区では、シーアムスリムに対する攻撃が民族浄化の様相を呈している。2009年1月13日付パキスタン紙The Newsは、論説で次のように報じた。
「部族は、スンニとシーアに分裂し、再び血で血を洗う戦いをくりひろげている。イスラム暦の1月(ムハッラム)の到来と共に緊張がたかまったようである。これまでこの月になると繰返し同じような暴力沙汰が発生した。宗派を問わず全ムスリムにとって、この月が神聖な時であることを考えれば、実に悲しいことである。
これまで、部族の長老達が調停を試みてきたが、失敗してハングの平和は回復していない。たとい調停がうまくいっても、短期間で終る可能性が強い。これまでがそうであった…クッラム居留地のパラチナルのような地域で発生した宗派(シーア対スンニ)間戦争は凄惨な民族浄化の様相を呈している。各地に点在するシーア派の大きい居住地は完全に破壊され、或いは住民が殺害を恐れて逃げ去ったといわれる。‘文明’時代にこのようなことが起きるのは、まことに不幸なことである」※2。
パキスタン全土で沢山の宗教団体、政治団体、左翼団体が、イスラエルのガザ攻撃を非難し、連日抗議デモをくりひろげているしかしこの諸団体は、ハング地区におけるシーア派ムスリムの殺戮には、沈黙している。メディアを例にとれば、ウルドゥ語で発行されているジャマーテイスラミ系(Jamaat-e-Islami)日刊紙Roznama Jasaratのウェブサイトwww.jasarat.com を調べてみると、2008年12月26日に始まるガザ攻撃について、2008年12月28日以降今日に至るまで、連日イスラエルの攻撃に対する抗議声明や非難記事が掲載されている※3。ジャマーテイスラミのみならず、さまざまな組織、団体が抗議運動を展開した。それには、シーア派のイマミア(Imamia)学生団体、ジャミアト・ウレマエ・パキスタン(Jamiat Ulema-e-Pakistan)、ジャフリア(Jafria)学生団体、ジャミアト・ウレマエ・イスラム(Jamiat-Ulema-e-Islam)、イスラミ・ジャミアト・トゥラバ(Islami Jamiat Tulaba)、パキスタニ・アワミ・テーレーク(Pakistani Awami Tehreek)、女優ピルザダ(Samina Pirzada)の率いる市民団体、パキスタン労働者連合等が含まれる。
一方、ハング地区における反シーア派ムスリム攻撃が終る徴候は全くない。ウルドゥ語紙Roznama Mashriqは2009年1月12日付でハングの‘域外タリバン’が、スンニとシーア両派の長老達が合意した和平のとりきめを拒絶している、と報じている※4。昨年1年間パキスタン軍は、タリバンの有力指揮官をひとりも殺害ないしは逮捕することができなかった。タリバンが大胆になった背景には、国軍の失敗があると思われる。
北西国境州のスワト地区では、ファズルラ(Maulana Fazlullah)率いるタリバン民兵がほぼ全域を制圧した。ファズルラはイスラミスト指導者ムハンマド(Sufi Muhammad)の義理の息子である。ちなみにムハンマドは、昨年取引でパキスタン政府が釈放している。ウルドゥ語紙Roznama Jasaratの報道によれば、タリバン指揮官ファズルラはスワト地区の80%以上を支配し、自前の政府をつくって、シャリーア法廷、FM放送局、民兵警務隊等を運用している。同紙は「スワト地区においてパキスタン政府の威令は及ばない。軍の掃討作戦時(タリバンの)ファズルラ集団とその指導部には何の損害もなかった」と伝えた※5。
