ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

イスラエル・フィルその他

昨日は、ミルトスの『イスラエル・フィル誕生物語』(2000年)を読了しました。すぐに読める本ですが、ところどころ、ぐっと心に迫ってくる箇所がありました。いつもの習慣でメモをとりつつ読みましたので、正確な写しではありませんが、例えば、次のようなくだりです。

・ヴァイオリニストのフーベルマンが1936/1937年当時のパレスチナ交響楽団のプログラムに寄せたメッセージ:「音楽においてユダヤ人が世界で果たす役割」「創造力は芸術のなかで最も高く評価されるべき能力」「芸術家一人一人が、それぞれの社会に潜在する感情、思考、喜びや悲しみ、希望や絶望を統合し象徴化しながら、社会と積極的にかかわり合ったことを表現するもの」 (pp.30-32)


・前線の兵士たちが言ってきたのは、食料以外にもっとそれ以上のものがほしい。それはオーケストラだ。(p.113)


イスラエル・フィルは細かい部分についてまで、演奏家自身の解釈を加えて演奏するという点で右に出るものなし。いつも楽しんでいる。心から演奏する。(p.130)


・危機のときにこそ音楽が必要。たとえ戦時中であっても音楽なしでは生きていけない。 (p.131)


・ベトレヘムの聖誕教会前の広場での演奏会で、テロリストがこの公演をねらっているという情報入る。「銃声が聞えても、指揮を続けてください」(p.133)


・戦争になって、公演回数が減るどころかかえって倍増。スービン・メータ:「たとえ四人でも聴衆がいるかぎり、私たちのコンサートをやめるわけにはいかない。」(p.134)


・プログラムに印刷された曲目どおりのコンサートはできなかった。予備役だった打楽器奏者たちが召集され、オリヴィエ・メシアンの音楽の演奏はとうてい不可能だった。」(p.134-5)


・1991年1月17日から始まった湾岸戦争では、一カ所に500人以上集まる集会や催しは禁止され、イスラエル・フィルの公演も中止に。代わりに、小さなホールで演奏会。軍隊や病院で慰問演奏会。2月23日にはエルサレムで公演。イラクスカッド・ミサイルのため、イスラエル全土に警報のサイレン。指揮者メータ、ソリストアイザック・スターン、オーケストラ全員、聴衆も皆が防毒マスク着用。解除サイレンの後、演奏を続行し、コンサートは終了。(p.135-6)


・メータ:「ここではひとりひとりが個性的で、ひとりひとりが目覚めており、音楽の解釈をしている。」「感覚のみならず魂も使って」「二つ(指揮者とオーケストラ)が一体となってとり組めば、楽譜の行間から新しい発見が得られる。こうして音楽ととり組むことが喜びとなり、その喜びが聴衆をひきつける力となる。」(pp.137-8)


アメリカでは組合の要求が強いから、演奏の質を下げている。(p.138)


・オーケストラのスケジュールに空きがあれば、イスラエル中の遠隔地、キブツ、入植地、開発地域、ホール、クラブ、防空壕に音楽を届ける。(p.148)


イスラエル・フィルのメンバーもイスラエル国防軍の兵役義務を果たしている。(p.149)


・決してお金持ちのオーケストラではない。「名士の名簿」により、多くの一流演奏家がわずかな金額でイスラエル・フィルへの出演を承諾。(p.163)

このような歴史的民族的環境を知ることで、なぜイスラエル・フィルがイスラエル・フィルたり得るのかが理解できるようになってくると思います。また、ボンベイ出身のズービン・メータがイスラエル・フィルと関係が深い指揮者なので、自信を持って「メータはユダヤ系でしょ?」だと言う人に会ったことがありますが、そうかなぁと思っていたら、実は彼はユダヤ人ではないということが、この本にはしっかりと書かれていました(p.127)。

