ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

再会と新しい出会いと...

地域研究とは自己の映し鏡である、と十数年前に教わりました。研究だけでなく、人間関係でも同様でしょう。自分の価値観が相手に反映されて、そのフィードバックが自分に返ってくるのです。特に、海外に出た時、公的な目的以外の自由な時間に、どこへ行き、誰と交流し、何に目を留めて、どのように解釈するか、ということは、国内よりも本来のものが出てくるかもしれません。
...などと書き始めて、なぜか筆が、いえ、入力が止まってしまいました。クリックしてくださった皆様、大変申し訳ございません。

不器用なために、普段から多少慣れないことをすると、後で失敗したのではないかなど反省点ばかり出て、一日中ブルーになります。今回もそうでした。
ただ幸いなことに、どうやら、それも思い過ごしだったとわかりました。

たった今、京都に宿泊中のシンガポール人の友人へ電話をかけたところ、観光とこの暑さで、すっかり声も変わり、大変疲れている様子でした。でも、こちらの一人よがりと思い込みをよそに、皆が私のことを「かわいくておもしろい人だね」「一人友達ができた」「いろいろ話せてよかった」と喜んでいたと言ってくれました。実際には、ショッピングやグルメなど、いろいろ大阪の案内を期待されていたようだったのですが、一緒に来る人数がわからなかったのと、あの近辺へはほとんど行ったことがなかったので案内しようもなく、内心、緊張が走ったことも事実です。また、プログラムを見て「教育省」などと肩書がついていたため、てっきりお目付け役にお役人も同行されているのか、などと勝手に解釈してびっくりし、帰宅後は、一人で「シンガポールの教育制度と政策」について調べながら、自分の対応のまずさを考え込んでしまった次第です。なんせ、聞くところによれば、シンガポールは能力制度で給与が格段に異なるようですし、ある筋によれば、リー・クアン・ユー氏なぞ、2億円の報酬があるそうですから。いったい、教員であるシンガポールの公務員とは、どういう待遇なのか、マレーシアに没頭しているうちに、すっかり感覚がずれてしまっていたわけです。現在の日本は、政策上もさまざまな歪みや停滞があるため、シンガポールに先を越されている面も多いと思っていただけに、特に、です。

私自身、国際はおろか国内学会でも、まじめに気を張ってがんばり、他からも吸収しようと必死にメモをとるので、大抵はとても疲れます。終了後は、知り合いに会うなら、歩き回ったりグルメを楽しむよりもゆっくりおしゃべりしたい方ですが、どうしても本や勉強の話が好きで、社交会話はそれほど得意とも言えません。そのため、今回も特に予定なしに、思い出の分かち合いと、言葉につまった際、何か話のつなぎになればと、鼻の頭に大汗をかきながら、たくさんの古いアルバムを抱えて出かけて行きました。実際に到着してみると、さすがは学校の先生らしく、皆さん時間にもきっちりされていて、こちらがかえって恐縮してしまいました。国際学会なら、時間もずれ込むことが多いだろうとたかをくくり、多少は自分達で飲み物など休憩もしたいだろうしと、約束時間に私なりのさばを読んでいたのです。すると、向こうは向こうで、日本人だから時間には厳格なのだろうと思って、ぴっちりと待っていらしたのです。
ここがそもそもの‘失敗’の始まりで、道頓堀はどうか、とか、ゆかたではなく着物を買うにはいくらするのか、Jリーグはどうだったか、英訳マンガはどの本屋さんで売っているのか、などと矢継ぎ早に尋ねられると、(え?道頓堀は田辺聖子さんの小説にあるけど、私、行ったことない)とか、(大阪はミナミよりはキタの方が距離的に近いし、雰囲気も好きだし)とか、(テレビはほとんど見ない生活だし、スポーツはよくわからないし)とか、(日本のマンガが人気のあるのは知っているけれど、そもそも読まないからなあ)ということで、私自身の下調べ不足とサービス精神のなさが露呈されてしまいました。‘ガイド役’失格ですね。

