ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

オール・ショスタコーヴィチの午後

電子コミュニケ−ションは、うまく使うならば、即時性と再現性の両面において、大変便利です。もっとも、手書きの手紙や対面の会話の方が、より大切で本質的だということは、忘れられてはなりません。使い分けが重要だということです。
その電子ツールのツィッターを媒介に、『みるとす』編集長が次のようなことを書かれていました(http://twitter.com/#!/kawai_kazumitsu)。

真剣だと知恵が出る。中途半端だと愚痴が出る。いい加減だと言い訳ばかり。これ人物評価のはかり。」

つまり、今週半ばの私の悲嘆と憂鬱は、「中途半端」だったことに起因するのかもしれません。もっと真剣勝負で取り組むならば、知恵(ホクマー)が与えられるのでしょう。
ところで、本日付の私自身のツィッターにも書きましたが(http://twitter.com/#!/itunalily65)、今日の午後は、兵庫県立芸術文化センターで、ショスタコーヴィチを聴きました。井上道義氏指揮でソリストはボリス・ベルキン氏。オーケストラは兵庫芸術文化センター管弦楽団。曲目は、私の大好きなヴァイオリン協奏曲第1番、そして、「19歳のいびつな少年」の作品である交響曲第1番。アンコールは「激しい」「しびれる」と、舞台上から井上氏が説明された交響曲第10番の2楽章アレグロ
オール・ショスタコーヴィチなんて、贅沢なひと時。途中、20分の休憩をはさんで3時5分から4時45分までの時間。でも、あっという間に終わってしまった感じでした。
ボリス・ベルキン氏はユダヤ系の旧ソ連出身者。1974年に西欧に移住し、1987年からは、イタリアのキジアーナ音楽院でマスタークラスを持っていらっしゃるそうです。だから、ショスタコーヴィチが合うのだなあ、と改めて。ただし、彼の演奏は、深みのある、まろやかな温かい音色で、繰り返しになりますが、あの年齢だからこそ出せる音ではないか、と。
舞台に出てくる時には、左手で水平に楽器を持ち上げるように登場。これは、ギドン・クレーメル氏が同じく井上道義氏とシベリウスを演奏した時と同じやり方でした(参照:2008年9月23日付「ユーリの部屋」)。
残念なことに、座席が最前列の右から二番目と三番目。つまり、第二ヴァイオリンの後ろ姿と、コントラバスが目の前に高く見える位置。こんな席を取った覚えはないのですが、仕方ありません。井上氏の明るく躍動感あふれる指揮ぶりはよく見えても、肝心のソリストが、時々隠れてしまったのです。
若い頃のベルキン氏は、ヴィルトゥオーゾとして、世界最速をねらったような華やかな演奏も展開していたようですし、若かりし日のギドン・クレーメル氏みたいに(あの髪型、もう少し何とかならない?)という風貌だったのですが、今や落ち着いたロマンス・グレーの魅力的な紳士に。CDを早速聴いてみると、なかなか技巧も冴え渡っていて、素晴らしいのですが、今日の舞台では、強い感動というよりも深くしみじみした余韻を残す渋い演奏だったように思います。この渋さは、若い女ソリストには出せないもの。
ところで、日本のオケも、ソリストに対して、足を踏みならして拍手代わりとすることに、今日、初めて気づきました。そして、演奏会終了後の、舞台上での「お疲れさま」挨拶も。ドイツの団員は握手をする習慣がありますが、それはパフォーマンスというより、礼法なのでしょう。