ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

キリスト教における改宗問題

ずいぶん前にコピペしたまま、他の話題にかまけてしまって転載できなかった「世界キリスト教情報」から、キリスト教における改宗問題について、文末にご紹介いたします。これは、キリスト教問題をあまり詳しくご存じない方にとっては、もしかしたら誤解されている向きがあるかもしれませんので、そうであれば必要な情報かと思われます。
マレーシアの人類学的研究において、2006年の時点で、ムスリム(マレー人)へのキリスト教伝道の事例報告が出ているそうです。また、キリスト教化問題で、改宗と再改宗を調べたデータも公開されるようです。失礼ながら私には、あたかも新発見したかのような、まるで鬼の首でもとったような書き方と感じられましたが、はい、大変残念でした。マレー人への伝道を実践しているグループが一部にあることは、私だって17年前から知っていますし、その旨、私もこれまで複数回、口頭発表で言及したはずです。また、キリスト教の改宗や棄教や再改宗などは、教会指導者層が最もよく知っていることです。しかし、2007年9月26日付「ユーリの部屋」で書いたように、この研究者その他から、ある小さな研究会で「こっちの知らないことは発表するな!」と言われたのです。そして、「こういうマレーシア研究の場ではなく、キリスト教の学会でやればいいことだろう!」とまで言ったのです。実は、以前、私にキリスト教関連の情報を教えろと言ってきたこともある人なんですが。その点、インターネット上のブログの方が、早く広く情報が伝播するという利点を持っています。この問題に関するご判断は、これ以上、こちらがどうこう騒ぐことではなく、皆さまにお委ねしましょう。
それはともかくとして、この報告書も批判の対象になる可能性があります。研究者の方には、非常に申し訳ないというのか、ご苦労様な話なのですが、キリスト教の全教派がムスリムへのキリスト教改宗活動に加担しているわけではないことは、既にはっきりしているのですし、19世紀的宣教のあり方から脱却して、21世紀的な宣教の問題および改宗問題については、現代神学ジャーナルでも、真剣に討議がなされています。また、トップ神学者の世界会合で、声明が出されてもいます。
問題は、それを「学問研究」の名において公開することが、「当該国の当事者にとって本当に幸福と安寧をもたらすのかどうか」という倫理性ではないでしょうか。主流派は既に次の段階に入っているのに、キリスト教を知らないか、あるいは内心小馬鹿にしている研究者が、無理やり(?)情報だけかき集めて何とか報告書に仕上げた時、そこから生まれるものは一体何なのか、ということです。しかも、それが我々の貴重な税金を使っての研究だとしたら、一国民として黙しているわけにはいきません。
と、肩肘はる以前に、もう少し、教会内論理から見てみましょう。その方が話は早いですから。
改宗や再改宗の問題は、他宗教との対立や軋轢を除けば、本来、教会内論理にとって、あまり理論的にも意味のない話なのです。真の改宗動機や再改宗のきっかけなどは、それこそ個人の内面の問題ですし、どんなに証で正直に教会の前で信仰告白したとしても、心のありったけが十全に語られているはずがありません。
教会側は通常、教会名簿を作って、洗礼を受けた人のリスト、教会員リストなどに分類して保存しています。日本でもそうですし、マレーシアでもどこでも、まともなキリスト教会なら、そうしているはずでしょう。司祭や牧師に本当の改宗理由を打ち明ける場合もあれば、黙っているか別の理由を挙げる場合もありますが、たいてい、当事者同士は何らかの察しをつけているのです。結局のところ、それで充分であり、わざわざ他国人が調査の名の下に、短期間、調べに入って報告する筋合いのものではないだろうと思うのです。
カトリックのある神父さまも、十年以上前、私にこう言われました。「カトリック教会でもね、“もうカトリックとは縁を切ります。教会名簿から、私の名前を削除してください!”と、啖呵を切るような人が時々いますよ。でもね、こちらも“はい、わかりました”とのみ答えておいて、実は名簿上はそのままにしておく。そうすると、何十年かたって、そういう人達が、また何かのきっかけで教会に戻ってくるんだよね。こちらは、何事もなかったかのように、にこやかに、“はいはい、ちゃんとあなたの名前はここに残っていますよ”と名簿を見せると、その人は“放蕩息子でしたぁ!すみません”となるわけね。人を切るわけにはいかんのですよ。いや、人を切ることはできんのですよ」と。
この話を端的に言えば、いったんカトリックに改宗した人が、教会離反をした後に、カトリックに再改宗する、という道筋になりますが、それとて、数十年のスパンがあるわけです。短期間にリサーチをしたからといって、そこまで見抜けるでしょうか。
従って、人類学のキリスト教改宗と再改宗の調査は、一体何のために、誰のためにやっているのだろう、という素朴な疑問が湧いてくるのです。

