ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

宝石の話

昨日、ガス器具の大工事のため(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161228)、午前からお昼過ぎまで計4時間、ガスが使えなかった。
玄関からお風呂場から脱衣場から台所まで、電気をつけっ放しの作業だった。
また、要在宅だったので、私はその間、作業員の出入りや仕事ぶりを傍で見ながら、パソコンに向かっていた。
何をしていたか。
こういう時には、勉強などは不向きだ。従って、普段は滅多にしない「誕生石」の効果や、手持ちのアクセサリー(指輪やネックレスやブローチやイヤリングなど)の汚れ落とし法を調べていたのだった。
中学生の頃から少しずつ、同じ誕生月だった母方の祖母に、誕生石がはめ込まれた指輪をいただいていた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161116)。年齢から早過ぎ、生活ぶりとアンマッチだったために、今までに使ったことはなかったが、今後は、サイズを確認しながら、もし使える機会があればと初めて思えるようになった。
小学生の頃、学校で流行っていた星座占いはともかくとして、誕生石については殆ど知らなかったので、今回は夢中になって調べることができた。お陰様で、4時間が有効に使えた。
最も興味深かったのは、誕生石につながる宝石の話は聖書に由来するということだった。
言うまでもなく、聖書に宝石の話が記されていること自体は学生時代から知っていたが、教会読みというのか神学路線というのか、キリストであるイエスへの信仰に基づく「救済」に重点を置く読み方だと、それらの箇所が相対的に薄れてしまう。また、キリスト教の親元であるユダヤ教の考え方や文化習俗に対する理解そのものが、どこか欠けたものになってしまう。第一、それならなぜ、新約文書よりも遥かに長く厚い旧約文書を前半に置いて読まなければならないのかが、不明確だ。
最も有名な宝石リストは、出エジプト記28章17節から21節(と39章10節から13節)にある。

「ルビー、トパーズ、エメラルド、ざくろ石、サファイア、ジャスパー、オパール、めのう、紫水晶、藍玉、ラピス・ラズリ、碧玉」

各宝石には、イスラエルの十二部族の名が彫りつけられている。この12個の宝石を各四列に並べ、金で縁取りして、祭司アロンの祭服の胸当てにするのだ。
上の宝石リストには私の誕生石も含まれているが、何かは秘密にしておこう。
もう一ヶ所、聖書に記されている有名な宝石リストは、ヨハネの黙示録21章19節から21節である。
日本聖書協会の新共同訳では、訳者が異なるらしく、宝石名が旧約箇所と一貫していない上、宝石の種類に重複がある。

「碧玉、サファイア、めのう、エメラルド、赤縞めのう、赤めのう、かんらん石、緑柱石、黄玉、ひすい、青玉、紫水晶

これは、新しき都エルサレムの城壁の土台石を列挙したものである。
このリストにも私の誕生石が含まれているが、訳語の問題のために、何と二箇所の土台石に相当する。
日本に伝来したキリスト教は、早くは16世紀からだが、明治期にもカトリックプロテスタントロシア正教のそれぞれが伝道を開始し、立派な大学や教会などが日本各地に建設された。敗戦後には、特に福音派の教会が大小さまざま広まって、今日に至っている。
だが、当然のことながら、これまでに訪問したことのあるイスラエルアメリカ合衆国やスペインやフランスやスウェーデンなどの教会は、更に壮大で絢爛豪華だった。ドイツの場合、案外に(あら?)という教会も見てきた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily2/20161023)。
シナゴーグについては、東京の広尾は本質重視というのか、やや質素な感じがするが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080409)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130403)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160423)、ダニエル・パイプス先生が講演をするようなパリ(http://www.danielpipes.org/9478/monde-arabe-europe)やイスラエルアメリカのシナゴーグは(http://itunalily.jp/wordpress/)、非常に華やかで美的感覚抜群である。
(ちなみに、9月の欧州旅行の時(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161007)、本来の予定では、パリで最も美しいと評判のシナゴーグで、マニュエル・ヴァルス氏がご挨拶されるユダヤ新年の祝賀行事に私達も出席するはずだったが、直前になって、パリの大ラビが急逝されたとの理由で、急遽、キャンセルになった。)
今秋の欧州の旅で再会したメルボルン出身のご年配のユダヤ系女性(ご本人は「不可知論者」だと自己描写されていた)は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161115)、昨春のネゲブ・イスラエル旅行の際(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150511)、パイプス先生に指名され、カバラ思想についてバス・トークをされた(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151020)。今回の秋の旅行では、「昔、聖書講座を長く受講して、かなり勉強した」と私におっしゃっていた。
そこで、フランスのサンドニで教会堂を巡っていた時の(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161106)、私からの問いを以下に。
「欧州やイスラエルで教会を巡ると、シナゴーグと建築様式が似ていると感じるのですが、どちらが先だったのですか?シナゴーグか教会か?」
もう一人の高齢のユダヤ系男性が、ニコニコしながら彼女に回答を促していたが、即座に「教会が先よ」。
「でも、宗教史としては、ユダヤ教が先で、キリスト教はその一部として発生しましたが」と私。
「礼拝堂の場合は、キリスト教会が先。似ているのは、相互に競い合っているからなのよね」。
へ〜え、そうだったんですか。こういう会話は、日本ではしたくても、なかなかできない。
神道の神社と仏教の寺院とでは、必ずしも建築様式が融合しているわけではないが、日本においては、両者の信仰(宗教実践)が競合関係ではなく、曖昧に共存しているからでもある。明治の一時期に廃仏毀釈があったとはいえ、神仏習合本地垂迹説など、中学校でも習った。
話を元に戻すと、もし聖書の預言通りに新しきエルサレムが地上に具現化するとしたら、日本の無教会のような聖書中心の質素かつ学究的な雰囲気以上に、可視的に華やかで美々そのものなのだろうと想像される。
誕生石のパワーというわけではないにしても、自分のアイデンティティに忠実な飾り物を身に付けるということは、来年からの動乱の世界情勢を生き抜く上でも、必要な知恵なのかもしれない。
私のアクセサリーは、祖母と義母から譲り受けたり、主人からプレゼントされたものが大半だ。冠婚葬祭用に、真珠のネックレスとイヤリングとブローチのセットは、二十代の初めに母親が用意してくれた(←お茶会の着物はダメなのだが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161217)、この辺りが何だか矛盾する行為だと思う)。その他には、マレーシアの錫で作ったブローチを自分で買った程度で、学生時代は文字通り、その辺の安物で済ませてきた。
婚約時代の主人は、アメリカ出張の時、ティファニーのイヤリングやネックレスを買ってくれたことがある。今では汚れがついたり、緩くなって使えなくなったものもあるが、私がねだったわけでもないのに、「慣れていないからよくわからないけど」と初々しさを添えて、プレゼントしてくれた。
...と書くと、何だかとっても愛されている妻のように思えるが、実態および実感は如何に?