ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

前田護郎主筆『聖書愛読』(9)

今日も、片づけ物に終始していました。日頃の運動不足がたたってか、だんだん、腕や背中の筋肉がだるくなってきました。でも、捨てるものは捨て、残すものは残し、ようやく見通しがつき、ある程度まとまりかけて、気持ちが落ち着いてきた感があります。茶道でよく「形から入る」といいますが、確かに道理です。あともう一息で終わらせた後、もっと大事な一仕事があります。そちらの方が心配と言えば心配ですが、何とか納得のいくよう仕上げたいと思います。
片づけながら考えていました。なぜ、こんなにいろいろとモノがたまってしまったのか、と。結局のところ、二十代半ばから三十代半ばにかけて、「多様性」や「個性」という流行り言葉に惑わされて、自分が何を求めてどのような方向に進むべきなのか充分に把握できなかったことと、自分に合わない不適切な環境で無理に順応しようと下手な労力を費やしていたことが原因かと思います。特に後者について、その負の影響は甚大です。違和感を覚えても、(私の心が狭いせいではないか)とか、(世の中はいろんな人がいるのだから、広く世間を知らないと)とか、(人間関係では協調性がないといけない)などと、一生懸命自分に言い聞かせながら、内心疲れていたところがありました。
本来、研究にしても仕事にしても家庭生活にしても、嫌な部分があったとしても、基本的には喜びとやりがいがあるから、続けられるものだろうと思うのです。そうでなければ、ここまで人間社会が発展するはずがありません。ところが、私の場合、環境のせいなのか、不満が残った時に、すべて自分の問題だと思い込んでいました。その結果、疲労感や徒労感が多かったわけです。
ただ、このような問題は、私一人だけではなさそうです。例えば、日本のキリスト教神学の低迷や教会の衰退の問題は、思い切って話してみると、ご年配の方達も同意されることが多いですし、最近では、そのような問題を正面から扱った文献も出てきました。今朝の新聞には、昨今の大学が競争面ばかり前面に出していて、地味で基本的な努力を積み重ねている人々のことがなおざりにされているのではないかという発言もありました。私に言わせれば、その主張は遅きに失した感があるのではないか、と思いますが、それでも、新聞に書かれるかどうかは大きな分かれ目です。
長期的視野で一人一人を真の意味において大切にする社会が、安定と繁栄を生むのではないかと思います。私などは、単に不器用で世渡り下手だと思われているかもしれませんけれども、要領に長けた人ばかりが構成する社会など、ぞっとする思いです。

資料整理のそもそものきっかけとなったマレーシア研究の文献の山は、手がけ始めた1990年代初期には、国内に概説書のような簡単な文献はあっても、私が本当に知りたいことが書かれてある詳細な資料がどこにあるのか、皆目検討がつかなかったのが一大原因です。また、サバ州在住のある日本人クリスチャンは、私の関心事を知って、次のように書いてきました。「マレーシアに住んでいたのに、この問題の深刻さに気づかず研究しようなんて、主を本当に愛しているなら、そんなことを思いつかないはずです。学問的にはおもしろいかもしれませんが、現地のクリスチャンにとっては迷惑です。今すぐやめてください」。無記名でしたが、誰だかすぐにわかりました。受け取った当初は非常にショックを受けました。
しかし、これも実におかしな話です。現地のキリスト教指導者層は、私に面会して意図を知ると、むしろ、とても協力的なのですから。国内のローカル・クリスチャンなら難しい発言でも、外国人なら大丈夫だろう、むしろ、海外でもっと自分達の苦境を知ってほしいのだ、と。しかも、今はホームページやブログなどで、どんどんキリスト教情報をマレーシアから発信していますし、きちんとしたジャーナルの英語論文を調べれば、早いところで1970年代から、主に1980年代から、同じ問題が繰り返しあちらこちらに書かれています。先の日本人クリスチャンの話を半ば真に受けた私は、非常に損をしました。
結局のところ、きちんとした正確な情報に基づいていないから、何事も「センシティヴ」の一言で人の活動を抑制してしまうのです。こちらだって、良識を持って行動したいと願っているのですから、あたかも子どものように扱わないで欲しかったと思います。
ともかく、この分野で、リサーチ初期に、信頼できる日本の専門家に出会えなかったことが時間のロスを生み、手当たり次第に本を買い集め、関連論文の複写に明け暮れることになってしまったわけです。まったく、よき師に出会うことの重要性は、強調してもし過ぎることはありません。