ところで、6年ぐらい前、某国立大学の夏期セミナーを受講した時のことです。ミャンマーキリスト教化について、「ファンダメンタリスティックなキリスト教宣教」の現象から、「宗教はおもしろい」と、これまた人類学の講師が説明されました。それに乗ずるかのように、タイの仏教徒の女子留学生が私に向かって、「キリスト教の人って、よくタイ仏教の調査をしに寺院まで来るんですけど、なんだか、仏教を馬鹿にしに来ているみたいなんですよね。こちらは、小さい時からその雰囲気の中で自然に育っているから、馬鹿にされるのは嫌なんですよ」と言い出したのです。その場にいた助教授(当時)も、あたかも留学生に同調するかのように話をうながしたので、突然、何ら理由もなく標的にされてしまった私は、大変に不愉快でした。
一体、私が、いつ、どこでそんなことしたんでしょうか?むしろ、勝手に決めつけておいて、失礼なのは、そちらじゃありませんか?だって私、タイでエメラルド寺院に行きましたし、日本でも禅寺が好きですし、どこがどのようにタイの仏教を馬鹿にしているのか、本当に混乱させられました。バンコクでお坊さんに出会った時、ワイ(合掌)をするように私の腕をつっついてきたのは、タイ人の友人なんですよ。
宗教がおもしろいって?イスラームのマレーシアでは、牧師や司祭が殺害されているというのに、人が亡くなっておもしろいんですか?一体、良識というものはどこにあるんでしょうか。
同時に、その助教授から「ユーリさんの研究テーマを知って、是非勧めたい文献があります。聖書翻訳を研究しているなら、これを読んで引用しなければモグリだと言われる本です」と、受講生の前で言われました。「先生、その文献って、どういう立場から書かれたものなんですか」と尋ねると、「どういう立場と言われても…」とモゴモゴ。早速セミナー後に大学図書館で探し出して読んでみました。それは、英語で書かれた文献で、タガログ語の聖書翻訳についての批判的考察でした。いかにも、キリスト教に批判的な日本人研究者の好みそうな抽象度が高い論文だったのと、フィリピン文脈では妥当でも私の対象とするマレー・イスラーム文脈では、ほとんど参考になりませんでした。
モグリと言われようと何であろうと、私は私の実体験に基づく問題意識から出発しているのです。合わない文献を無理に引用して、研究者仲間に入ったつもりになるなんて、倫理にもとるどころか、結局は無駄です。というのは、聖書翻訳は、もちろんすべての人々に開かれていますが、原則として、教会のためにあるものであり、研究者が外側からどんな理屈をつけようとも、現状に合わなければ、所詮アカデミアの枠内でしか閲覧されない文献に成り下がるわけです。また、教授や助教授の話を鵜呑みにした挙げ句、まかり間違って、その文献ないしは引用論文が、万が一「評判」にでもなってしまったら、後続する若い世代にも、合わないものを読ませるという不要な労力を強いることになるのです。
……と後で助教授の先生にセミナーのお礼がてらメールを書いたら、「あくまで一般論を話したのみであり、もちろん特殊例は別です」とお返事がありました。でもちょっと遅いですね。若いセミナー参加者達の多くは、私を見て笑っていたんですから。(ただし、企業務めから大学に転身されたという、遠方の大学から参加されたご年配の男性助教授だけは、後で私に、「ユーリさんは、非常に理路整然と話ができるし、とても明快な言葉使いをする。もっと自信を持ってください」と励ましてくださいました。どうも、いつもこういうパターンが多いですね、私って。)
本当に、前田護郎先生には、もっと長生きしていただきたかったです。私なら大した学校も出ていないし、地方住まいだし、笑われても仕方がないとしても、もし前田先生を笑う人がいるなら、その人こそがちょっと礼節を欠き、教養不足過ぎるのですから。
ただ、笑われた原因を探ってみると、どうやら根拠はこのニュースにありそうです。神学論議は確かに時間がかかりますけれども、笑われる前に、このような決議が公表されていたなら、もっと面目が保てたかもしれないですねって、自分のメンツなんか考えているからいけないんでしょうが。      
   
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2007年8月27日(月)    第867信(週刊・総合版)
福音派が「改宗」での行動規範で他派と協調へ

