ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

平山郁夫氏のご逝去

朝日コム」(http://www.asahi.com

日本画家、シルクロード 平山郁夫さん死去 79歳
2009年12月2日14時1分


(自作の前で語る平山郁夫さん=07年2月26日)

2009年秋に開かれた再興第94回院展に出品された平山郁夫さんの日本画「文明の十字路を往く――アナトリア高原 カッパドキア トルコ」


 日本画壇の第一人者で、シルクロードを描いた作品で知られ、文化財保存活動にも尽力した文化勲章受章者の平山郁夫(ひらやま・いくお)さんが、2日午後0時38分、脳梗塞(こうそく)で死去した。79歳だった。
 広島県で生まれ、旧制中学3年で被爆した。東京美術学校(現・東京芸術大学)で、日本画家の前田青邨(せいそん)に師事。卒業後母校の助手となり、1953年に日本美術院展に出品して初入選。以後、同展を拠点に発表し、59年発表の「仏教伝来」や61年の「入涅槃(にゅうねはん)幻想」などで評価され、仏教やシルクロードの歴史・風物、各地の文化遺産などを主題にした作風を確立する。
 また、法隆寺金堂や高松塚古墳の壁画の模写に従事。中国・敦煌の石窟(せっくつ)寺院を守るために、展覧会を開催して得た2億円を寄付するなど、世界の文化遺産の保存・修復活動を展開した。カンボジアアンコールワットアフガニスタンバーミヤン仏教遺跡なども含む広い範囲を対象とし、「文化財赤十字」構想を唱えてライフワークとした。
 その一方、73年から東京芸大の教授を長らく務めて後進の指導にあたり、89年に同学長に。95年に一度退いたが、2001年に再び選ばれて05年まで学長を務めた。その間、98年の文化勲章や03年度の朝日賞など受章・受賞を重ねた。このほか、所属していた日本美術院の理事長に就いたのをはじめ、日中友好協会会長や日本育英会会長、日本ユネスコ国内委員会会長などの要職を歴任した。

昨日、ネット上で訃報に接し、すぐさま上記のニュースをPDFにして、シンガポールのDにメールで送りました。彼女達がシンガポール代表として2008年夏に参加した大阪の国際美術教育学会で、基調メッセージをされたのが平山郁夫氏だったからです(参照:2008年8月4日付「ユーリの部屋」)。彼女達も、恐らくはよく覚えていることだろうと思ってのことです。
今朝、メールを開いてみると、さすがはすぐに返事が届いており、「日本の美術界にとって、大きな損失となるでしょう。この記事、仲間の美術教師達に送るね」とのお悔やみ文が添えられていました。

毎日jp」(http://mainichi.jp

この国はどこへ行こうとしているのか 画家・平山郁夫さん」(2009年1月9日掲載


 ◇「教育」が大切だ−−画家・平山郁夫さん(78)


