ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

契機を発展させる原動力

今日から8月。おとといと昨日は、比較的涼しかったので、助かりました。民博での作業も行き帰りの道も、とても楽でした。どうも最近、だらけ気味なのかと反省していましたけれども、やはり暑さも影響していたんですね。
それにしても、カレンダーをめくって新しい月にかえると、毎回、焦るような怖気づくような気分になります。子どもの頃からそうでした。(時はどんどん流れていくのに、自分は何もしていないじゃないか!)という焦燥感みたいなものです。
ただ、この頃、考えを改めました。ブルーナのおじさんもおっしゃっていましたが、「自分に正直になること」です。常に焦ってみたところで、いまわの時になっても(あ、こんなんじゃいけない)なんて思うのかしら...。もう、なるようにしかならないんだから、神経を尖らせて気を張るのはやめよう。自分のペースを大切に、その代り、一回一回、集中して取り組めればいいじゃない。疲れたら休む、そしてまた起き上がって続ける、この繰り返しでいい。幸いなことに、今はそれが許されている時期なのだし。
というわけで、昨日はうさこちゃん/ミッフィーから学んでみました。たまには、こんな話題もいいんじゃないか、と。
電車に乗っていてよく思うんですけれど、誰一人同じ顔形の人はいません。つまり、誰もが一回限りの固有性を持ち、その中で生きているということです。換言すれば、自分は自分だということです。新しいもの、誰も考えなかったことを独創的に表現すること、しかも、それをメッセージとして伝達することは、どんな分野であってもなかなか難しいのですが、シンプルに考えれば、自分の指紋が世界中で一つしかないように、自分の発想だって、動機や経過に同一のものがあるはずがありません。結果的に同じように見えたとしても...。ならば、大丈夫。大事なのは、借り物ではなく自分自身で考えて行動すること、です。
研究会や学会の活動を振り返れば、「地位」や「業績」だとか「結果を出せ」という価値基準に縛られてしまうとまるで苦痛でしかなく、「評価される」ことを意識し過ぎると、かえってつまらない結果に終わってしまいます。若い方達で、とても気合いが入っていて、細かく調べ上げてプレゼンも上等だという発表によく出会います。そして、そのテーマがどこまで発展するのか、とか、心底意義を感じているか、という観点も、是非とも必要だと思われます。
誰に指示されたわけでもないのに、どうして私はこのテーマを見つけ出して追求し続けてきたのか、と言えば、やはり人生観や価値観の問題が根底にあったからだろうと思うんです。表面的には、マレーシアの聖書翻訳から出発しているのですけれども、ではなぜ聖書なのか、が究極のテーマないしは関心事になっていないと、とてもじゃありませんが続けられません。
問題意識を抱いた当初は、資料がどこにあるのかもわからず、そもそも、現代マレー語による共同訳聖書すら出現していなかったのですから。遠回りしたというのは、こちらの能力不足以上に、当該地の抱える事情も相当に影響しています。また、個人的には、あちこち駆けずり回って苦労して集めたデータも、日本に持ち帰れば全く大したことがないように感じられ、その落胆とギャップに苦しむ時代が長く続きました。方法論の問題でもありますし、師事すべきよき先生に巡り合えなかったからでもあります。女性だったから続けられたようなもので、生計を立てなければならない男性ならば、まずは選ばないテーマでしょう。あまりにもロスが多過ぎます。
ただ、聖書の物語やお話というものは、仏教説話以上に、それこそシンプルな叙述方式が取られているのに、哲学や思想や美術や音楽にまで発展する契機を内に含むものであり、古典として現在でも繰り返し世界中の多くの人々に読み継がれ多大な影響を与えています。ですから、仮にマレーシアの事例が、政治的抑圧や人口動態や文化状況などの理由から、かなり平板で単純なものであったとしても、やはりマレーシアの聖書翻訳について、日本でも誰かが、ある程度はきちんとした資料に基づき、記述を積み重ねて記録として保存しなければならないのだと思います。

昨日は、国際聖書フォーラムの講義録2006年を電車の中で読み返していて、当時よりも自分なりの理解が進んでいることに気づきました。今年3月にも来日してくださったオランダのフリス教授のオランダ語聖書翻訳の講義は、派生的には、うさこちゃん/ミッフィーの生みの親ブルーナのおじさんとその家系を想像させます。また、2年前にあしながおじさまが送ってくださった井上年弘(著)『オランダ歴史物語森の宮通信社2001年)の執筆意義も再考へと促されます。さらに、例えば日本のロシア正教会のような小さな人口集団のキリスト教であっても、さまざまな角度から研究が可能であり、文化的意義も非常に高いものであることを改めて確認させられました。最近刊行されたニコライの日記を、早く読んでみたいものです。
というように、マレーシアという地域だけにこだわってしまうと、事が矮小化ないしは歪曲化されてしまいがちですが、根本に聖書があれば、どんどん応用がきくはずです。
先月、マドリードでサウジ主導の宗教間対話が開催されたそうです。こういう行事が必要なのは言うまでもありませんが、内部で実際に何が起こっているのかを歴史批判的に解明しない限り、単なる顔合わせの写真撮影で終わってしまうでしょう。そういう意味でも、イスラーム理解の重要性を認識しつつも、やはり聖書やキリスト教の方を選んでよかったと思っています。