ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

いいことが続きますように!

今日は妹の誕生日。これといって何をするでもありませんが、考えてみたら、お互い、すごい年齢になっているんですね。びっくりしました。兄弟姉妹というのは、子ども時代の記憶の延長で関係が成り立っている面があるので、客観的に年齢を数字で表すと(え!もうこんな年なの?)と信じられない気持ちになるんです。子どもの頃は、自分がそんな年になるなんて想像もできなかったのに...。
また、昨日は『みるとす』が届き、投稿文がまたもや掲載されたことと、やっとクイズ当選者になれたことを知りました。この雑誌記事には、結構硬派なものが多く、最初の頃は、私にとって、なかなか手硬いクイズでした。正解が掲載されていなかったので、リクエストしたところ、すぐに次号から答えが載るようになったのはいいのですが、答え合わせをすると間違ってばかりで、気落ちしていました。でも、がんばって毎回出し続けたら、ようやく正解に。そして、抽選でプレゼントが贈られることになったのです。やったぁ!継続は力なり、ですね。
さらに、あるキリスト教系の英文サイト記事を運営している方から、私のブログを見て、何か原稿を送ってほしいとメールが来ました。驚いたことに、某国の元外交官だった方だそうです。確かに、英語で書けばさっと伝わることもあり、読者層が広いので有利だということもあるでしょうね。早速、検討してみます。
昨日は、またもや暑い中を民博図書室へ通い、すっかり日焼けしてしまいました。ちょうどシンガポールから友人が関西空港に到着予定の時間に、広々として人っ子一人いない敷地をテクテク歩いていると雷が鳴り出し、あたりが次々と光り始めました。(無事に着陸できるかな)と空を見上げて心配していたら、またピカッと光ったので、(飛行機なら避雷針があるけど、丸腰のこっちの方が危ない)と、急ぎ足になりました。すると、門口近くでドッと大粒の雨が降り始めたので、やおら傘を取り出して、やれやれって感じでした。
図書室へ着くと、先日、日傘を置きっぱなしにして帰ったことを指摘され、恥ずかしい思いでした。安物だし、手で触る部分が薄汚れていたし...ロッカーに入れて帰る時にまた使うから、と、いい加減なたたみ方をしていたのです。こういう時こそ、普段の地が出るというものですね。昔は、ピリピリと神経をとがらせていたんですが、最近はどうも...。
どんなにマイクロフィルムに集中しても、結局は数十ページ分しか終わりませんでした。「資料、どうしますか」と聞かれて「まだ終わらないんで、また来ます」と答えるのが、何だか申し訳ないような気がしました。主人に言わせると、「なんで?国の税金で購入した資料なんだろ?ちゃんと規定に従って利用しているんじゃないか。申し訳ないのは、資料が使われなかった場合の方だ。どんどん遠慮せずに使ってあげたらいい」とのこと。
それにしても、あの緑に囲まれた広大な土地と立派な建物が、いつ行っても静かで閑散としているんです。夏休みなのに、子ども連れが集まっている様子もなく、もったいないなあと思います。車通りもめったにないし、歩いている人もそれこそまばらです。前を見ても後ろを振り返っても、私一人だけのことが多いです。大体、充実した施設なのに、どうして人が集まらないのか、ということが疑問です。
家に辿りつくと、留守電ランプが光っていました。取り上げると、雑音というのか金属音しか聞こえず、断念。二回続いていたので、これはシンガポール人の友人だな、と直感。ホテルへ電話してみると、フロントが何やらもたついた対応で、(こりゃ、ダメだな)と思いました。「はい、シンガポールから今日はたくさん来られていますので、どなたなのか、名前がよくわからないんです」。たくさんっていったって、たったの9人じゃないですか?どうも受付で、フルネームではなく名前のみを記したらしいので、ますます混乱の模様。ふうっ。もっといいホテルに泊まったら?会場に近いからということもありますけれど。
結局、夜になってから、再度もたついた応対を別の係の人より受けつつ、ようやく本人につながりました。1時間ほど、夢中になって喋りました。日本語専攻だったのに、もうすっかり忘れているので、もっぱら英語です。その方が、かえっていろいろ喋りやすい面もありますが。テンポが速く、トントンと話題が進むので、楽しくて、笑い転げていました。こんなに笑ったのも久しぶりって感じですね。
固まっていた時間、あるいは、止まっていた時計が再び動き出したような感触でした。国や民族を超えて、若い日の共通の記憶を取り出して分かち合える機会というものは、ありそうで案外ないものではないでしょうか。