特に「着物」については、東京に日本人の友達がいるという「ボス」なる女性が、「着物」をプレゼントされたのだけれど盗まれた、だから買いたい、と言い出したのは、私の着物姿の写真を見た時でした。で、「それはゆかたじゃないんですか?シンガポールは暑いので、そんな冬用の着物なんて誰も着ないはずですよ」と言うと、「浴衣じゃない、着物。浴衣は私達のホテルで寝る時着るものでしょう?」と、留学経験のあるはずの友人まで言い張るのです。ますます機転の利かなくなった私は、「だって、帯もすべて揃えるんでしょう?日本では、母から娘へと大切に受け継いで着る習慣のあるほどの着物だから、質にもよるけれど、60万から100万円ぐらいするんですよ」と言うと、今度は友人がびっくりして、割り箸に数字を書いて見せて、と言い出し、かえって目を丸くしていました。ところが、その「ボス」女性が、「うん、大丈夫。支払える」と自信たっぷりに言うので、「そんな、普通では持ち運びもしない物を、日本で買われるんですか?」などと言いながらも、(シンガポール人としてのメンツもあるだろうし、同僚とはいえ微妙な距離もあるのだろうし)と混乱してきました。「ゆかたなら、先日も1万円から2万円の表示がついているのを見かけたんですけれど」と一生懸命言い添え、「京都なら、外国人に親切な人が多いから、交渉次第で安くできる」などとも付け加えました。

とっても、かつては日本語教師として外国人と渡り合っていた者とは思えませんね。

とはいえ、これは双方の勘違いや誤解に基づくものでもあり、友人は今回、「飛行機代も宿泊代もすべて自分で支払った」と言い張る一方、他の「ボス」なる行政職の女性は、「飛行機代や宿泊代のみシンガポール政府が支払ってくれた」と言うので、これは(一般教員と行政職とでは待遇が違うのかな、シンガポール政府は何でも競争的に管理したがるから)などと、またまた一人で先走って気を回してしまい、ポジションが違うならこちらもそれ相応の対応を期待されていただろうに、私はそれが察知できなかった、などと落ち込んでいました。また、海外で発表すれば「業績ポイント」にもなるのだろうから、(それとショッピングとはどう関係するのだろうか、今のシンガポールには日本にあるものは大抵揃っているので、わざわざ日本に来て買いたいものなんて本当にあるのだろうか)と思っていたのです。

それで、結局は頼りない私の方が食事代をおごってもらってしまい、(え?地元人なのに役立たずのせいで支払ってもらっちゃった)と気になり、「じゃ、取り戻しのために日曜日の夜にもまた会いに来るわ」などと宣言したところ、大変喜ばれたのはよかったのですが、同時に、(じゃあ、どこへ連れて行けばいいのだろう。今度は失敗できない)などと思い詰めてしまいました。もちろん、華人のおごり習慣を知っていたはずなのに、知識と現場がうまく結びつかなかったのでした。

ここまで読んでくださった方は、(???)と思われませんでしたか?なんだこれ、何を一人で空回りしているんだろう、と。

そうなんです。シンガポール人はマレーシア人よりも裕福だとか、教育も競争的だとか、オフィシャルに来日しているのだからフォーマルでなければ、などといった、間違ってはいないけれども偏った知識や先入観が邪魔をしているんです。もっと気楽に、20年ぶりに再来日した友達と、学会を機に会えることで、単純に喜んで重い荷物を抱えてここまで来た日本人なのか、と歓迎されているとシンプルに受け留めればいいのに、双方のコミュニケーション・ギャップとそれぞれの期待値の交錯とが、一つ一つに対して敏感に過剰反応させてしまっていたんですね。
確かに、今ではデジカメに古い写真もスライドショーのように取り込んで見せるのが通常なのに、私はアナログ人間そのもの。というより、私の考えでは、古いアルバムを見せれば年月の流れも反映され、計8人の話題も、それぞれに好きなアルバムを手に取って、興味がなければパスするだけで、逆に気楽だろう、と思ってのことだったんです。
ただ、スシロ先生などもそうでしたが、シンガポールの友人も、この種の文明の利器の使いこなし方は実に抜け目なく、むしろ、時代に遅れずモダンであろうとすることに誇りと自信を持っているので、逆に私に対して(え?日本人なのに?)という反応でした。この点は、所属する国の歴史や背景がなせる業かもしれませんね。つまり、戦後の独立国家の人が敏感に現代文明を習得しようとするのに対し、古くて伝統のある国の出身者の方が、かえってゆとりがあるというのか、古いものに愛着を持てるというのか...。このギャップは、客観的に見れば対照的でおもしろいのでしょうが、シンガポールのような国は、私の知る限り、超進歩的なところと古風なしきたりや振舞いとが入り混じっている面とがあり、シンガポール人としての誇りを傷つけたくはない一方で、一直線に前進するばかりが能じゃないんだけど、などと思ったりもします。

