ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

イスラーム棄教の背景分析 (1)

ムスリム世界』という英文学術誌があります。同志社大学大学院アメリカ研究科に宣教師として4年間滞在されていたジクモント(Barbara Brown Zikmund)教授の手引きもあり、2005年8月に、私はアメリカのコネティカット州にあるハートフォード神学校を訪問しました。ハートフォード神学校については、2007年10月23日・11月12日・12月4日付「ユーリの部屋」でも言及していますが、ここは、英領マラヤでマレー人向け宣教活動を行っていたウィリアム・シェラベア博士が、イスラーム研究をするクリスチャン学者として、1947年で亡くなるまで教授職を務めた場所です。アーカイブには、シェラベアの自筆資料や、参考資料として使用していたジャワでのマレー語聖書などが、かなりの分量で、きちんと整理保存されていました。(余談ですが、内村鑑三氏も、ここに留学していたことがあったそうです。)
このハートフォード神学校は、元来、先進的かつ信仰深くキリスト教が研究され、世界中で奉仕するための牧師や宣教師を養成していました。それに加えて、シェラベアの人生後半期には、「キリスト教学者によるイスラーム研究所」が設置されました。その系譜を引く現在の「イスラーム研究とムスリム・クリスチャン関係研究センター」が発行しているジャーナルが、『ムスリム世界』です。シェラベアの時代には、『モスレム世界』と題していました。シェラベアの頃は、もっぱらキリスト教の現役あるいは元宣教師のイスラーム学者が寄稿することが多かったジャーナルですが、1970年代頃から徐々にムスリム側の投稿が増え、ついに現在では、ほとんどがムスリム学者やムスリム研究者による論文集となっています。クリスチャン側は、それをサポートするか、書評に回っています。これも時代の流れですが、その変遷について、2005年12月と2006年3月に、私は口頭発表で言及したことがあります。

さて、このジャーナルの2007年1月号には、二人のムスリム研究者の連名で、「私はこれでイスラームをやめました」というムスリム棄教者に関する調査分析が掲載されていましたので、その断片要約を少しご紹介します。これは、現在のマレーシアでもムスリム・非ムスリムの間で非常にホットな話題だそうで(というよりも、いつでもムスリムの棄教は大騒ぎになると思いますが)、私としても、マレー語聖書の微妙な状況を考察する上で、それが中心事項ではないものの、背景の一つとしては見逃せないと思ったわけです。
結論を先に申しますと、それほど内容に深みもなく、また、細部に及ぶ調査でもなく、あえて「分析」をしなくとも、通念的に何となく人口に膾炙しているものがわざわざ書かれている、という程度なのですが、ポイントは、クリスチャン研究者あるいは非ムスリム研究者によるリサーチではなく、ムスリム研究者自身が、正面切って取り組もうとした点にあります。
のっけから欠点をあげつらっているようですが、ムスリムにとっては、このような調査そのものが危険を伴うものでもあり、データとして棄教者に面接すること自体、大変に苦労をすることを予め承知するならば、この論文が掲載された意図は充分わかります。ただし、マレーシアでもそうですが、イスラーム世界にヨーロッパでの宗教改革程度の変革が起こらない限りは、このテーマは、本当の調査分析をするのに、かなりの時間がかかるでしょう。
さらに重要なことは、この論文の裏付けをとるために、インターネットで本文の登場人物を調べてみたところ、著作以外に、You Tubeでも、インタビューあるいはモノローグの形で、盛んに主張するか、悲しみに打ち沈んで静かに語っていた元ムスリマもいましたが、それ以上に、イスラームへの改宗事例の方が、もっと活発に数多くYou Tubeに投稿されているということです。ドイツ人やフランス人やアメリカ人やオーストラリア人などのいわゆる白人が、イスラーム信仰告白をざわつく公衆の面前で唱えて、「これで晴れてムスリムになりました。おめでとう!」と称賛されていたり、華やかなスカーフをおしゃれに頭に巻いた新ムスリマが、なぜイスラーム改宗したかについて楽し気に語るケースが、何人も登場しているのです。そのようなバランスないしはアンバランスを背景として把握しない限り、本論文の位置づけや著者達の真の意図を誤解する恐れがないとも限りません。