 【トゥールーズ(仏)=ENI・CJC】(ホアン・ミシェル記)世界福音同盟(WEA)系の神学者トーマス・シルマハー氏は、伝統的プロテスタント英国国教会正教会カトリック教会によって同意された、キリスト教への改宗に関する行動規範を、福音派も支持する準備が出来ていると言う。
 「福音派とエキュメニカルなキリスト者とが、この問題で今日ほど接近したことはなかった。30年前には出来ないとされていたことが達成可能になった」と語るシルマハー氏はドイツの神学者世界福音同盟宗教の自由国際研究所議長。「この種の合意に、このような広範なキリスト者の支援が見られることは初めてだろう」と言う。
 シルマハー氏は、バチカンローマ教皇庁)諸宗教対話評議会と世界教会協議会(WCC)の宗教間対話と協力に関するプログラムが共催し、トゥールーズで8月8〜12日に開催された協議で講演した際に指摘したもの。協議にはカトリック正教会プロテスタントペンテコステ派福音派神学者や教会代表約30人が出席、改宗に関する行動規範作成を進めた。行動規範は2010年までに完成することを目指している。
 シルマハー氏にとって、規範は「宗教の自由によって保護された、受け入れ可能な宣教形態と、人々を改宗させようとする過激な形態の間の境界線を確立する」ためのもの。しかし同氏は、異なった歴史的、宗教的、文化的、政治的関係の中で、明確な行動規範で「非倫理的な手段」を束縛することの困難さを認めた。ペンテコステ派福音派キリスト者の中には、積極的な改宗を行っているとして他派や他宗教からの批判にさらされている人たちもいるからだ。
 それだけでなく、カトリックプロテスタント正教会など各派の間では、1教派が伝統的に優勢な領域に食い込む「羊泥棒」と呼ばれる問題をめぐっても緊張が高まっている。
 自らの信仰を伝える権利を保持する中で、行動規範はいかなる宗教の信仰者に対する敬意も強調する、とマレーシア教会協議会のヘルメン・シャストリ総幹事(世界教会協議会信仰職制委員会共同議長)は指摘する。「宗教を説く者は、真理を独占する宗教はなく、救いを見つけるには様々な道があると教わる必要がある」と言う。
 伝道活動は、「他の宗教を過小評価したり非難する点で卑屈になること」は避ける必要がある、とインドのフィオレッロ・マスカレンハス氏(イエズス会士、国際カトリック・カリスマ運動指導者)は断言した。むしろ伝道は「宗教間の対話、宗教的調和と福祉プロジェクトへの心からの協力」を促進するべきなのだ、と言う。
 米国のペンテコステ派系『チャーチ・オブ・ゴッド』の牧師で神学者のトニー・リッチー氏にとっては、行動規範は「攻撃的な福音伝道」ではなく「対話的な福音伝道」という概念を核に築き上げなければならない。同氏は、そのような福音伝道がエネルギッシュで、熱心なものではあるが、高圧的でも偽装的でもないと信じており、また適切な福音伝道は、姿勢ではエキュメニカルで、倫理的行動を意識する必要があると説明する。
 世界福音同盟常議員のジョン・ラングロイ弁護士も、トゥールーズ会議に出席、行動規範について「他宗教に対する優越心が打破されたことを明らかにするため、過去の悪行を悔悟する表現」と語った。
 シルマハー氏は、福音派が「過度の圧力」とか「宣教の名に於いて人権を侵害した」ことを遺憾とする一方、「キリスト教の全教派が自己反省する必要がある」と強調した。想定されている行動規範は、「福音派ペンテコステ派に向けてではなく、共に作成されなくては意味がないとして、世界福音同盟の「関与と祝福が、尊敬される福音伝道のため、福音派ペンテコステ派の中の“困り者”に打ち勝つために重要」と、シルマハー氏は語った。
 スウェーデン神学者世界教会協議会の宗教間対話と協力計画の指導者ハンス・ウッコ氏は「プロテスタント正教会カトリックペンテコステ派福音派が複雑な問題を共に論議出来るという事実自体が成功なのだ」と言う。
 これまでの経過は予備的な性格のものであることを強調すると同時に、ウッコ氏は、行動規範が「攻撃的な改宗」と「福音伝道」とを区別し、伝道命令と自由選択の権利の間のバランスを取る、と語った。
 しかし行動規範をどのように実施するかは未解決のまま残っている。世界福音同盟世界教会協議会も、加盟教会を支配する正式権限はない。また行動規範がカトリック教会内で公式方針になりそうにないことも明らかだ。
 ペンテコステ派に関しては、「何かすることを、誰も全員に強制出来ない」とリッチー氏は言う。しかし「仲間の積極的な圧力というパワーはかなり効果的だろう」と示唆した。□
 (注:ホアン・ミシェル氏は、世界教会協議会広報担当)
(引用終)

公平さを期すなら、この見解についても、「この世との妥協だ」と反対意見が出ていることも、合わせて言い添えなければなりません。