スワト地区ではタリバンが女性教育の完全禁止令をだした。2009年1月15日以降教育は受けられない。更に女性は、パキスタン国籍者を対象とする身分証明書発給機関への出入を禁じられた。地方の政治家達は、タリバン民兵の目を逃れるため右往左往しているし、職を追われた警官達は、現地紙に求職広告をだしている。昨年1年間で700名を越える警官が職を失った※6。スワト地区にあるマラカンド大学は、女子学生のベール着用を命じた。タリバンは、反対派にまわりそうな者を片端から捕まえて、処刑している。2009年1月6日付ウルドゥ語紙Roznama Mashriqは僅か1週間で39名の死体がスワト地区において回収されたと報じた。アメリカのスパイなどさまざまな罪を着せて、タリバンが処刑したのである※8。
南及び北ワリジスタンの部族地区では、タリバンの手書き札をつけた死体を見ぬ日はないアメリカとパキスタンのスパイと書かれている。2009年1月5日に発見された死体には、「米国務長官宛ムジャヒディンからの贈り物。ドル目当ての仕事をする者は同じ憂目をみる」と書いたノートがついていた※9。複数の地方紙記者は、タリバンによる所謂アメリカのスパイ’の殺害が増加しつつある、と報じている。
事実、アフガニスタンとの国境沿いに位置する部族地区全域が、パキスタン政府の支配から離れている。1月11日、部族地区のモーマンド居留地(Mohmand)で、600名のタリバン民兵隊が3ヶ所の治安部部隊駐屯地を襲撃した。この時の戦闘で少なくとも40名のタリバン民兵が殺された。パキスタンの治安部隊は9名の犠牲をだした※10。
今年1月の第1週、部族地区バジャウル居留地タリバンが11名の部族長老を拉致した。この居留地では6ヶ月近く掃討作戦が続いているが、パキスタン軍は今尚タリバンを排除できないでいる。長老達はパキスタン軍が後押しする反タリバン部族隊の編成会議に参加し、その帰りに襲われたのである※11。2009年1月20日、北西国境州の州都ペシャワルで、再びタリバン民兵が軍用資材発送施設に複数のロケット弾を撃ちこんだ。この施設は、アフガニスタンの米軍及びNATO軍向け資材を保管している※12。
タリバンは、バルチスタン州の州都クエッタにすら拠点を築いている。2009年1月4日、前パキスタン国会議員バロチ(Sanaullah Baloch)が、タリバンとその支持者達は、パキスタン軍の一部分子の関与を得て、拠点固めを強めていると指摘した。このバルーチ党指導者は「州都のいくつかの地域は既に‘立入禁止地区’になっている。タリバンとその支持者達が拠点固めを終えたところである」とつけ加えた※13。
タリバンとアルカーイダ民兵パキスタン核兵器を奪う可能性があり、その恐れが次第に強まっている。2009年1月3日、北西国境州(NWFP)情報相フサイン(Mian Iftikhar Hussain)は、タリバンとアルカーイダ民兵パキスタンの核施設を占領する恐れありと警告し、「テロリストをくいとめなければ、彼等はNWFPを越え、イスラマバードと核施設を占領するかも知れない」と述べた※14。

