ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

シンガポール雑感とお土産の話

シンガポールといえば、私が小学校の頃だったか、父方の叔母が医学会出席のためか何かで出かけ、タイガーバームをお土産に買ってきたことを覚えています。日本でそういうものが珍しかったのか、シンガポールらしかったからなのか、今では判然としませんが、それにしても随分、国も発展し、イメージが変わったなあと改めて思います。
軍医として中国北部、樺太満州など北の方に縁の多かった父方の大叔父も、シンガポール訪問記を随筆に残しています(加藤静一小天地東南アジア漫遊記」新信州社 1970年 pp.218-241)。(参照:2008年4月22日付「ユーリの部屋」)。この文章は、アンコール、バンコク、香港(シャンカン)、台北、高雄(カオシュン)などについても触れられてあって、なかなか味があります。受けた教育の差なのか、今ではあまり目にできないような内容です。早速これをコピーして、友人へのお土産に加えましょう。このブログでも、いずれ部分的に入力してご紹介することになるかもしれません。
近親者との関わりでいくならば、実際にはシンガポールと何らかのご縁があったはずなのかもしれません、マレーシアよりも。ただ、若い頃の私にとっては、シンガポールは人と言葉が違うだけで、ほとんど日本の大都市と似ているので、なんらおもしろくもなかったのです。便利で機能的だけれど、文化的な違いからくる新鮮さというものは、あまり感じられませんでした。今は多分、自分の研究テーマとの関わりと時間を費やし過ぎたことへの苛立ちないしは悔恨が、そのように思わせているのでしょうか。

戦前戦時中のマライ語学習書を相当数、神戸の図書館と国立国会図書館で集めたことがあります。口頭発表は済ませたものの、残念ながら、まだ論文にはしていません。何冊かの前書きによれば、シンガポールでは、人々の言葉遣いや振る舞いが乱雑で、いわゆるマレー語でいうところの‘kasar’だったらしいのです。それに比べれば、マレー半島やジャワでは、人々の物腰とマレー語の使い方に、優雅さと気品があったとも書いてあります。
ところが、ここ十数年の私のささやかな経験によれば、地方では確かに、礼儀作法が守られているとは思いますが、首都のクアラルンプールでは、人によっては、マレー人でも傍若無人で居丈高な振舞いをしたり、多くが早口過ぎる英語を話すのでかえって下品に見えるのと、民族や職業によって異なる対応を迫られることへの気疲れを感じることがあります。一方、シンガポールに降り立つと、概して接する人々が非常に丁重でにこにことしていて、特に華人男性がドアやエレベーターを押さえて通してくれたりするなど、マナーがよく、親しみやすい印象を持つのです。外国人慣れしているのと、皆が外交官よろしく振舞うのが洗練された現代都市国家の市民的義務でもあるかのようです。

ですから、誰の言説が正しいとか事実に即しているなどということは、簡単には言えません。当然、時代や国際情勢などが左右する面も大きいでしょうし、何を好ましいと思うかについては、こちらの社会文化基準や行動規範が反映されますし、その場その場の文脈によるのでしょう。複雑な東南アジア理解の難しさ、あるいはおもしろさは、多分、万華鏡のような多彩さにあると言えます。
結局のところ、相手を見つめているようで、実は自分自身のあぶり出しなのだと思います。