その意味で、故前田護郎先生の書かれた文章は、今だからこそ再読されるべきだと改めて思います。では、続きをどうぞ。

・第147号 1976年(昭和51年)3月
「停年」(p.1)
周囲にいろいろ無理解なものがいまして、公私ともに予期しない形で前後左右上下からこづかれましたけれども、そのたびに不思議な道が開かれるのでした。学業を捨てようとしましたときに留学の機会が与えられて新しい形で学問に専念しえましたが、この際も新しい気持で帰朝以来おくれがちであった研究に打ち込みたく思います。いろいろ好意あるお招きを受けましたが、日本語で同胞とともに真理を学ぶよろこびは失いたくありません。計画は山ほどあります。
「アフリカ・ヨーロッパ通信 1974(ⅩⅩ)」(p.5)
エス伝の歴史的批判と神学的解釈とが緊張関係にあるが、両者をはっきり分けて神学的に行きたい、そうでなくて単に歴史的だと神学から外れてしまうし、総合大学におけるキリスト教研究の意味がなくなる、という趣旨でした。

・第148号 1976年(昭和51年)4月
「ヨーロッパ古来の伝統と現代(上)」(p.5-8)
(2月20日(金)の日独協会例会での講演の要旨。機関誌日独月報265号(12月号)と268号(3月号)とに掲載されたものの転載。多少加筆)
人間を知るには、その生活や仕事や対人関係などとともに、その血統や経歴などを明らかにすべきことはいうまでもありません。国あるいは社会を知るにも、現状だけでなく、その歴史を学ぶべきであります。(中略)
このような歴史と現実には、スイス国民の95パーセント以上がキリスト教徒であるという精神的基盤があります。内には平和、外には協力という隣人愛の実践が家庭と小学校とで幼時から教え込まれるのであります。スイスは自然が美しいばかりでなく、都会も家庭も清潔です。住むものが心身の健康を恵まれているその国柄は中世以来の信仰の実りであります。(中略)
十字軍という犠牲を払いつつもアラブその他との対決に勝利を収めたこと(中略)
「書斎だより」(p.14-5)
日本聖書協会の理事会で、一年の聖書頒布が数百万部と新聞広告したのに対して、その数字には一部分だけのも含まれるから今後自粛するよう要請した。なお、頒布は有料の場合販売としたほうがよかろうとも加えた。(12月8日)
何年かしてから論文や著書になる。しかしこの世との交渉なしでは仙人になって空理空論を回転させる危険に陥る。老齢はこの世の長年の経験をふまえてなるべく静かな研究に打ち込みたいと思う。(12月24日)

・第152号 1976年(昭和51年)8月「書斎だより」(p.6-7)
学生時代にはよい先生とよい友人とよい書物との出会いが大切、人間として安息・吸収・清潔が大切、人を愛しての創造的なお金の使い方が大切ということを短くまとめてみた。(3月13日)

・第153号 1976年(昭和51年)9月「書斎だより」(p.7)
一般教養なしの大学はありえないこと、専門バカは社会を毒することを実際的な角度から話した。(3月25日)
学問の境界をこえた広い範囲の勉強、外国語重視、少人数教育の三つを特徴とする教養学科論を展開した。(3月27日)

・第155号 1976年(昭和51年)11月「停年雑感三章」(p.7-9)
1948年にオクスフォードを訪れたとき、停年近い教授がわたくしにもらしたことばですが、彼は大学を引退してからも長く学会で活躍していました。(中略)大学教授はEmeritusとよくいわれ、講義や事務から解放されて研究者としての仕事に専念できるのがふつうです。(中略)ジュネーブ大学に勤めていたころ、四十代のある教授が机上に山と積まれた資料を指さしながら、今はどうしようもないけれど、停年になったらこれを論文にまとめたい、といっていましたが、その後二十数年たったころ彼の夢は現実になりました。(中略)わたくしの親しいある教授は67歳でやめて学問ひとすじの道に入りました。(中略)先輩の英文学者を訪れたことがあります。その時机の上にたくさんの漢籍が置いてありましたので不思議に思いましたが、老先生は若いころ親しんだものに心ひかれるこのごろです、といわれました。(中略)若い時に古典と聖書を学ぶと年をとってからの人生がおもしろいといわれますが、このごろ本当にそうだと思います。そのおもしろさの正体を学的につきとめるのもおもしろそうです。(後略)
教養学部報 第220号 1976年1月26日発行) 
(引用終)