ちなみに、私がハートフォード神学校を訪れた際に応対してくださった図書館長のスティーヴン・ブラックバーン博士(Rev. Dr. Steven P. Blackburn)は、アラビア語学とイスラームヘブライ語聖書(旧約聖書)の専門家で、かつ第一会衆派の牧師でもいらっしゃいます。アルジェリアでレストラン経営をされていた祖父母がご縁で、中東のイスラームに興味を持たれたとのこと。中東アラブのみならず、イスラエルにも何度か行かれたようですが、スコットランドのセント・アンドリュース大学での博士論文は、『ヨブ記の初期アラビア語版について』だそうです。趣味は、「アラビア語の文法書を眺めること」と最近の書評に書いてありました。

「どうしてムスリムは、自国ではなく、ここアメリカに来てイスラーム研究をするのですか」という私の意図的な愚問に対して、当たり前といえば当たり前なのですが、「それは、ムスリムの出身国よりも、アメリカの方が、遥かに環境が安全で、安心して物が言えるし、研究も発展しているからですよ」と。「でも、日本に来るムスリムは、『西洋による偏見なしにイスラームを直接理解してほしい』とよく言っていますが」と重ねて問うと、即座に遮るかのように言葉をかぶせて、「あ、それは政治的な発言だ。事実ではない。過去に大勢の宣教師がイスラーム圏に出て行って、実際にムスリム接触してきたんですよ。日本は特に何もしなかったじゃないですか。それにほら、シェラベア文献を見てごらん。あの方だって、マラヤでの経験を元に、ここで教鞭をとっていた。そして、ここまで研究を積み重ねたんですよ」と言われました。

「シェラベア・ボックス」とマジックで書かれた資料の箱を何回か往復して机に運んでいただいた後、「アメリカには、百年も前からアラブ系クリスチャンが住んでいます。彼らはハッピィなのかって?それはそうに決まっているでしょう。だから出身国に戻らず、ここに代々住み続けているんじゃないですか」「バングラデッシュ出身のムスリムが、ここアメリカでキリスト教に改宗したんです。え?そんなこと可能なのですかって?だって、アメリカにはシャリーア法がないから、それは大丈夫ですよ」「今でも、ムスリムがクリスチャンになってほしいと、私としては願っているんですけどねえ」などと、最初は調子のいい話が続きました。そこで、「じゃあ、この神学校でムスリムを各国から引き受けて、クリスチャンとの対話や研究指導をするのも、うまくいっているんでしょうねえ」と私が促すと、途端に渋い顔になって「ムズカシイんですよ、それが…。なかなかうまくいかない」と。ここに及んでやっと、本音が聞けたように思いました。
ほらね!機会は格段に広く、レベルも極めて高いものの、マレーシアや日本で直面した私の経験と、実際にはほとんど変わらないじゃないですか。

確かに、非ムスリムの私にとっては、イスラームを理解するのに、ムスリムあるいはムスリム寄りの研究者の話を聞くよりも、クリスチャン研究者によるイスラーム研究を読んだり聞いたりする方が、遥かに筋が通っていて、より公平であり、わかりやすいのです。特に、ムスリムの説明は、どこか肝心なところで語られていない部分があると感じたり、同じ話が、ぐるぐると何度も回りながら、延々と続く傾向があります。
これは、マレーシアでもしばしば聞いた話です。「そりゃそうだ。ムスリム自身にも自分が何を信じているのか、よくわかっていないからだ」「イスラームは、全体主義的で宿命論的だから、自分で考える習慣を持つ必要がない。そこが問題なんだ」という返事を、マレーシアで、数年前にカトリックのマラヤリ系研究員から聞いたこともあります。マラヤリ系カトリックは、インド系マレーシア人の中でも、教育が進んでいて進歩的な考え方をする人々が多く、Chandra Muzaffar博士のようなマラヤリ系ムスリムとの共存経験も持つのですが、それでもこのような意見が聞かれるところに、一つのヒントがあるように思います。