ついでながら書き添えますと、故エドワード・サイードダニエル・バレンボイムの協働による音楽演奏会の試みが、ちょっとした話題になった時期がありました。「クラシック音楽のことはわからないが」と断りながらも、この話題を持ち出して、アラブ人とユダヤ人の相互理解を促進するような持論を展開していた日本人研究者も何人か知っています。しかし、いつも思うのですが、私見では、パレスチナ側ないしはアラブ・ムスリム側の言い分だけを前面に出すのではなく、もっとイスラエル側の状況もよく理解してから、そういう話をすべきではないでしょうか。ずいぶん前のことですが、既に白血病に冒されていたサイードのピアノ演奏を、テレビで見ました。上手下手の問題ではなく、音は正確に出ていたけれども、何か怒っているような激しくたたきつけるような弾き方でした。本来あるべき奏法ではないと思います。そういう人を単純にひいき目に見て論を進めるというのは、いかがなものか、と感じた次第です。

話は変わりますが、昨夕には、マレーシア神学院の図書館スタッフから、また2本の論文が届きました。「興味あるかと思って…」との言葉を添えて。1本目は、オーストラリア国立大学所属の恐らくインド系の方で「アジア太平洋における国家治安と憲法上の諸権利:マレーシアの経験」と題する論文、もう1本は、別の工科大学所属の方による「改宗のダイナミクス:中部カリマンタンのダヤク人のイスラーム化」という論文です。こういう連絡が入ると、私のことを覚えて手間暇かけてくれるといううれしさと、意外な刺激が与えられるという点で、本当にありがたく思います。早速、デスクトップに移して、暇を見て読むことにしましょう。

おとといは、コンラート・アデナウア財団のマレーシア支部(Konrad Adenauer Stiftung Malaysia, KAS Malaysia)宛に本を一冊注文しました。私のことを覚えていてくださった華人女性アシスタントから、すぐにメールの返事が届き、「もう送りました」とのことです。こういう早さは、大変気持ちがいいですね。
ところで、KAS Malaysiaの代表者が新しく替わりました。2006年11月30日のクアラルンプール・日航ホテルでのセミナーでお世話になったPeter Schier氏は今年の6月で任期終了。次はどなたかと楽しみに待っていました。しばらくKAS Malaysiaのホームページも更新されていなかったため、確認がつい遅くなってしまいました。前任者はカンボジアからマレーシアに来られ、奥様もカンボジア人でしたが、今の方は南アにいらした経験の持ち主のようです。ドイツは世界各国にネットワークを張り巡らして、ナチス時代の挽回につとめているようです。我々がドイツから学ぶべきことは、まだまだ多くありそうです。

いずれにしても、去年のセミナーは何かとぐったり疲れましたが、こうして時間が経つと、ただただ懐かしさだけが蘇ってきます。このセミナーのことは、神学者キュンクについても調べた上で文章化しようとして、資料を集めてファイリングしたまま中途保留なので、何とか仕上げないといけませんね。ようやくやる気が湧いてきた気分です。

主人が読んだ英語の本をアマゾンに中古本として売りに出しているのですが、その評価なるものが、予想以上によく、うれしく思っています。わざわざ葉書をくださったり、メールで個別に感想を書いてくれたり、アマゾンのシステムでコメントを寄せたりしてくださる方が多いです。今のところ、オール100%の評価です。あまり期待もせずに、なすべきことだけしていたのですが、気がついたらこんな感じで、感謝しています。

また、この「ユーリの部屋」も、意外な方達の目に留まってブックマークされているようです。ともかくも、時間を割いて読まれているのは、ありがたい限りです。

それから、昨日は、ユニセフから送られてきたパンフレットについていたバジルの種を、バルコニーの鉢に蒔いてみました。うまく育つといいのですが。6月頃、コスモスの種が相馬雪香氏の「難民を助ける会」から送られてきたので、蒔いてみたところ、確かに3本の芽が出ました。花も咲いたのですが、この夏の暑さがたたったのか、今は自然消滅しています。かわいそうなことをしました。でも、毎朝楽しみに水をやっていたんですよ。

きんもくせいの花はもう落ちてしまい、香りもほとんど残っていません。でも、昨日までの数日間、快晴でとてもよい気候でした。家の近くにある小高い山を30分かけて上り下りするのが日課ですが、澄んだ空気と静かさとで、非常にリフレッシュされます。

おとといと昨日の「ユーリの部屋」は、ちょっと内容に力が入っていたので、今日は軽く書き流してみました。人生には緩急が大切ですね、ちょうど音楽のように。