・インド側カシミール

イスラエルのガザ攻撃開始の翌日、その日はムンバイテロ攻撃事件の1ヶ月後にあたるが、タリバンが300名の自爆隊をインドへ送ると威嚇した。ウルドゥ語紙Roznama Jasarat
によると、タリバンのスポークスマンが警告を発し、「500名より成る自爆隊が、対インド戦に備え待機中である。近代兵器を装備したタリバン兵3万5000人も、(パキスタン軍と肩を並べインドと戦うため)東部国境へいつでも出動できる」と述べた※15。
最近武装集団は新しい戦略を編みだした。狙いはパキスタン軍の部隊配置を変えさせることにある。パキスタンアフガニスタン国境域に張りついていた部隊をインド国境沿いに移動させるのである。兵力の手薄になった地域では支配権を固めることができる。事実この戦略は大いに成功し、パキスタン軍は3万近い兵力を部族地区からインド国境へ移してしまった。
2008年11月26日のムンバイテロ攻撃にからんで、パキスタンは国際社会の圧力にさらされた。そのなかで武装集団はインド側カシミールで活動を続けた。今年初め約10名の民兵が、ジャンム・カシミール州ポーンチのブハティダル域の洞穴に陣取り、インドの治安部隊と激しい銃撃戦を演じた。インド軍筋によると、武装集団の交信傍受で、ラシュカレタイバ(Lashkar-e-Taiba)、ジャイシェムハンマド(Jaish-e-Muhammad)及びアルバドル(Al-Badr)のトップ級指揮官が洞穴地帯に潜伏中であることが、明らかになった※16。(この三つの組織は、1990年代パキスタンの軍部間情報機関がつくったものである)。インド軍と武装集団の戦闘は、夜間になるとやみ、夜明けと共に再び始まり、これが9日間続いた。結局民兵4名と治安部隊員3名が死亡、残る民兵達は首尾よく逃げてしまった※17。
テロリストとの同点引分け戦は、ムンバイ事件と類似している。違いは遠隔の地の戦闘でメディアが注目せず、民間人が人質にとられなかった点である。9日間の戦闘の末民兵は脱出に成功している。テロの脅威に対処する時、インドの治安部隊は実力をつけた武装集団と対決せざるを得なくなっているのである。
カシミール地方のジハーディストとインド軍の交戦が一過性でないことを物語るかのように、2009年1月13日に銃撃戦がおきた。この戦闘でパキスタンを基地とするラシュカレタイバの民兵2名とカシミール地方の警官2名が死亡した※18。インドの政策立案者達は、ムンバイ事件の後民兵グループの活動が減少すると考えた。しかし、カシミール地方のジハードはますます活発になっている。この一連の交戦は、イスラム民兵がインドで攻勢にでていることを物語る。
デカン・ムジャヒディンといえば、ムンバイ攻撃を含めインドの爆弾テロで何度か名前が挙がっている。今度は、インド南部の都市チェンナイで2009年1月7日−9日開催の在外インド人国際会議を襲撃する、と警告した※19。デカン・ムジャヒディンの指導部については何も判っていない。しかしこの2年間何度か、爆発の数分前報道機関にeメールを送っている。最近の例では今年1月第2週、5つ星のホテルチェーンであるレーラグループにeメールで爆弾テロの警告を送ってきた。初動調査で判明したのであるが、メールはケニアアラブ首長国連邦IPアドレスから送られているが、メールIDは単一であった。これは、国際的にリンクしたグループが運用している可能性を示唆している。ムンバイの或る警察幹部は少なくとも2人の人物がこのメールIDを使っていると述べた※20。

アフガニスタン

アフガニスタンでも、最近タリバンとアルカーイダ民兵が攻勢にでている。イスラエルのガザ攻撃開始から3日後、タリバンの一指揮官がアメリカのオバマ次期大統領宛公開書簡を発表した。この手紙は、アフガニスタンのトラボラ戦域指揮官ムジャヒド(Maulawy Anwarulhaq Mujahid)が書いたもので、エルサレムのモスク(Baitul Maqdis)が占領下にある限り、イスラエルとその支持者に平和はない、と警告している※21。
この手紙は、2008年12月30日付www.toorabora.com に掲載されたが、そのなかでムジャヒドはオバマ次期大統領に、アフガニスタンのみならずほかのイスラム諸国からの米軍撤退を求め、もし部隊が撤退しなければ、アフガニスタンのヘルマンド地方やイラクのファルジァ市のような状況が、ニューヨークやワシントンのような主要都市に現出する、と警告、アフガニスタンその他イスラム諸国における戦いの炎は、ワシントンで爆発すると威嚇した※22。これは、アフガニスタンパキスタン国境域に端を発する9/11計画の再来を示す明確な脅威である。
アフガニスタンのヒズベイスラミ(Hizb-e-Islami)の首領ヘクマトヤル(Gulbudin Hekmatyar)も、4000名を越えるアフガン青年を訓練中である。イスラエルに対するジハード要員の養成で、ワルダク地方750名、ロガル地方500名、タガブ(カピサ)地方1000名、ナンガルハル地方400名のほか学生1500名を訓練中。ヒズベイスラミは、この戦士達をガザへ送るべく準備中である※23。
一方、米軍及びNATO軍に対するタリバンの攻撃は衰えることなく続いている。今月はこれまで米軍かNATO軍の兵隊が少なくとも1日1名の割で殺されている。紛争の平和的解決を目指すアフガン政府との話合いについて、タリバンは参加アピールをはねつけており、今年1月第1週には、米軍とNATO軍の戦闘能力査定を発表し、平和の呼びかけをしているのは、多国籍軍の損害が大きいためであると述べた。タリバンは「アフガニスタンイスラム・エミール領戦士(Mujahedeen)は、軍事、政治及び社会正面で侵略軍とその傀儡政権に潰滅的打撃を与えている」としている※24。
アフガン政府は、タリバンが今や強固な足場を築いていると考えている。パキスタン軍がパキスタンアフガニスタン国境域からインド正面へ部隊を移したため、特に状況が悪くなった。アフガンのカルザイ大統領スポークスマンは、タリバンが今後益々自由にアフガニスタンに浸透してくると警告した※25。