 「言いたいことはたくさんあるんですよ」。取材申し込みの電話口で、平山郁夫さん(78)は言った。
 不況、そして雇用危機がこの国を覆う年の瀬、神奈川県鎌倉市の自宅を訪ねると、平山さんは応接室に入ってくるなり、ソファに座る間さえ惜しむように一気に語り始めた。
 「あっちにもこっちにも、気の毒な人が出ています。ただね、ふと思うんですよ。100年に1度の不況と言われていますけれども、昭和20年、1945年8月15日。太平洋戦争で日本が無条件降伏した日。100年どころか、たった63年前ですよ。そのことが全然出てこない。不思議だなあ、世代は変わったなあとね」
 45年8月、15歳だった平山さんは広島で被爆した。
 「私の中学校では、先生や生徒201人が即死しました。その後、放射能障害で亡くなった人も大勢います。同級生も60人以上が亡くなりました。広島や長崎だけではありません。日本の主要都市は米軍の空襲でほとんど焼け野原になった。何百万人もいた軍人は全部失業しました。今の失業率どころじゃない。住む家がない、食べものがない、着るものがない、薬なんてもちろんない。芸大近くの上野公園には、戦災孤児や浮浪者がいっぱいいました。戦争に負けた日本の惨めな姿、その時のことを考えるとね、景気が悪い、100年に1度の危機だなんて言われても、そんなことはない、まだまだ豊かじゃないか、そう思えてならないんですよ」
 頭から消えることのない敗戦後の日本の姿。それはスケッチ旅行やユネスコ(国連教育科学文化機関)の活動などで幾度も訪れたアフガニスタンイラク、中東やアフリカの国々で見た景色に重なる。
 「めちゃくちゃですよ。食べものも薬もなく、子どもたちがどんどん死んでいく。国際援助をしても、物資が届かないこともよくありますし。地球上に60億の人がいて、日本のようなレベルの暮らしができる人はそのうちの1割いないんじゃないでしょうか。しかし、ちょっと振り返ってみれば、つい半世紀ほど前の日本です。今の日本人は、自分の国の大変な苦境の時を忘れてしまったんでしょうか
 戦争に負けて豊かになった日本。だが、失ったものは多いと嘆く。
 「人間性や精神性、倫理観……。高齢者や困った人につけ込む振り込め詐欺事件が多いですね。食べ物の偽装をして、ごまかしたりお金をもうけたり。毎日のように責任者が出てきて会見で『どうもすみませんでした』となる。みっともないというか、今の日本の姿を表していると思います。本当の人間的な豊かさを持っていたら、こんなことはないと思うんですよ」
 「中央教育審議会中教審)や有識者会議で、道徳を教科として教えるかどうか話し合われていましたが、管理統制につながるなどの理由で反対もあったと聞きます。道徳だとか修身というのは、軍国主義に結びつくからということなのでしょうか。そうではないと私は思いますね
 07年に中教審で検討された道徳教育の教科化は、賛否両論を盛り込んだうえ、結論は先送りされている。
 「私は、軍国主義というのは一種の原理主義だと思うんですよ。今、イスラム教徒の名の下でテロを引き起こしているのは、アルカイダとかタリバンとか、一部強硬な原理主義者たちです。排他的で考えの違うものは一切認めない。でも、他の十数億のイスラム教徒は自由であり平等であり親切なんです」
 アフガン内戦で住む土地を奪われ、パキスタンに流れ込んだ難民のキャンプを訪れたことがある。そこで出合った光景が忘れられないという。
 羊の肉を持った貧しそうなアフガン人の男性が裸足で歩いていた。そこへ次々と手が差し伸べられた。すると男性は持っていた肉を少しずつみんなに分け与え始めた。手から手へと−−。
 「結局、その男性の手には小さな肉の切れ端しか残っていませんでした。これが本当のイスラムの人なんです。お互いに助け合おうという心です。日本だって同じですよ。軍国主義は一部の原理的な人たちが独走した結果。本当の日本精神かといえば、絶対そうじゃない。日本は昔から八百万(やおよろず)なんです。寛容でいろいろなものを取り入れる民族性がある。教育とは知識を詰め込むだけではダメです。人間性や精神性、いたわりや感謝する気持ち、人間としてバランスのある感情を育てていかないと
 翻って、今の日本はどうなのか。「自分の努力が足りない、怠けているのをさておいて、親が悪い、先生が悪い、社会が悪いと、責任を押しつけてばかりいる己を顧みることを忘れているわけですね。これをどうしたらいいか。やはり物心がつくかつかないかぐらいの小さいときからの教え、しつけが非常に大切だと思うんですよ」
 昨年12月に、暗殺されたアフガニスタンマスード将軍の兄弟が来日し、平山さん宅を訪ねてきた。「アフガニスタンはどうしたら平和で新しい国に生まれ変われるか」という質問を投げかけてきたという。平山さんは「やはり教育だ」と答えた。
 「貧しくても、たとえタリバンの子であろうとも、勉強したいと思う子には差別なく、教育を授けてあげたらどうだと言ったんです。そうしたら『それはいい。やりたい』と言っていました。それならば学校をつくる手伝いはすると言ったんです。武力による解決は絶対ダメだということも言いました
 さらに言葉を継いだ。
 「なぜ日本が戦争で焼け野原になって、あれだけのどん底に落ちたのに今日があるかといえば、いろいろな国際的援助があったからです。そして平和だったからです。今度、米国の大統領がオバマさんになります。イラン、イラク北朝鮮などいろんな問題を敵対じゃなく、話し合いで解決しましょうと言っています。日本も人道的な面や福祉、技術支援や経済協力など、アメリカではできない、日本なりの国際的役割を果たすべきです
 昨春、体調を崩した。「神の啓示と思って」これまで引き受けていた名誉職をすべて辞めたという。「あとどれだけ絵が描けるか、時間との競争です。そう思ったら、あれも描きたい、これも描きたいというのが出てきて」。1日8〜9時間はキャンバスに向かうという
 写真撮影のため案内してもらったアトリエの壁には、砂の色で下塗りされた絵が2枚、立て掛けてあった。イスラム教寺院のモスクが描かれていた。「他のことに時間を取られず、今が一番自由に絵が描けるときですね」。そう言って平山さんは、いとおしむように描きかけの絵に目をやった。
 完成したら、そこには何色の風景が広がっているのだろうか。早く見てみたい、と思った。【小松やしほ

 ・人物略歴
 ひらやま・いくお
 画家。1930年、広島県生まれ。東京美術学校(現東京芸大)卒。59年「仏教伝来」が院展入選。以降、シルクロードをテーマに連作を描き続けている。前東京芸大学長。ユネスコ親善大使、文化財保護・芸術研究助成財団理事長。21〜26日に福岡三越、2月14日〜3月31日、目黒雅叙園で展覧会を開催予定。