また、こちらが妙にシンガポールの物価基準や相場を配慮したつもりになっていると、「それぐらい、自分達でも払える」とか「持っている」という話になりがちなので、初対面ですべてを察知し、器用に対応するのは、本当に難しいと思いました。公的に仕事能力の一部として見られているのか、それとも純粋に私的な集まりとしてリラックスしたいのか、という点は、事前にしっかりと打ち合わせもしていなかったので、どこか行き当たりばったりになってしまったようです。

結論を言いますと、お役人が含まれていたのではなく、皆それぞれ違う学校に属する中等学校と初等学校の教員あるいは副校長のグル―プという組み合わせでした。また、昨年、ヨーロッパにも同じグループで学会に出たと言うのでとても圧倒されていたら、実は美術研修旅行だったとのこと。今回の企画も、シンガポール政府が管理しているのではなく、奨励しているのみで、学会員ではないものの、個人レベルで自発的に今回の学会発表を申し込み、受理されたとのことでした。こういう事情は、友人の話を鵜呑みにするのではなく、ホームページでの追跡確認と、他のメンバーからも追加説明を受けなければ、背景の把握はしにくいものです。それぞれ、個人事情があるでしょうし、どこかよく見せたいこともあるでしょうし...。

しかし、このシンガポール代表団からは、多くを学びました。マレー人女性の先生も一人来てくださったのですが、確かに「オープンだ」と友人が称しただけあって、スカーフのかぶり方もおかみさん風に形だけ。1990年赴任当時のクアラルンプールでよく見かけた、かなり胸のあいた懐かしい服装でしたし、英語もよく話し、大らかな感じの方でした。まずマレー語で挨拶をし、「ここはハラール・フードじゃないから」と伝えると、「生の魚ではなく、火を通してもらえればいい」など、こちらに合わせてもらえ、かえって私の方がリフレッシュされた感じでした。振り返れば、大学に招待されるムスリム学者やムスリム代表の方が、堅苦しいというのか、高度だけれども不自然な規範性が強いようにも感じます。なのに、お酒をたしなむムスリム教授までいますし...。その他には、カトリックの方が二人、プロテスタントが三人で、私のリサーチテーマも即座に理解してもらえました。これも、実に新鮮でした。この点、マレーシアではマレー人に気を使うせいか、また、非マレー人にもかなりの多様性があるためか、どこかかなり複雑な経路を辿るように私には思われます。また、マレー人の先生の前でも、皆平気で「私、カトリック!」「日曜日のミサとキリシタン記念碑はどこへ?」などと発言するので、やはり国が違えば人も違うんだなあ、と改めて感じました。
そのうちの一人の男性が、帰宅後すぐにメールをくださり、京都でのミサやキリシタン殉教碑への行き方について尋ねてきました。こういう点では頼りにされたんだなあ、とうれしく思いました。また、もう一人の行政職の方が、「もう私達、友達になったのだから、今度シンガポールに来る時には、ぜひうちにも連絡してください」と繰り返し言ってくださいました。

それぞれの思いもあるでしょうが、基本的には、シンガポール人はやはり開放的で人なつこく、大らかであったかい人達だということを再確認しました。気候では疲れることも多いですけれども、あの利便さと共に、人々とももっと触れ合いたいという気持ちになってきました。