・まとめ

近年アフガニスタンパキスタン、インドでイスラム武装集団が勢力を強めている。11/26ムンバイテロ攻撃で、この三国で暗躍する武装集団の連帯が、国際社会に明らかとなった。国際社会が認識したといっても、この三国におけるジハーディストのテロ活動が阻止されたわけではない。
例えば、パキスタンに基地をおくラシュカレタイバと、その慈善団体Jamaatud Dawa(JUD)を含むいくつかのフロント組織が、ムンバイ攻撃の後国連安保理によって活動を禁止された。しかしこの団体は何の障害もなく活動を続けている。パキスタン紙The Newsは2009年1月11日付で、次のように報じている。
「国連安保理の決議が出て1ヶ月、この団体の白黒旗はムリドケ本部(ラホール近郊)に掲揚され、今尚翩翻とひるがえっている。非合法化された団体に対する政府の処置がどこまで真剣か、大いに疑問がある…政府が活動を禁止したにも拘わらず、JUDの幹部達は自由に歩きまわっており、ラホールの商店街で公開集会さえ聞いた…主催者はムジャヒド(Yahya Mujahid)。JUDの広報本部長で、自宅監禁の処分をうけた幹部12名のひとりである」※26。
このように武装集団は、国際社会の目の届かぬところで攻勢にでて、着々と地歩を固めている。これからイデオロギー伝播と勢力圏の拡大につとめ、パキスタンアフガニスタン国境域とその外にイスラムシャリーアによる支配の確立をめざして行動するであろう。

※1 2009年1月12日付Roznama Mashriq(パキスタン
※2 2009年1月13日付The News(同)
※3 但し、太陽暦の2009年1月9日を除く。この日はムハッラムの第10日(Yaum-e-Ashura)にあたり、パキスタンでは新聞の休刊日である。
※4 2009年1月12日付Roznama Mashriq(パキスタン
※5 2009年1月8日付Roznama Jasarat(同)
※6 2009年1月5日付Roznama Mashriq(同)
※7 2009年1月1日付Dawn(同)
※8 2009年1月6日付Roznama Mashriq
※9 2009年1月6日付Daily Times(パキスタン
※10 2009年1月12日付Roznama Khabrain(同)
※11 2009年1月7日付Wrazpanra Wahdat(同)
※12 2009年1月13日付Daily Times
※13 2009年1月5日付同上
※14 2009年1月4日付Roznama Jasarat
※15 2008年12月28日付同上
※16 2009年1月5日付The Hindu(インド)
※17 2009年1月9日付同上
※18 2009年1月14日付Kashmir Times(インド、スリナガル)
※19 2009年1月5日付Roznama Etemaad(インド)
※20 2009年1月12日付Timesofindia.com(同)
※21 2009年1月8日付 MEMRI S&P No.2179「バラク宛公開書簡―トラボラ戦域指揮官?この火炎はワシントンで爆発する?」を参照。(http://memri.org/bin/articles.cgi?Page=archives&Area=sd&ID=SP217909
※22 同上
※23 2009年1月14日付Wrazpanra Khabroona(パキスタン
※24 2009年1月7日付Daily Times
※25 2009年1月2日付Roznama Jasarat
※26 2009年1月11日付The News  

(引用終)