「バルナバの福音書」について
『バルナバの福音書』とは、原本がイタリア語でのみ残っていて、1709年にアムステルダムで最初にその存在がわかり、ウィーンの帝国図書館で見つかった。
初期アラビア語版があると言われているが、これまでにその写本は出現していない。
1907年に二人のクリスチャン学者によって英語翻訳が出版された。200章以上で400ページもある作品である。
現存の福音書の多くが含まれている上に、キリスト教を犠牲にしてイスラームを支持している。ムハンマドはメシアだとイエスに語らせている。
クリスチャン学者は、恐らくは16世紀末か14世紀に、イスラームへ改宗した元クリスチャンによって書かれただろうと合意している。
筆者のイスラーム知識は、間違いが多く、不完全である。また、ガリラヤ湖にナザレを置くなどのミスもある。
それ故に、この書の歴史的価値は正確には無である。
クリスチャン学者が出版した理由は、それがキリスト教信仰を破損できまいと考えたからである。彼らは、史的好奇心からそのようにしたのだろう。
18世紀初頭に発見された時、キリスト教の正統性を攻撃するために英国人の理神論者によって使われたこともある。
1908年にアラビア語翻訳がカイロで出始めた。ウルドゥー語、ペルシャ語、インドネシア語など他のムスリム言語への翻訳も続いた。
多くのムスリムは、この書が明らかにキリスト教教義の多くの不正確さと不正を示していると説得された。翻訳が再版された理由である。
この書によって、多くのムスリムが、不充分なキリスト教認識の受け入れを確証するという不幸な効果をもたらした。
何百万人ものクリスチャンが実際に信じて実践していることをもっと正確に認識しようとする必要性に対して、ムスリムは盲目になっている。
ムスリムが悟るべきは、過重なほどの学的知見によって支えられている成熟したクリスチャンの意見では、その書は偽造であり、クリスチャンの信仰のいかなる部分も挑戦を受けないということである。
(William Montgomery Watt "Muslim-Christian encouters: Perceptions and misperceptions" 1991:117-118)
[後記]強調のために、あずき色をつけました。
学会発表後から、しばらく上記参考文献の読み直しをしています。このような仕事の真偽性は後世が判断することですが、だからこそ、雑念を排して、あくまで事実に即して、誠実に記録を残すことが重要なのだろうと思います。日本語訳された故ワット教授の本は、もっぱらヨーロッパ側のイスラームに対する新見解に関するものが中心ですが、上記本では、キリスト教側の視点もきちんと提供されていて、ある意味でバランスがとれています。その点が、私にとって是非とも必要でした。
今回の学会は、「発表者が多く、研究の裾野が広がった」という主催側の先生からご挨拶がありました。私なんかのテーマでも受け入れてくださったぐらいですから、確かに「裾野の広がり」です。一昔前ならば、「歴史学とはこうです」というようなかっちりした枠があり、私など、どこで発表したらいいのか、どこに所属すればよいのか、本当にわかりませんでした。また、‘新見解’を出すにも、大御所の先生の前では、心理的にも立場的にも、かなり難しいところがありました。結局、現状が変革を促したということなのでしょうか。
仏教圏やマレーシア華人の新宗教のお話は、いずれも個性的な研究で、おもしろく感じました。穏やかで柔和な感じの研究者が多く、私もマレーシアに派遣されていなければ、こんな苦境に陥ることなくもっと楽しく過ごせたかもしれないのになあ、とつい思ってしまいました。今年の年賀状に書かれてあったタイ語の懸案も、B先生にご回答をいただき、あっさり解決しました。また、ベトナム研究の進展もうかがうことができ、幸いでした。ベトナムと言えば、ジャーナリストの故近藤紘一氏の『サイゴンから来た妻と娘』『バンコクの妻と娘』『妻と娘の国へ行った特派員』『目撃者』を二十代の頃夢中になって読んでいたことを懐かしく思い出します。
懇親会では、ビルマ/ミャンマーの研究をされている女性の先生から、いろいろと興味深いお話をうかがいました。現政権に対しては、憎しみのような感情を抱いている人々が多いとのこと、また、資料の発掘の困難さと同時に見つかった時の喜びの経験談などもお聞きすることができました。きちんと記録が残されている文化圏をうらやましく思います。
また、「名前をよく見かけますよ」と声をかけてくださったり、「結局、小さな枠でもきっちりちゃんとした資料に基づいてやっていけば、後で判断してくれる人がいるでしょう」と励ましてくださった方もいました。そして、あるキリスト教系大学のプロテスタントの先生からも、「おもしろかった。興味を持った」と言われ、イスラームとキリスト教の関係について、「あの本に書かれているようなイスラームの考えでは、共存は難しい」というような率直なお話ができたのも、よかったです。
レジュメは65部用意したのですけれども、56部ぐらい受け取っていただけたようでした。事前の予想では、初回だし、20人ぐらい聴きに来ていただければまあまあかな、と思っていたので、その点も、ありがたかったです。司会のH先生から、「マレーシア研究会では有名な」と紹介され、(多分、違和感を覚えつつも合わない環境でいつまでも一人で続けている変な人というような意味で有名なんだろうなあ)と思っていたら、その後、「どうして(マレーシア当局は)そんなことするんでしょうねぇ。そこまでしなくてもいいのにねぇ」と同情してくださる方もいらっしゃいましたし、若手の男性からも「頑張ってますね」とにこにこ顔で挨拶され、いささか安心しました。
結論:データ不足と話のレベルがどうもお粗末過ぎて、学会ではとてもとても、と卑下していた研究テーマでしたが、思い切って学会に出てみると、案外、皆さんが好意的に興味を持って受け留めてくださるのだとわかりました。広くいろいろな所に出て行かなければ、ですね!ただし、「話はおもしろいけど...」という感想もあり、そこは確かに難点だと思います。でも、こればっかりは私がどうこうできる問題でもありませんし、答えがあるわけでもありません。だからこそ、上記本のような碩学のお仕事から学び、ふさわしい所できっちりと公表していく仕事の意味を再確認しました。このたびは、どうもお世話になりました。