ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

『メムリ』の最新記事より

メムリhttp://www.memri.jp
Special Dispatch Series No 1981 Jul/30/2008

アラブ世界の民主主義欠如に責任があるのは知識階級である


エジプトのリベラル派で、アハラム戦略政治研究センター所長のアブドルムニーム・サイード(Dr.’ Abd Al –Mun’im Sa’id)博士はロンドンの日刊紙シャルク・アウサト(Al-Sharq Al-Awsat)に、アラブ世界における民主主義欠如の理由を分析した記事を発表した。※1 博士はこの記事で、民主主義促進の歴史的役割を十分に果たしていないとアラブの知識人サークルを非難し、彼らは社会の反民主主義分子と提携する過ちを犯し、今もなお民主的社会の建設ではなく、むしろ外国勢力に反対する抵抗運動にエネルギーを注いでいると述べた。
以下は、この記事の抜粋である。


民主主義と「アラブは例外」モデル


「『アラブは例外』の議論が今回、アレキサンドリア図書館で開かれたアラブ改革イニシアチブに関する年次会議で再び持ち上がった。(このイニシアチブは)アラブ世界における改革(関連の)問題調査を引き受けたアラブの調査センター10か所で構成されるネットワークである。
「留意せねばならないのは、このネットワークはひとつの時期━アラブ地域における最も重要な問題が民主主義と政治的・経済的改革の諸問題であった時期、つまり9・11テロ後の時期━の名残であることだ。当時支配的だった見解によれば、9.11テロは、アラブが(民主主義を建設)できないことの帰結だった。 「その時点で必要だったのは、アラブ地域の専制支配に反対しなければならないという意識を提起することによって、この挑戦(9・11テロ)に立ち向かうことだった。また、この時期を特徴付けたのは、外国の圧力━アラブ世界の民主的改革なしにテロに勝てないと信じる者たちの圧力━の存在だった。
「冷戦後、つまり東欧、アジア、南米の多くの国々が民主化した時、『アラブは例外』という言葉が広がり、世界の多くの首都で行われた議論の中で現れた。冷戦後もアラブ世界は変化しなかった(つまり、非民主的なままだった)からである。(しかし)この言葉には否定的な(意味が)あり、アラブを民主主義(を拒絶する)得意な社会と表現したため、アラブの知識人サークルは・・・意味は『例外』に近いが、あまり侮辱的でない『特性』といった言葉の使用を選んだ。
「しかし、この『例外』と『特性』という2つの表現は(間もなく)国際舞台から、またアラブの語彙からも姿を消した。世界で数多くの事件が起き、双方━アラブのその他の世界━が互いの実情を見るに至り、その解釈と政治的評価を学者たちに委ねたからだ。
「(今回)アラブの学者たちはまさにアレキサンドリアの図書館で開かれた(討論会でアラブ世界が)『例外的』あるいは『特殊な』と表現されることを受け入れた。これは、アラブの学者たちの、ある種の学問的あるいは知的な怠惰のサインだった。なぜなら、ひとつの状況が『特殊な』とか『例外的な』とか『アブノーマル』とか見なされる限り、その状況は、科学的思考を支配する一般的原則から直ちに排除されるからだ。 「極めて奇妙なのは、アラブのリベラルなグループと原理主義グループの間で、アラブ社会の特殊性に関して了解が台頭したことだ。この了解は、『アラブ民族を標的としている』と彼らが言及するもの、つまり時には植民地主義帝国主義(との抗争)、また、常にイスラエル(との抗争)から生じている・・・」


