ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

中間休み その2

昨日の朝は、主人の発病をきっかけに入会した「患者と家族の友の会」の事務局の方からお電話をいただきました。私がお送りした葉書の質問に対する直接のお返事と共に、内容がいいので会報に載せるとの旨でした。ほんのささいなことですが、このように小さなアイデアや工夫を積み重ねることで、会報編集者のお役に立てるのであれば、うれしいことです。また、医療費問題について、国会答弁をテレビでいつも注視されているとのお話もうかがいました。
このところ、気分転換も兼ねて、集中してショスタコーヴィチのCDを聴き、本を読み、ノートにまとめてファイルを作ったり、写真をコピーして編集し直したりしています。一般向けということもあるのでしょうが、割合、以前から知っていた曲が多く、文章にも重複情報が結構あったりして、大凡の傾向がつかめてきました。

このように、気に入った一つの分野に没頭するような趣味あるいは遊びというものは、意外と専門分野の勉強にも役立ちます。クラシック音楽はお嬢さんのお稽古事だと今でも思っている人は、さすがに格段に減ったでしょうが、音楽は、常に一定の時間を伴うために、ある程度まとまった暇がないとできない分野でもあります。フルタイムの仕事を持っていたら、こんな贅沢はできなかったでしょう。そういう楽しみは定年後に、という考え方もあるかもしれませんが、それでは感性がまた変化してしまっています。

昨日の『ローマの休日』の派生で、一時期、精神的に停滞した経験を書きました。今から考えれば、あれは高校時代からの抑圧と緊張の継続がなせる業だったと思うのです。高校の頃、「遊ぶのは大学に入ってからでもできる。今が記憶力と体力のピークだ。睡眠時間も6時間以上寝る必要はない」などと一年生の時からハッパをかけられていました。そして、毎日の時間の過ごし方を表に書いて提出させられていました。ところが、先生の言ったことは全くの嘘でした。

現実には、大学に入ると、月曜日から土曜日まで、ほぼ毎日講義でびっしり埋まっていました。その合間をぬって、毎月のようにゼミ発表の用意をする課題も、学部一年生からありました。さらに、接触する世界が広がるために、自分がいかにモノを知らないかを痛感させられる日々となり、必死の読書とさまざまな資格取得の準備、および各種アルバイトで世間勉強などと、「遊ぶ」なんて暇はありませんでした。年齢に合わせた人間的成長が周囲から期待されるので、そのためにも、努力を怠るいっときなんてなかったのが事実です。

さらに、「18歳が記憶力と体力のピーク」というのも本当ではありません。体力については、20代半ばが一番あったと今にして思いますが、それは、睡眠2,3時間の日でも、翌日何とか頑張れたというだけの話です。今なら、そんな無茶はまずしません。ただし当時は、四季のない亜熱帯地域のマレーシアに住んでいたので、それだけでも、とにかく疲れる日々でした。さらに異文化との接触の毎日で、何かと神経も使いました。

記憶力に関しては、外国語を例に取れば一番はっきりしますが、18歳当時の英語の語彙量では、到底やっていけません。大学に入ってすぐに、英検2級から始めて1級まで取り、国連英検もB級から始めてA級に合格しました。ドイツ語やスペイン語の検定も、受けられるものは全部受けていました。その他にはピアノの実技と音楽理論の検定試験があります。つまり、凡人でも工夫すれば、年齢を重ねても伸びていくのが記憶力なのです。今後も、努力次第で、新しいことが覚えられるだろうと思っています。

睡眠時間については、昔から「四当五落」などと、睡眠を削ってまで刻苦勉励するのが、受験に勝つ秘訣だとまことしやかに語られていました。しかし、最近の研究によれば、眠っている間に脳内の情報が整理され、記憶も定着するので、むしろ、覚えた後はすぐに寝た方がよい、と言われています。さらに、健康を維持するには、6時間睡眠ではやや不足であり、個人差があるものの、概して7,8時間睡眠が理想だそうです。

そのように、高校の担任の叱咤激励はアテにならなかったのですが、私の場合、刷り込まれた圧迫癖が抜け切らず、したいこともせずに長年焦っていたので(?)、憂鬱感に悩まされることになったのでした。今、ショスタコーヴィチに関心が高まったところで、集中してCDを聴き、本を読んで知識欲を満たせて、本当に感謝です。これは、ある意味での昇華であり、人生の途中で必要なプロセスでもあると思います。

話は突然変わりますが、数日前、今年のチャイコフスキー国際コンクールで優勝した神尾真由子さんの凱旋公演ツアーの様子が、BSテレビで放映されていました。確かに、ねばりのある濃厚な音色の出せる、稀有な日本の女性ヴァイオリニストだと思いました。ただし、21歳の彼女は、ヴァイオリン向きの感性と体格と環境に恵まれたのが幸運だった今風の女の子という印象です。インタビューの受け答えは、飾りっ気なく、率直で正直だとは思いましたが、ゆっくり言葉を選びながら話すように見えて、実は後先を考えずに言いたいことを言ってしまっている感じで、残念ながら、それほど聡明でも知的でもないなあ、という感想を持ちました。現在のように価値観が多様化している時代には、一昔の千住真理子さんのように、「私はヴァイオリニストですから」と殊更に構える必要はないと思いますが、まだまだ研鑽を積んでより一層音楽を高める訓練が必要な時期だろうに、「私はできたから…」「(同じ曲を演奏するのは)飽きますね」「演奏旅行はあまり好きではない」などとあっさり言ってのけるところに、将来の懸念を予感させます。表向きはそういう素振りを見せておいて、実は人知れず懸命に努力している節もうかがえますが、私の好みでは、そういう二重生活が続くのも、若いうちだけではないかと思います。

ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲は、「最も体力を必要とする曲で、弓を落としたことがあるので、夜ジョギングで体力作りをしているのだ」とも言っていました。総合的なテクニックが必要ですが、体力だけではなく、精神の深みも重要なのがショスタコーヴィチだろうと思います。

話を元に戻しますと、多分、彼女は他にも興味を持つことがあっても、自発的に始めたとはいえ、ヴァイオリンに焦点を当てた生活が小学校の頃から続いているので、気晴らしがしたいという程度のことかもしれません。適当に遊びの部分を入れなければ、気が滅入るほど緊張を強いられるのが、クラシック演奏家の日常なのでしょうか。ああいうタイプの若い女の子達を、数年前、ある大学のキャンパスで時々見かけたのですが。