ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

書かれたものを通して...

昨日の午後は、民博図書室にこもり、ようやくマイクロフィルム三本のリールのうち一本が終了しました。夏休みに入ったためか、来館者が比較的多いように感じましたが、これまでは、私がたまたま静かな時間に訪れていただけなのかもしれません。ともかく、3時間以上もマイクロ画面を見つめていると目がしぼんでくるので、通える間に通い詰めて、コツコツと資料読みを続けるしかありません。この資料、実は日本で民博にしか所蔵されていないのです。仮にイェール大学神学部まで行けたとしても、一週間の滞在と見込んでどこまで読めるかが問題です。また、東京にあったとしても、そんなに頻繁に通い詰められませんから。本当に貴重な奇遇、よくぞ大阪に来てくださいました、というところです。
英領マラヤ時代(1890年代から1900年代初頭)にマレーシアで活動していたメソディスト宣教団の資料ですけれども、2005年8月に、ハートフォード神学校所蔵のシェラベア資料を見ていたおかげもあり、どこが重要なのかはすぐにわかります。ただ、あまりにも大量過ぎて、もし事情を知らなければ、ポイントをつかむのが大変かもしれません。その点も、非常に助かりました。
おもしろいのは、さすがはメソディストだけあって、会議中の発言も「15分以上しゃべってはならない」などと、こまごました規則が定められていることです。社交クラブ風ではなくむしろ軍隊形式に近かったということもあるのでしょう。当時の宣教師達が、どれほど真剣な思いで当地に向かい、地元住民の福利向上を願って一生懸命に尽くそうとしていたか、という事情がまざまざと浮かび上がってきます。学校といっても、最初は、地元住民の家を一軒一軒回って親を説得し、ようやく数名の生徒からスタートしたようです。教会も、数十軒の家を回って、そのうち数人が興味を持って集うようになるという感じでした。それでも、いつかは実が結ぶことを信じ、希望を持って仕事に打ち込んだようです。もちろん、失敗もあり、そのことは正直に報告されています。この熱意が、決して自分達の名誉や名を残そうという野心から来たものではない証拠に、「すべては神のなしたこと」と添えられていることからもわかります。「ペナンで、神は我々と共にい給う」とも記されています。毎年、人格検査なるものがあって、承認された宣教師だけが職務に当たっていた模様です。
ともかく、この資料、リールではなくて、紙媒体で丸ごと入手したいぐらいですが、読んでいて非常に心打たれるものです。現地の気候の厳しさと異文化接触の難しさをこの私も実体験として知るだけに、尚更一層、当時の苦労は想像以上のものだっただろうと思われるのです。

もちろんこれは、明治時代のプロテスタント宣教に関する日本の事情とも似通っている点があります。異なるのは、戦後の地元側の対応と解釈です。日本の場合は、キリスト教人口が少ないとはいえ、キリスト教宣教を即座に「文化帝国主義」と非難したりはしていません。むしろ、書籍や音楽や建築などの文化面では、好意的に吸収しようと努めた部分さえあります。文化財として修繕保存に向かうこともあるでしょう。一方マレーシアでは、ムスリムであるマレー人が政治権力を握った途端、徐々にではありますが、反植民地主義、反文化帝国主義の論調が強まり、キリスト教宣教史については、肯定的というよりイスラームの破壊という否定的解釈が生まれてきました。
この態度の相違を比較してみる(ほどのこともありませんが)と、何か見えてくるものがあるかもしれません。結局はどちらがより豊かで創造的な文化の創生につながるのか、ということです。私が『ヘラルド』などの問題でかなり不機嫌なのも、そもそも人材が全くなかったわけでもないマレーシアが、政策のために、人を育てるというよりも、能力を摩耗する方へと誘導しているかのように見えるからです。アジアの近隣諸国でそのような政策を採用していると、どこかでつけが回ってきて、こちら側にも直接間接に影響するはずです。だから、警鐘を鳴らしたいのです。

ところで、「石井桃子先生のお別れ会」ではなく、「故石井桃子さんに感謝する会」という催しが、10月12日と13日に東京子ども図書館で開かれるのだそうです。東京在住なら、ぜひとも訪れたいところですけれども。犬養康彦氏が『文藝春秋』(2008年6月号)の「石井桃子さんと五・一五事件」(pp.302-309)に書かれていたところによれば、お亡くなりになった当時、集まった人々の顔ぶれを見ていたら、別に名のある人達でもなく、ごく普通の暮らしをしている人なのだけれども、何ともいえずとってもいい方達ばかりだったとのこと。石井桃子先生の訳された本や作ったお話を読んで育ったのは、こういう人達なんだ、と思われたそうです。すごい力ですね。一見何でもないようでいて、実に大きな仕事をなさった偉大な方です。本を通して人を育むなんて、簡単そうですけれども、並大抵の仕事じゃありません。
というわけで、昨日も民博へ向かう前に、近所の町立図書館で(石井桃子(訳)・ケネス・グレーアムたのしい川べ―ヒキガエルの冒険―岩波書店1963/1991年)を借りました。「小学校3,4年以上」とあっても、確かに、今の私が読んでもほろりとさせられたり、共感したり、つい夢中になってしまうような魅力があります。言葉遣いも、最近ではめったにお目にかかれないような上等な語彙があったり品やリズムや勢いがあったりするので、ノートにメモすべく、早速印をつけました。
古い時代に書かれたお話とは思えないほど、生き生きとした物語です。また、作者ケネス・グレーアムの幼年時代は、必ずしも幸福に満たされた人生ではなかったらしいのに、こんなに豊かな想像力を巡らしておもしろい動物達をつくったなんて、感嘆の思いです。このような物語に触れる時間が与えられている今を感謝したいものです。