ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

前田護郎主筆『聖書愛読』(12)

何かとせわしない年末、至極平凡な暮らしの私にも、突発の出来事や、新たな片づけ物と依頼原稿などの用件が、次々と目白押しに起こります。

おとといの夕方、図書館と買い物から自転車で帰る途中、家の近くでご葬儀の準備をされているのに、偶然気づきました。よく見ると、どこかでなじみのあるお名前。(え?もしかして)と思って葬儀屋さんに尋ねてみると、中から、前の住居のお隣だった方のご長男が出て来られました。「はい、そうです。母もこれで一人きりになりますので、どうぞよろしくお願いします」との丁寧なご挨拶があり、こちらも驚きと恐縮と...。
急とはいえ、やはりこういうことは大事だと思い、主人の帰りも遅いので、黒スーツに着替えて、一人でお通夜に参列させていただきました。見知らぬご年配の方がほとんどでしたが、私にとっては、初めての土地に一人嫁いだ新居で、お隣さんとして、さりげないご親切をいただいた方でしたので。
例えば、冬のある日、晴天だからと布団をベランダに干していたところ、いつの間にか、小雪が舞い始めました。知らないでいたら、ご主人がドアベルを押して、「布団、濡れますよ」と教えてくださったのです。また、温厚で和やかなご夫婦で、冬休み、夏休み、春休みには、三人のお子さんそれぞれのお孫さん達が遠方から泊まりに来ていて、とてもにぎやかでうらやましく思っていました。と同時に、お隣さんが良い方でよかったと、毎日、目に見えない安心感を抱いておりました。いつも夕方にはおいしそうな煮物の香りが漂ってきて、それがまた、ほっこりとした温かさを醸し出していました。2004年3月上旬に、すぐ近くとはいえ、私共が別の住宅に引越すことになり、ご挨拶に回ったところ、やはりご主人が出て来られて、「あれあれ、知りませんでした。突然のことで」と。直後に奥様が、毛筆で書いた小さな飾りものをこしらえて、持って来てくださいました。「今の若い人には黙っているけど、挨拶は大切な習慣ですからね」と。その後は、奥様の方とだけ、買い物の行き帰りなどに、お見かけする程度でした。ずっとお元気でいらっしゃるものと思っておりましたのに。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。奥様にもご遺族の上にも、どうぞお疲れの出ませんよう...。

というわけで、気持ちは複雑だったのですが、昨日の午前中は、以前から、絶対に欠席しないという約束で申し込んであった、京都朝日会館での中原中也セミナーに出席。午後は河原町三条の本屋さん三軒で三時間ほど過ごしました。(セミナーの感想と本屋さんで買った本については、明日以降、掲載する予定ですので、どうぞお待ちください。)帰宅してみると、波多野精一時と永遠岩波書店の中古本が届いていました。こういう硬質・高質の本こそ、本中の本と呼べるのでしょう。文体も表記法も、元国文学科出身者としては、とにかく懐かしく、また、読み応え充分でうれしくてなりません。若いうちに古い文体に鍛えられてよかったと思うのは、こういう時です。

先程は突然、主人の亡父のいとこという大阪府下在住のおばさんが電話をよこし、「今、近くに来ているから、会えません?」とのこと。こういうのが、一番困るんですね。もともと主人ともそれほどのつき合いがなく、私共の結婚に際しても何らノータッチだった上、十年間ほぼ音沙汰なし。年賀状の交換すらしていなかったのに、晩年になると、こちらの都合も聞かずに、急に訪問に来られるなんて。だいたい、どうやって私共の住所を知ったのでしょうか。主人にも予定がありましたので、丁重にお断りしましたが、一体、何だったのでしょう?こちらに会いたいなら、事前に都合を聞いて打ち合わせするのが、昨今の礼儀じゃないでしょうか。三世代前の田舎じゃないんですから。主人に伝えると、「その対応でいい。僕が電話に出たとしても、同じ返事をしていたと思うよ」。