世界のすべての国々は民主主義の欠如を経験してきた


「注意深く見ると、アラブ世界における民主主義欠如の主要な理由のひとつとして台頭しているのが、アラブの知識人サークルとアラブの学者間のこのコンセンサスだ。実際のところ、世界には本当に例外なものはひとつもない。これはちょうど、アラブ世界における個々人の支配に特別なことは何ひとつないのと同じだ。世界のすべての国々は植民地主義帝国主義、さまざまな種類の抑圧、分割、分裂、経済的後進性を経験した。にもかかわらず、知識人階級、思想家、政治家のおかげで(世界の諸民族は)民主主義に向かって前進するノウハウと勇気を習得してきた。
マグナ・カルタ(Magna Carta)の時代から現在まで、支配階級は習慣的に、自らの地位から利得を引き出し、また、その地位を濫用し、大衆をだまし、時には強制によって支配し、時には圧力に屈しながら、権力にしがみついてきた。しかし(内部)矛盾が生み出した(支配階級に対する)圧力の結果、知識人が介入し、変化をもたらすことが可能になった。その結果、知識人は現状に比べ進化した、民主的な、寛容な秩序への移行を(もたらした)。こうしたことは特別なことではなかった」
アラブの知識人エリートは常に、社会の強化よりも外国勢力への反対を選択してきた
「現代、さまざまな外国勢力がアラブ世界に与えた苦しみは、歴史の別な時代に他の国々が経験した苦しみとそう変わりはない。アラブ世界(が特異だったの)は、アラブの知識人エリートがアラブ世界内の状況の改善━アラブ社会を民主化し、進化させ、(その結果)外国の挑発に対するアラブ社会の抵抗を可能にするという目的で(アラブ世界の)経済、社会、文化、教育分野の発展を促進することによってアラブ世界内の状況を改善する━よりも、常に外国勢力に反対することを選択してきたことだ
「19世紀にジャマールッディン・アフガーニー(Jamal Al-Din Al-Afghani)※2とイマームムハンマド・アブドゥ(Imam Muhammad ‘Abduh )※3が論争したのは、まさにこの点だった。前者は(外国勢力との)抗争を促進し、後者は教育を通じた(内部からの)建設的行為を促進した。(アフガーニーはアブドゥの)見解について敗北主義であり、失敗すると述べた。
「この論争は20世紀初め再び持ち上がった。エジプトのムスタファ・カメル(Mustafa Kamel)と国民党(National Party)が論争し、また、シェイク・ムハンマド・アブドゥとエジプトの他の改革主義者が論争した。この論争はその後もエジプトで繰り返され、同様に他のアラブ(諸国)でも繰り返された。(エジプトでは)立憲党(Constitutional Party)とワフド党(Wafd Party)が論争し、アドリー・ヤカン(’Adli Yakan)※4とイスマイール・シドキ(Isma’il Sidqi)がサアド・ザグルール(Sa’d Zaghlul)※5とムスタファ・ナッハス(Mustafa Al-Nahhas)※6と言い合った。
「過去2世紀、外国(勢力)に反対すべきか・・・それとも、内部からの建設的行動を継続すべきかをめぐって論争が起きると、抵抗運動と外国勢力に対する闘いを呼び掛ける党派が常に広い支持を獲得した。(しかし)このアプローチは、『いかなる声も闘い(の呼び掛け)の喧騒をしのげない』(という原則に基づき)、中央集権的専制支配達成の梃子として使われてきたものだ。このスローガンがあてはまるのは、エジプトの(ガマールGamal)アブドッナーセル(’Abd Al-Nasser)の1967年戦争敗北後の声明だけではない。実際、これは現在も━今ここでも━ヒズブッラーやアラブの学者たちの大規模グループが、また、レバノンの政治家たち━全レバノンとその住民すべての破壊という犠牲を払っても自分たちの声が国家の真の声であると主張する政治家たちが使っている。
「(同様に)ハマスパレスチナ自治政府に対するクーデターの主要な言い訳としたのも、自治政府が解放のための闘いよりも政府の形成を優先したことだった。(しかし、ハマスのクーデターは実際のところ)個人にも領土にも解放をもたらさなかった。むしろ、それは自治政府に対する)報復行為に過ぎなかった・・・」


アラブの知識人階級は、アラブ世界の民主主義欠如のために非難されねばならない


「『例外』と『特性』はアラブ世界が持つ属性でもないし世界一般の属性でもないだろう。むしろ、これらの言葉が性格づけているのは(アラブの)知識人と政治エリートが採った選択なのだ。この選択は、支配的エリートが━政府部内であれ、在野であれ━権力と支配を獲得するために、また、全ての戦争の終結までアラブ(諸国)の民主主義の進展を遅らせるために、利用してきたものだ。(しかし)アラブ社会は本質的に弱体であり、(今後長期にわたり)これらの戦いに勝つ兆候はない。
「事態を一層悪くしているのは、抵抗運動を(選択すること)で民主化プロセスを遅らせることに加え・・・国家には━国家の安全を保護するという、よく知られた言い訳のもとであれ、また、貧窮者、低所得者を支援するためであれ━個人の問題に干渉する(権利があるという)頑なな信念が台頭したことだ。もっとも、これらの人々をみじめな状態に追い込み、そして捨て去ったのはアラブ諸国なのだが・・・
「したがって、アラブ社会の現状に責任があるのはアラブの知識人サークルである。なぜなら、彼らは自らの歴史的役割を果たさなかったからである。


注:(1) シャルク・アウサト(Al-Sharq Al-Awsat)紙(ロンドン)2008年5月14日付
  (2) 19世紀、イラン、アフガニスタン、エジプト、オスマン帝国で活躍したムスリムの政治家。イスラムモダニズムの創設者のひとりで、汎イスラム統一の主導者だった
  (3) 宗教学者、法学者、リベラルな改革者。19世紀末、イスラムの教えと制度を復興する運動を主導した。(1899年から)エジプトのムフティ(イスラム法官)として、イスラム法、行政、高等教育で改革を遂行した。
  (4) エジプトの政治家。アドリー・パシャ(Adly Pasha)と呼ばれることもある。1921、22年、自由社会立憲党(Free Social Constitutional Party)の代表としてエジプトの首相を務め、1926、27年、再度、1029年3期目の首相を務めた。外相、内相、上院議長などの要職も務めた。
  (5) エジプトの政治家。1924年1月26日から同年11月24日までエジプトの首相を務めた。
  (6) (1897-1965)。エジプトの民族主義者で政治家。ワフド党党首。主要な業績のひとつに、アラブ連盟創設に努力したことがある。1948年の軍事的失敗と1952年のカイロの火災は、ワフド党指導者を含め、政治支配層全体の不信を招いた。1952年の軍事クーデターで政治生命は終わった。

(引用終)

批判や否定的見解を拡大する意図は持たないものの、同じような顔ぶれの同じような話ばかりが延々と繰り返されるだけの「対話会合」より、「メムリ」記事の方が、中には変な記事やつまらない報道も含むとはいえ、やっぱり断然おもしろいです。当然のことながら、アラビア語と英語とでは、内容がかなり違うのだそうです。1980年代頃までの、日本での「内と外」や「本音と建前」のようなものでしょうか。マレーシアでも、マレー語文献と英語文献とでは、読者層からして相当の違いがあります。それを知ってか知らずか、「マレー語なんて簡単だから」とバカにしていると、跳ね返ってくるものも大きいのでしょう。