ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ナタン・ミルシテインの回想録

昨日から、ナタン・ミルシテインの回想録の翻訳を読んでいます(『ロシアから西欧ヘ:ミルスタイン回想録ナタン・ミルスタイン&ソロモン・ヴォルコフ著/青村茂&上田京(訳)春秋社 2000年)。
ショスタコーヴィチの証言』で一躍名を轟かせたソロモン・ヴォルコフの著作ですが、『証言』が、偽書ないしはヴォルコフの創作ではないかという見解が、出版当時のソ連当局のみならず、現在の研究者の間でも根強いために、この『回想録』も、どうも分の悪い立場にあるのかもしれません。また、訳語や表記に基本的なミスが多少あり、読む側がいちいち直さなければなりません。ただ、2007年9月20日の「ユーリの部屋」『証言』でも述べたように、この種の著作は学術論文ではないため、内容が真実かどうか、事実を正確に述べているかどうかは別として、一つの読み物としてならば、それなりに楽しめるのではないでしょうか。私は、そのように読んでいます。知らないよりは、知っていた方が、他の関連書を読む際にも、理解の大きな助けになるからです。

最もおもしろかったのは、音楽家と政治の箇所です。私が20代だった頃に活躍中だった著名な政治家の名前と演奏家達が出て来て、なるほど実はそうだったのかと、かなり遅れた打ち明け話を聞くようで、興味深いものです。この種の話は、今更知ったから別にどうということでもなく、当事者や関係者なら当時から常識だったのだろうと思います。結局のところ、暴露するかどうかが、分かれ目なのでしょう。
しかし、私のような一般素人にとっては、こういう読み物があることで、多少は、音楽四方山話の引き出しが増え、いざという時の社交会話で助けになることもあるのです。それは、今年6月の国際聖書フォーラムのレセプションのテーブルでも、経験しました(「ユーリの部屋」2007年7月1日)。
クラシック音楽は文化の一側面で、関わっているのは人間ですから、作曲家や演奏家の人柄や哲学や生き方には、それぞれの特徴が出ます。それにしても、この本を読んでいると、私が育った環境(名古屋の音楽学校など)のクラシック受容とその理解は、本当に田舎臭いというのか、遅れていたというのか、当時の限界をまざまざと見せつけられるようで、恥ずかしいような懐かしいような気がします。これは、単に私の理解度の低さだけの責任でもありません。レコードの解説を読んだ記憶などから、単純に、「ソビエト音楽はすばらしい」「これからの時代は、ロシア語が重要になってくる」という無責任な礼讃を思い出すと、何だか笑えてきます。書き手がどこまで真剣だったのか、価値というものは、時の試練を経なければ、わからないですね。という意味で、古典を趣味の読書に加えているのですが。

ところで、今日は、大阪クリスチャンセンターで開かれたレーナ・マリアさんの歌のリサイタル日でした。夏頃から予約チケットを入手していたのに、何てことなのか、すっかり忘れてしまっていたのです!!カレンダーを見て、(あ!今日だったのに、もう遅刻だ!)と気づいた次第です。チケット代は献金の代わりにセンターに寄付したことにしますが、残念極まりありません。
レーナ・マリアさんは、手足に障害を持つ方ですが、いつも明るく前向きで、何でも自分で挑戦してみるすばらしい方です。4年ほど前に、テレビの「徹子の部屋」で拝見しましたし、本も読んだことがあります。主人にとっても励ましになるかと思って、すぐに申し込んだのに...。こんなことは、初めてです。昨日、今日と少し調子が悪いので、そのせいかもしれません。今後は気をつけよう!

それでも、悪いことばかりではありません。突然機械が壊れたために、我が家ではすべて再生不可となってしまった(2007年8月19日付「ユーリの部屋」)ギル・シャハム氏と江口玲氏の来日リサイタルの模様が、来週、再々放送されることになったのです!
久しぶりに、江口玲氏の楽しいホームページの掲示板をクリックしてみたら、何と昨日のうちに、その話題で盛り上がっていました。私の件も覚えていてくださった方達がいて、「よかったわね、ユーリさん」と喜んでくださいました。イシハラ・ホールで演奏会を楽しんだ者同士ですから、顔はわからなくても、間接的にはファン仲間なのですね。

インターネットは、自殺サイトの事件やら何やらで、問題視されることもありますが、要は使い方次第!私だって、江口氏のサイトがなければ、この再々放送の件は知らずに過ごしてしまったかもしれないのですから....。それにしても、望めば叶うもの、そして、待てば海路の日和あり、なんですね。