彼女は、子どもの頃、家族旅行で日本に来たことがあるそうですが、その後、文部省留学生として1年間(正確には10ヶ月)名古屋大学に留学して以来、20年ぶりの再来日です。そもそも、親しくなったきっかけは、留学生寮のチューターとして住み込んでいた私の部屋の隣が、彼女だったことにあります。また、長老派教会のクリスチャンだということと、西欧化したシンガポール世代の中で、中国系(「華人」としてではなく)としてのルーツを大事にする文化的背景が、国文学専攻だった私とどこかで重なっていたのでしょう。

二人で話しながら、「20年」という数字の重みに、お互いびっくりしました。早いといえば早い、いろんなことがあったと言えばあった、その中で、変わらないものもあって、それが私達の友情なのかな、という感じです。彼女の結婚式にも出席させてもらいました。というのは、ちょうど私の二度目のマレーシア滞在期と重なったからです。それも、日本から送った荷物が届かず、結婚式前夜には、花嫁さんである彼女のお母さんから着るものを借りたりして...。しかも、花嫁さん宅に泊めてもらったのです。なんて日本人!
でも、当時の留学生仲間達との連絡は、タイやインドネシアや同じシンガポール人同士でさえ、もやは途切れているそうなので、やはり何かがないと人間関係は続かないということなのかもしれませんね。もっとも、私がマレーシアに赴任すると知って、わざわざシンガポールから電話をかけてくれたのは彼女でしたし、初めてシンガポールに行った時にはチャンギ空港までご両親揃って迎えに来てくださいました。つまり、マレーシアとの関わりが長い私に対しては、彼女も「じゃあ、複雑な状況に置かれたシンガポールや民族問題に直面してきた私達の気持ちもわかるでしょう?」という期待を寄せることができたようです。
私の方も、マレーシアを訪れる度に、必ずシンガポールの彼女へ電話するようにしていました。「え!まだやっているのぉ!」と呆れられながらも。だって、ここまで来たら、引き返すわけにもいかないじゃないですか。それだけ当時は、日本側のマレーシアやシンガポールに対する意識や理解が不足していたということでもあります。私がリサーチを始めた頃は、少なくとも知る範囲に限れば、日本では、政治経済と民族問題が研究の主流で、それに言語や教育や戦時史などが加わった程度でした。それ以外は、「貧しい第三世界の東南アジア」「国際交流」という側面が大きな部分を占めていたかと思います。滞在経験を通して得たもっと複雑で流動的な地域事情は、日本の利益に直結しなかったこともあってか、ほとんど触れられていなかったように記憶しています。ましてや、プロテスタント教会史などは、教科書的な記述あるいは翻訳が中心だったように思います。ですから、繰り返すように、最初は本当にどこから手をつければいいのか、皆目見当がつきませんでした。
かなり前、別の機会にシンガポールを訪問した私に、彼女が言いました。(シンガポールはもう何度も行っていますから、パスポートを調べないと、正確な回数がわからないのです。)「おまえ、だんだんいい日本人になってきたね」と。「同じ中国系でも、出身地や方言によって社会階層や住む場所が違ってくるなんて、シンガポールも大変だね」と私が一言つぶやいたからです。その頃はまだ、「単一民族国家の日本」などという言葉が大手を振ってまかり通っていた時代でした。先進国顔をして、アジア圏を一段低く見るような風潮が残っていた時代です。でも、知れば知るほど、日本が経験し得ないであろう社会の困難さを身にしみて感じるようになり、そのことが彼女の褒め言葉へとつながった模様なのです。

シンガポールを初めて訪問した時には、羽目を外して嬌声を上げながら遊び回る日本人観光客の団体を見せられました。「あれ、見て。日本人はシンガポールに来て、お金払ってあんな失礼なことをするんだよ。地元のシンガポール人は、ああいう光景を見て、日本人のイメージ作るんだよ」「もちろん、戦争時代のことは、うちの両親だってまだ怒っているよ」。もっとも、今ではマナーが向上されていることを願っていますが、当時の私にとっては相当なショックでした。どうして国内ではネクタイを締めて背広を着て真面目一筋の日本人男性が、海外に出るとあんな振舞いに出るのか、と。インドネシアでも似たようなことを聞きました。

話は彼女の家族に及び、私達の世代以下の女性達が、結婚しても子どものいない夫婦として働きながら暮らしていることを知りました。華人は家の存続が重視されるので、高学歴なら手当も出るし、産んでいるのでは、と思っていたのですが。インターナショナルスクールで教えているという義妹さんも子どもがいないそうですし、彼女がシンガポール大学の学生だった時のルームメイトも、香港から戻ってエンジニアとして働き、子どもがいない暮らしを送っているとのこと。一方、彼女のお兄さんの息子つまり甥っ子などは、もうすぐ兵役の時期だそうで、「軍隊」と聞いた途端、忘れていたものを思い出した感じでした。