今日のところは、この辺に留めて、早速『聖書愛読』の続きへと参りましょう。

・第179号1978年(昭和53年) 11月
ホープ・チェスト」(pp.8-10)
ホープ・チェスト hope chest 希望の箱
ホープには事の実現への期待という積極面とまだその事が実現していないという消極面とがあります。(中略)英語でI hopeとI thinkとはちがいまして、前者は後者よりも弱いのです。(中略)裁縫や料理の心得など目に見えないものも広い意味でのホープ・チェストに入れるべきであり、大切な精神面での用意としては聖書が一番であることを話し合ったこともあります。
結婚するために生まれて来たと考えるような動物と大差ない人もいますし、(中略)教育ママが一応教育した後で嘱託媒婚に右往左往するのもどうでしょうか。(中略)
与えられるといいますのは、人間の欲望で築き上げるのではなく、創造主の愛を受けて、理性的に創造への参加に招かれることです。そこに人間として光栄ある使命があると思います。
この使命感は、一生独身で医療や教育や事務に専念しようという意欲とも共通です。(中略)独身を道徳的に高位に置くことは問題ですが、献身的な奉仕の生涯が尊敬すべきことは申すまでもありません。(中略)
与えられた持ち場を謙虚に受けることです。結婚の場合、押しかけ女房には不幸がつきまとうものです。(中略)男性にリードされる女性の美しさは、なにを物語るでしょうか。(中略)そのために、それぞれの持ち場でホープ・チェストが与えられていることも考えてみましょう。(終)
「クリスマスの喜びの3段階」(pp.10-12)
しかし聖書の本文を学問的に掘下げますと、クリスマスの新しい意味に出会いました。
「書斎だより」(pp.13-16)
新緑に囲まれて、神学の科学性についての研究をまとめた(6月21日).
八王子の大学セミナーハウスの国際セミナー館の落成の集いに出かけ、学界の旧知新知と学問論をたたかわせた。諸科学のよろめきの時といわれるこのごろ、聖書の真理の力をしみじみと感ずる。(6月24日).
午後はキリスト教海外医療協力会の理事会に出席し(中略)主としてアジアの状勢を聞きながら相談をした(6月25日,日曜).
聖書に関心を持ちはじめた人にはどこか明るさが見えるのが不思議である(6月26日).
信州への車中同席した紳士風の人が暗い目つきで新聞の経済面を熟読していたが、わたくしの弁当をのぞき込んで、失礼ですが、お家からご用意のお昼ですな、といって急に寂しそうな顔になり、しばらくしてお酒をめちゃ飲みして眠り込んだ。不況の余波を受けた気の毒な経営者らしい。希望の福音をと叫びたくなる。(6月28日)

・第180号1978年(昭和53年) 12月
「どろをかぶる」(p.1)
うまくいかないのは自他の欲望がいろいろな形で衝突するからです。中に立つ人が上から圧力をかけて一時的に何とかなっても、圧力が減ったりなくなったりしますとまた欲望が動きだします。(中略)
無神論多神教の世界では自分が神になって顔を立てる人が多いのですが、真の平和は自分の顔をつぶすところに始まるのではないでしょうか。(中略)
聖書を開きますと、こうした状況に追い込まれた人のための慰めのことばがなんと多いことでしょう。(後略)
「書斎だより」(pp.11-15)
学究生活にはヨーロッパのほうがいいが、日本に生まれたことの意味や子どものことを考えると、いつまで滞在すべきかという問題が起きる。難しいことである。(8月24日)
学界(ママ)発表の準備のため勉強したところ、いろいろ新しい問題と取り組めてうれしかった。(8月31日)
60歳を過ぎて福音に接し、心身の健康を恵まれた朗報(9月3日)
無教会は日本だけのものではないことを昨秋のインドの体験をふまえて話した(9月15日)
戦前塚本、矢内原両先生の講演会のとき玄関番兼右翼の見張りをしたころを思い出した(9月23日)
日本基督教学会で“神学の科学性”と題する研究を発表した。全国から集まった会員に熱心に聞いてもらえてうれしく思う。(9月28日)
一時帰国中の月本昭男君と久しぶりに会い、今後の研究の方針やドイツの学界のことなどゆっくり話し合った。大いに勉強意欲を燃やされてうれしかった(10月6日).
専攻科で聖書が諸科学の求めている真理そのものを示唆していること、学問するには聖書に教えられる平安の道が大切なこととの両面を話した(10月9日).

(引用終)