では、論文紹介に入りましょう。執筆当時、ミシガン大学の博士課程に属するMohammad Hassan Khalil氏と Mucahit Bilici氏という二人の著者によるConversion Out of Islam: A Study of Conversion Narratives of Former Muslims’(“The Muslim World” Vol.97, No.1, January 2007, pp.111-124)です。前者は、「ハディースの真正さの認証」というテーマで既に公刊された文献があり、イリノイ大学アーバナ校の宗教学助教授として教鞭をとり、ミシガン大学ではイスラーム学専攻だそうです。後者は、トルコ出身の方のようで、社会学ミシガン大学に登録し、関心事は、(1)デトロイトイスラーム共同体を建設すること(2)アメリカのイスラーム(3)イスラームグローバル化について、とのことです。

以下に、私なりの理解に沿って、重要な箇所や興味を引いた部分を、概略的に日本語でまとめてみましょう。最初にお断りいたしますが、引用文献名には、フランス語やドイツ語のものも含まれていますが、本論文が英語で書かれていること、および、英語を話すムスリムを対象としているという著者の条件をくみ取って、英語文献のみ、タイトルを拙訳で挙げました。あくまで要約風ですので、正確には、上記論文をお読みください。

1. はじめに

イスラームは、改宗によって最も早く成長している宗教であるとされるが、棄教の宗教的、法的、政治的含意に関する研究はあっても、現在の傾向としてのイスラームからの改宗については、西欧文脈あるいは英語を話すムスリムの間で、ほとんど研究がない。
・非アカデミックな分野での過去の棄教事例として銘記されるのは、バングラデシュ出身でムスリムから無神論フェミニストに転向した1993年のTaslima Nasrin(Tasalima Nasarina)事例や、1989年の『悪魔の詩』の Salman Rushdie事例である。今日では、ムスリム共同体内部に留まりながらもイスラーム批判をするIrshad Manjiという人物(『イスラームとのトラブル:イスラームにおける改革を要求するムスリム』聖マルティン出版(2004年)の著者)がいる(ユーリ注:ウィキペディア情報によれば、1968年ウガンダ生まれ。両親はグジャラート系と南エジプトの系譜を持つ。カナダのムスリムフェミニストレズビアンとのこと。Salman Rushdieの友人で、同様に死の脅迫を受けている)。
←これらに欠けているのは、どのような過程で、どんな条件の下で、人々はイスラームを離れるのか、元ムスリムやその肩代わりをする人々は、どのようにイスラーム離れを語っているのだろうか、という点である(参考:宣教学と教会一致運動のためのフィンランド学会による「パキスタンムスリム文化におけるキリスト教への改宗:意味とアイデンティティを求めて」(1984年)やPaul W. Werth「‘異教徒’のムスリムから‘洗礼を受けた’共産主義者へ:東部ロシアの宗教的改宗とエスニック特性」(2000年)など)。
・本予備調査で依拠した資料は、出版物、インターネット上の証言、我々による元ムスリムとの面接、の三つである。出版物には、大衆本やウエブサイトの「イスラーム離れ」の語りを資料とする。元ムスリムとの2,3の面談もするが、それは特定がかなり困難だった。インターネットサイト資料としては、一般によく知られ、影響も大きいであろうものを選んだ。ムスリムからクリスチャンになったNonie Darwishのサイト、ムスリムから不可知論者になった『なぜ私はムスリムではないか』『イスラームを離れて:棄教者は語る』の著者Ibn Warraqの作品、ムスリム情報としてJeffrey Lang(ユーリ注:インターネット情報によれば、アメリカのコネティカット州生まれでカトリック家庭出身の数学者。16歳で無神論。20代半ばでイスラーム改宗。サウジのムスリマと結婚)の近著『宗教を失って:助けを求める声』、そして、クリスチャン宣教師による『イスラームに答えて』と元ムスリムによる『イスラームの棄教者達』という有名なサイトである。
・予備調査の知見:(1)留意すべきは、上記の証言は、恐れから身元を隠した匿名であるが、語りが大変特定的なものなので、証言の多くが事実であると信じられる充分な理由があること。(2)同時に、その見解は、必ずしもイスラームの事実的な査定を表現したものではないこと。元ムスリムイスラーム理解は論争的で、歴史的であれ現代的であれ、ムスリムの学問上の意見を充分に考慮していないことも往々にしてある。例えばAbu Hamid al-Ghazali(d.1111 CE)やIbn Taymiyyah(d.1328 CE)を参照せよ。(参考:Sherman A. Jackson『イスラーム哲学研究1イスラームにおける神学的寛容の境界について』Jane I. Smith & Yvonne Y. Haddad『死と復活についてのイスラームの理解』いずれもオックスフォード大学出版 2002年)(3)元ムスリムイスラーム基準に関する誤解もある。例えば、女性についてのシャリーア議論などで、女性は、父親が選んだ人なら誰でも結婚しなければならないというのだが、それは、大多数の伝統的なムスリム法学者の見解ではない。
・我々はイスラーム離れの二つの動機を「知的動機」と「経験的あるいは社会的動機」の二つに範疇化した。前者は、理論的またはイデオロギー的関心と関連し、後者は、ある信仰体系に属する人々との個人的経験または歴史的事例と関わる。社会経済的階層や教育レベルや民族などの要因では組織的に分析できなかった。
イスラームへの改宗またはイスラームからの改宗は、必ずしも白か黒かではないし、イスラームを離れてからまた戻る例もある。
2. 三つの面談から
(1) ジャマルの例:ダーウィンか神か
健康管理の仕事をしたい学部生で、一年前に、知的理由からイスラーム離れを決心。進化論の賛否両論を読み、神の領域はないと思った。Ricahrd DawkinsやCarl Saganなどの科学者の著作に影響を受け、生命の存在を説明するのに神は不要であると信ずるに至った。神は仮説であり、クルアーンは非科学的だと思う。永劫の処罰はひどいし、イスラームにおける女性の役割は残念なものである。イスラームは、他のすべての宗教と同じく、単なるカルトである。哲学書やIbn Warraqの本は、決心を固めるのに役立った。地元のムスリム共同体は歓迎するが、彼らがイスラーム棄教の要因ではないという。

