ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

中間的思索

このところずっと原稿書きなどに明け暮れていて、机の周りは資料の山で乱雑になっています。多くの資料を見ないと非常に平板で、何が何だかわからないことが多いテーマです。あっちに少し、こっちに少し、という細切れ情報を根気よくまとめ上げていく方針にしているので、これほど時間がかかっているのですが、最初はため息が出そうなほどでも、ある程度まとまってみると、考えが少しずつ落ち着いてくるような気がします。
というわけで、ブログどころじゃなかったのですが、これからも、もう一つ原稿がありますし、ほったらかしの英訳課題もあるし、そうこうするうちに、5月下旬にはリゲティのコンサート、そして参加を勧められた学会があります。予定は目白押し。ありがたいことです。
昨日届いたカトリックの『ヘラルド』には、故ヨハネ・パウロ二世を暗殺しようとしたトルコ人青年が、刑務所で回心してなのか、今やカトリックに改宗したという記事が載っていました(‘Agca says he is now a Catholic' Herald, 10 May 2009, p.8)。そして、「ヴァチカンに行きたい。今の私は昔とは違います」と言っているとか。彼の回心を疑っている人もいるようですが、何より、このような発言が聞かれること自体、キリスト教の底力を見るような思いがします。と同時に、やはり小さくとも、ムスリム地域にキリスト教会が存在することの意味を再考させられます。対話路線だけでは、一見平和なようでいて、実はこのような劇的な変化が起こる可能性を摘んでしまっているかもしれないからです。
ロンドン在住の広東系マレーシア人牧師から、長いメールが届きました。現在の神学の問題について、私の観察は正しいとのこと。そして、以前も書いたことですが、2,30年前のキリスト教神学の方が、まだ健全であり、保守的かもしれないけれども他民族や他宗教に対してもっと開かれた態度をとっていた、という話でした。
確かにそういう面はあるのだろうと思います。一見、寛容だとか相互理解だとか多様性の尊重だとか、お題目は美しいのだけれど、かえって焦点がぼやけてしまい、態度で人を馬鹿にしている「神学者」が増えたようにも感じています。それに、現在の「主流派」「リベラル派」は、アジアのプロテスタントを低く見ている、とも書かれてありました。その点、前世紀やしばらく前の宣教師達の方が、はるかに献身的であった、とも...。
故前田護郎先生のご著書にも、オランダ人の立派な神学者のお弟子さんで、「インドネシアに行って土地の人々に自分の人生を献げたいと思っているが、なかなか親戚からの賛同が得られない。また、植民地はオランダ人が支配するものなのだという教育を受けてきた世代なので、その克服が難しい」などと率直に語られていたご知人の話が出てきます(「オランダの印象」『前田護郎選集3真理愛の拠点教文館 2008年 p.326)。でも、案外こういう方こそ、よき宣教師になられたのではないでしょうか。また、著名な神学者バルトのご令息クリストフ氏が宣教師としてインドネシアで奉仕していらしたことも、故前田護郎先生のご著書で初めて知った次第です(「バルトとの会遇の思い出」『前田護郎選集4希望の福音教文館 2008年 p.199)。
私の場合、その薫陶を受けた世代のクリスチャンとマレーシアで知り合うことが多かったので、なんとなくノスタルジックな気分にはなります。
人間は一体、進歩しているのかどうか?