リー・クアン・ユー(著)・小牧利寿(訳)『リー・クアン・ユー回顧録 [上] [下] ザ・シンガポール・ストーリー日本経済新聞社2000年)を、息詰まるようなハラハラドキドキする思いで読んだのは、2001年1月下旬のことです。読書ノートの覚え書きには、「何でもすばやくしたたかに学び、取り入れる機敏さと秀英さ」「もしこれが事実通りとするならば、日本で書かれたシンガポールについての社会系論文のほとんどが、いささか表面的な分析に基づいているということになる」などとあります。いつものことながら、ノートにメモをとった他、部分的に複写をしました。たまたま他の用事も兼ねていたので、町内のコンビニにあるコピー機の前で奮闘していたら、同じく町内の人らしい初老のおじさんが「ほう、リー・クアン・ユー。そういうものを読んでいるのか」と感心したように言いました。別に衒学的でも何でもないのですが。
昨夕は、友人の再来日20周年記念とお誕生日も兼ねて、電車に乗って街へ出かけ、あちらこちらで品探しをしました。すぐに何とかなるだろうと思っていたのが、案外に時間のかかるもので、(あ、これ)と思っても在庫がなかったり、(この程度ならシンガポールにもあるだろう)という感じで、結構あちらこちらを歩き回りました。昔は、(買うより会うことの方が大事。手荷物が増えたらどうしよう)などと都合よく言い訳をしながら、ギリギリになって空港の売店で済ませてしまったりもしたことがあります。それ程、精神的に余裕がなかったというのか、相手が見えていなかったというのか。ある時、マラヤ大学の指導教官から、「あなた、空港でこんなもの買ってくるよりも、もっと他にすることあるでしょう?」と言われて、ぎくっとしたことがあります。もっとも、ロンドンとクアラルンプールをよく往復しているような先生なので、私が手渡したものも、すぐに(空港売店で買ったんだ)とわかってしまったのでしょう。とはいえ、食べ物は好みがあるだろうし、手ぶらで行くのも感覚的に気が引けるし、ということで、仕方なく「日本的なもの」を渡そうとするなら、京都の土産物屋さんと同じ品が、実は空港ではもっと安く売られていることもあるので、そのようにしたのですが。
今回、友人に買ったのは、「風鈴」。ふと太田愛人先生のことを思い出し(2008年2月17日付「ユーリの部屋」)、「南部鉄」の飾り風鈴にしてみました。多分、京都観光の日にも、かなりお土産を仕入れるでしょうから、少なくとも、産地だけは同じものにしたくはなかったのです。
以前、プレゼントしたものをすっかり忘れてしまって、シンガポールの彼女宅に上がった時、「これ、かわいい飾り物だね」と言うと、「それ、おまえからもらったものだよ。覚えていないのぉ?」とびっくりされ、そばにいたフィリピン人メイドさんにも「彼女、自分のしたこと覚えていない」と笑いながら説明していました。メイドさんは、どのように反応したらよいかわからないような困った表情をしました。なので、今回は、記念も兼ねて、贈った品を忘れないよう、同じものを自宅用に買い求めました。少し重いけれど、空港のチェックでひっかからなければ大丈夫。店員さんも、「珍しいものだから、よく外国人の方にも買って行かれる方多いですよ」とニコニコ顔で、‘Wind Bell’と言えばよい、と教えてくださいました。
お金で友情をつなげるのは絶対に嫌なので、なるべく無理のない範囲で、その代わり自分の趣味にも合い、相手も負担に思わずに受け取ってくれそうなものを選ぶようにはしているのですが、お土産では、マレーシア赴任後しばらくは、いろいろと迷ったり失敗したりもしました。若かったので許されたようなものです。日本から持っていくものは、よほど世界各国を飛び回っているような人でない限り、大抵何でも喜んでもらえたのですが、日本に帰る時が一番、困りました。
1990年にマレーシアからインドネシアに飛んだ時には、マレーシアの発展と、インドネシアよりはよい華人待遇をうらやましく思っている中国系インドネシア人の友人が、うれしそうにしてくれました。しかし、バンコクでは、友人達自身がタイ文化に誇りを持つ裕福な階層の華人系だったので、マレーシアからのお土産といっても、さほどという感じでした。まあ、背景はよくわかるのですが。シンガポールに行くのに、手持ちの日本土産がこと切れていて、教育関係の仕事のためのマレーシア滞在なのに、ビジネスマンよろしく日本土産をばらまくのも変だし、とのことで、仕方なく日常的な鍋敷き風の木の実飾りを持っていったところ、マレーシアへは休暇の度に数え切れないほど行っている友人家庭では、お母様が冗談ぽく、「マレーシア土産を日本人が持ってきた」と笑いました。昨日も書いたように、このご家族は温かくて裏表のない人柄なので、めでたくそれで済んだのです。でも、着る物一つ色遣い一つとっても、インドネシアならバティックのワンピースをきれいだとほめてもらえても、シンガポールでなら「それ、ちょっとやめてくれない?日本から着るもの持って来なかったの?」などと言われる始末。当時は、日本の夏物だとかえって目立ち、浮いて見えたので、二十代半ばの単身女性としては、身の危険を考慮して、なるべく地元に溶け込もうと努力していたのです。それが、そのような反応になるとは...?