なぜか話は妙な方向に進み、「シンガポールのマレー人はマレーシアのマレー人とは違う」と彼女。今回も、シンガポール代表団のうちに、マレー人の同僚が一人参加しているよ、と。その点については、日本のマレーシア研究者も、研究会でかなり前に指摘していたことではあったものの、「どんな風に?」とあえて聞いてみると、「より開明的で...」と言いかけてすぐ、「あ、もっと適応性があってオープンという意味」と言い直したのを、私はキャッチしました。確かにねぇ、シンガポールの政策は、人材こそ資源で、マレー文化圏に囲まれつつ、気を遣いながら無我夢中になって競争的に国造りをしてきたわけですから、つい、本音として口走ってしまったのですね。また、マレー人への福音伝道は、センシティヴなのでシンガポールでも試みる人はいない、法で禁じられているわけではないけれども、などと付け加えていました。
その後は、マレーシアの宗教事情のやっかいさと日本国内のキリスト教状況とイスラーム情勢へと話が及びました。この点、彼女とは気兼ねなく自由に話せるので、一生懸命喋っていると、彼女の同室の同行メンバーが、「どうして日本で、シンガポール人と日本人が、マレーシアの政治についてそんなに熱心に語っているの?」と不思議そうに笑っていたようです。

確かに、今回の国際美術教育学会でも、マレーシアからも参加しているのですが、さっと目を通した限りでは、マレー人の男性教員が二人出席するのみで、もちろん、華人もインド系もブミプトラ系の人も含まれていません。国際的な宗教間対話の会合も同様で、マレーシア代表は必ずマレー人のみ四人、などと決まってしまっているのです。対外的には、そして現実面でも、マレーシアは多宗教社会だと公言している一方で、です。
華人が75%と多数派人口を占めるシンガポールは、政策上、英語を基軸として、その他の三言語を建前上は対等に扱うとか、マイノリティのマレー人には援助策を施すなどの措置が取られています。まさか、華語をマレー人に押し付けるわけにもいかない、という実際的な事情があったのもさることながら、能力制度を採用しつつ、同時に、出自によって一方的な不均衡が起こらないよう細心の注意を払っているのです。マレーシアとは逆です。

シンガポールは、政治的には、言論の自由の点でいろいろ窮屈な面もあるのではないかとずっと思っていましたが、少なくとも彼女の家の暮らしぶりを見る限り、現状を受け入れ、満足して楽しく充実した人生を送っている様子です。ご両親の築き上げたご一家は、誰もが明るくシンプルかつ透明で開放性があり、常に笑いが絶えません。背伸びもしなければ見栄も張ることのない、本当に気持ちのいい家庭です。堅実で教育を重視する中流華人家庭で、比較的長寿にも恵まれています。元中等華語学校の校長だったお父様は、小学校教師だったお母様と共に、先行き不安定だった国家形成期に、4人の子を立派に育て上げ、年金生活の今は、オーチャードにある長老教会で、華人共同体のための奉仕活動に専念されているそうです。華語学校は、マレーシアでもシンガポールでも、共産思想を注入する場だと危険視されていた時代があったと論文で読んだことがありますが、少なくとも、彼女のご両親はクリスチャンなので、結果的にシンガポールの主流動向と合致していた面が大きかったのでしょう。
シンガポールでは、今でこそ仏教人口の方が伸びているそうですが、少なくとも1980年代までのキリスト教は、医師や大学教授などの専門職の紐帯基盤としても機能していたというデータを、シンガポール大学シンガポール政府の調査で見たことがあります。同じ宣教師団によって開拓された働きも、マレーシアとシンガポールに分離して独自の国造りを始めると、このように位置づけが異なるという事例です。かつては、マレー半島でも、シンガポールと似たようなキリスト教共同体が形成されていたのですが、政策によって頭脳流出したり、脇へ押しやられてしまったりしたようです。
もっとも、民博のマイクロ資料によれば、シンガポールではトラクト頒布が楽で、マラッカでは困難だった、などという記述もありました。同じ海峡植民地でも、人口配分のためか、土地柄なのか、当時からこのような相違があったのですね。
彼女にも、この資料を見ている由を伝えたところ、とても喜んでくれました。彼女のルーツの一端でもありますからね。こうしてみると、下手に学問的とか競争的業績とか考えずに、気楽に自由に調べ事をしている方が、楽しく理解も深まるように思われます。大袈裟なようですが、これが人類史の一端に触れるという意味でもあるかと愚考しています。