ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

大切なのは何か?

このところ、日課としての「ブログ」ではなくなってきているようです。一応は公開しているものなので、訴えるものがないのにダラダラ書いてみても、クリックしてくださった方にとっては一向におもしろくもないでしょうし、時間と電気の無駄です。というわけで、気分に任せて、昨日はお休みしてみました。
休みの効用について少し書きました。その時には「予定をこなせなかった」「計画通りにいかなかった」と反省ばかりしていても、後で振り返ると、むしろ「その時には動かなくて正解だった」とか「体力や気力の温存のために必要な休みだった」とわかることも多くなりました。波にまかせてたゆたうように、というのも知恵の一つなのでしょう。
何もせずにゴロゴロしていると、非常に罪悪感を覚えるような習性が私にもありますが、周囲を見てみると、キチキチしゃかしゃかと動き回っている人は、充実した人生というよりも、ピリピリしていて、案外に胃腸が弱かったりするなどの病気持ちのこともあるようです。または、元気そうであっても、40代ぐらいでガンなどの病気で早逝されるという事例も少なくありません。どこかで無理をしていたのでしょうか。バランスが大事であり、緩急のリズムが必要なのだという教訓でもあるかもしれません。
例えば、先頃の小旅行でも、実にタイミングよく出かけられてよかったという事態が帰宅後に発生しました。本当に、助かったのです。また、当初の計画では、昨日も民博へ行く予定にしていたのですが、十年選手の洗濯機が故障してしまったために、夕方、交換配達に来るとのことだったので取りやめたのですけれども、結局はその方がかえって効率よく用事を済ませることができました。
ところで、この洗濯機の話をしますと、我が家では、電化製品やガス器具など何でも「寿命以上に使っていますね」とよく褒められるのですが、今回も「いやあ、十年も使っていたら部品交換もできませんやん」とのことで、あっさり新規購入となったわけです。しばらく前の新聞投書などには、「うちでは、三十年以上、同じ●●を使っています」という誇らしげな文章が掲載されることがありましたが、実はそれ、物を大切にしているようで、かえって電気やガスの無駄で、環境にもよくないのだそうです。我が家の洗濯機も、当時としては最新型のものを購入したつもりだったのですが、取り替えてみると、より静かで軽くて、洗いざわりも断然ふんわりとほぼ乾燥した状態になっているのです。そりゃそうですよね、毎日のように研究開発にいそしんでいるんですもん。(部品交換不可とか数年で買い替えなんてもったいない)とずっと思っていたのですが、電化製品はもともと消耗品として作られているので、その方向に沿わなければならないということです。大切にするなら、木製や陶器漆器などになるのでしょうか。
大家族ではないので、使い方が少ないのかもしれませんが、「長持ちしましたね」と言われるのはうれしいものです。それなりに、気をつけて使っていますから。特にうれしいのは、家庭内の器具や道具など、こまごましたことも、主人が率先して吟味して選んでくれることです。そして、交換したものは、必ず使い勝手を確かめてくれるのです。使うのはもっぱら私なのに。経済感覚も一致しているので、この点で喧嘩になったり困ったりしたことは一度もありません。ちなみに、昨晩ベランダで用事をしていたら、新しく入居されたばかりのお隣さんが、何やら大声で金銭問題について口喧嘩しているのが聞こえてしまい、(幸せって、ほんとに人それぞれだなあ)と感じた次第です。

話は変わりますが、マレーシアの『ヘラルド』新聞の件、ますます妙な方向になっています。要するに、内務省によるカトリック共同体への嫌がらせ、ハラスメントということなのですが、警告書がまた届き、「agamaに従え」(正確には「agamaの範囲内で活動せよ」)などと書いてあったそうです。‘agama’とは、サンスクリット系のマレー語で「宗教」を意味しますが、マレーシア文脈において、この語だけが用いられる時には、「イスラーム」を指すことが多いようです。例えば、英語とのちゃんぽんですが日常会話で、‘agama school’と言えば、「イスラーム学校」を指すように。しかし、イスラーム以外の諸宗教を言う場合には、形容詞的に‘Agama Buddha’(仏教)などと識別するようです。ともかく、何らの定義もなく、いきなり「従え」とは、何のことやらわけがわかりません。第一、マイノリティのカトリック共同体に対して、なぜそれほど執拗に警告書を出し続けるのか、ということです。今に始まったことじゃありませんからね。プロテスタント主流派の方にも、定期刊行物にマレー語翻訳のページを加えると、即座に「マレー語ページを外せ」と警告書が来るのだそうです。
こういうテーマを追求することに果たして意味があるのかどうか、と言えば、多分、学術的価値はゼロ以下でしょう。もちろん、いろいろと理屈をつけることは可能です。しかし、黙っていたら知らない人は知らないままに「マレーシアってうまくいっていますよね」なんてノウ天気な発言を公にすることがあるので、やはり誰かがきっちりと記録の形に残さなければならないということだと思います。だって、あのバルナバ福音書ですら、数十ページにも及ぶ論文になっているぐらいですから。そうでもしないと、元キリスト教圏としては、共存のために身が持たないということなのでしょう。私も、そういうつもりでこの作業に取り組んでいます。
では、セミの合唱もおさまってきたことですし、暑い日ですけれども、これから民博へ行って参ります!