(2)ベン・ルーフサナの例:社会的障害物としてのイスラーム
26歳で二年前にイスラームを離れた。英国在住。棄教理由は、知的でもあり社会的でもある。イスラームにおける女性への扱いと、若いアイシャと預言者の結婚許可を、主な知的理由に挙げた。14歳の時、イスラームを最大限実践してみたが、アカデミックな生活と社会的発展から遅れをとるように感じた。金曜礼拝のために授業をさぼっていたからだ。非イスラーム的であるとして、特定の仕事をあきらめた。イスラームの外では、もっと社会的に充実した人生が送れると感じている。

(3)キャティの例:結婚のためのイスラーム改宗とその棄教
49歳の白人女性。米国南東部在住。結婚のためにイスラーム改宗し、同じその結婚のためにイスラーム棄教した。元のアッセンブリー教会のキリスト教信仰に戻る決心をしてから8年たつ。今は「キリスト・イエスに従う者として聖霊に満たされ再生した」と述べる。ムスリムは何度も、なぜキリスト教に戻ったのかと尋ねた。適切に彼女を扱わなかった夫のせいで宗教を変えたのだと、多くの人は言ったが、「自分のしたことすべては自分の決心で、誰をも何をも責めることはできない」。彼女は、夫と義母を含む家族からあらゆる種の虐待に苦しんだ。4人の子どもと長い結婚生活の後、夫とイスラームから離れる決心をし、キリスト教に戻った。振り返れば、実際には、夫と夫の宗教を礼拝していたのだろうと思う。「何かが欠けている」と感じていて、人生に本当の平安がなかったと言う。神の憐みに反して、その行いによって人々を神が救うという考えは、問題が多いと思っている。キリスト教は唯一の真の宗教的道であり、唯一の救いへの鍵だと考えている。
(以 上)

長くなったので、この続きは明日以降に…。