本当に、あの地域一帯は、日本だけの尺度で推し量ってはならないのだという複雑さをしみじみ感じました。ここが、観光客と一時滞在者との大きな違いです。外国人観光客なら、京都などでもそうですが、どんな変な格好をして歩いていたって、誰も何も言いません。白人が冬場に半袖Tシャツなんて、よく見かけるところです。しかし、留学生や研究滞在などとなれば、その人の服装で読み取れるメッセージもあるので、それなりの見方となります。浴衣を喜ぶ留学生なら、まだ滞日経験が浅いんだな、という解釈になるとか。

さて、話を戻しますと、日本に帰った時に渡すお土産として、当時は、せいぜいバティックかピューターしかなく、それも単調なものだったり、見かけ倒しだったりして、かえって、渡すことで恐縮する気持ちにさせられました。「本当につまらないもので申し訳ないんですけど」と、挨拶ではなく、本音で文字通り言わざるを得ない状況でした。バティックで作った小さなペンケースなど、今も私は自宅で愛用していますが、人によっては(なに、この安物)と思うかもしれず、毎回、お土産渡しはビクビクものでした。同時に、内面の葛藤も相当なもので、(こんなことを言うなんて、マレーシアの人々に失礼だ)と感じていたのです。この苦境、経験したことのない人にはなかなか実感できないかもしれません。
ある時、ベトナムのお茶を渡そうとしたら「結構です」と断られてしまったことがあります。これも結構、トラウマになっているのです。
...という話をすると、「私、そういう難しい人とは付き合わないようにしているから」「ずいぶん失礼な人が周囲にいるんじゃない?」と指摘されました。お土産が脅迫観念のようになっていると、相手の反応がどうしても気になることもあるでしょう。ただ、国の経済格差やイメージの問題も絡むので、品選びは本当に困難でした。確かに、クアラルンプールの昔の国際空港でも、シャネルの香水だとか、ウィスキーだとか、いわゆる高価なブランド品は売っていたものの、そちらに関しては、私の方が、いかにも旅慣れぬお上りさんらしいものを好まないせいもあり、最初から度外視していました。

同僚に聞いてみると、南洋の果物を模ったアクセサリーとか、マンゴ・プリンなどは誰でも喜んでくれるよ、などと教わりましたが、私自身がマンゴで手荒れするので人には勧められないのと、アクセサリーは、つけるなら、ある程度はきちんとした無難なものを、というタイプなので、そもそも相性が合いませんでした。どうもこの辺から、「合わない環境で無理やりがんばっていた」という兆候がちらほらしているような...。それと、やはり時代が変わり、当時なら珍しかったマレーシア赴任も、今なら気軽な感覚で出かける若い人も増えてきました。この意識の差は大きいものです。日本の方も、クールビズなどと、ラフな方向に変化してきていますから。

手作りのものが一番だとは思いますが、なかなか。時間の関係やらで、億劫になってしまいました。だから、必ずカードを添えることにしてはいます。
多分、旅から旅への生活を送っている人にとっては、お土産慣れしてしまい、かえって新鮮さがなくなるのでしょう。特に、最近では、どこの国のどこのお店に行っても、何となく似たようなものばかりが陳列されていて、珍しいもの、その土地じゃなければ、というものが減ってしまいました。日本らしいものをと思っていると、実は中国産だったりもするし、お店に行かなくても、インターネットで簡単に何でも注文できてしまう時代です。
規格化された都市に型通りのお土産。グローバル化の国際社会とはいうものの、だんだん、おもしろみがなくなってきました。
というわけで、明日の夕方は、私が会場に赴いて、シンガポールの友人および同僚と夕食を共にし、再会の喜びと新しい出会いを味わうことになりました。楽しみ!