ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

巨星逝く

日本経済新聞』(http://www.nikkei.com/news


民族学者の梅棹忠夫氏が死去 「文明の生態史観」「知的生産の技術」 2010/7/6 13:29


 国立民族学博物館(民博)創設者として、民族学、比較文明論で幅広い業績をあげ、思想家、文明批評家としても知られる同博物館顧問で京都大学名誉教授の梅棹忠夫(うめさお・ただお)氏が3日、老衰のため、大阪府内の自宅で死去した。90歳だった。連絡先は民博総務課。告別式は近親者のみで行った。喪主は妻、淳子さん。

 1943年、京都帝国大学理学部動物学科を卒業。大阪市立大学助教授、京大人文科学研究所助教授を経て69年同教授。74年から93年まで初代民博館長を務めた。

 大阪市助教授時代、「文明の生態史観序説」(57年)で、日本と西欧の文明が平行進化をたどったとする独創的な世界史モデルを展開。唯物史観の影響が強かった当時の学界・論壇に衝撃を与えた。また資料の整理法や読書術などをまとめた「知的生産の技術」(69年)は戦後を代表するベストセラーとして、研究者だけでなく一般市民にも大きな影響を与えた。

 88年仏パルム・アカデミーク勲章コマンドゥール章。91年文化功労者、94年文化勲章。99年勲一等瑞宝章
 96年1月、日本経済新聞に「私の履歴書」を執筆した。

信濃毎日新聞』(http://www.shinmai.co.jp/news/20100707


「スケールの大きな人」県内でも梅棹忠夫氏悼む
7月7日(水)


 3日、90歳で死去した国立民族学博物館(民博、大阪府)初代館長の梅棹忠夫さんは県内にも足跡を残している。関係者は「スケールの大きな人だった」としのんだ。

 梅棹さんが初めてスキーに触れ、山に入り浸った信州は「文化人類学者としてのバックボーンをつくる原点だったはず」。こう話すのは、大町市の地域社会研究家扇田孝之さん(63)。この秋に初の受賞者を選ぶ「梅棹忠夫・山と探検文学賞」に中心でかかわっている。死去を知り、「第1回を開くこの時期に…。巡り合わせを感じました」。

 1984(昭和59)年、北安曇郡白馬村で開かれていた民族学の自主セミナーを機に出会って以来の付き合い。ゆかりの賞創設を心から喜んでくれたが、「私の名前を使うなら『冒険』ではなく『探検』でなければならない」と注文も。「きっちりした賞にするという大きな宿題を与えられました」と話す。

 京大名誉教授の田中二郎さん(69)=安曇野市穂高=は京都の高校で山岳部の先輩だった梅棹さんにあこがれ、京大理学部に進学、山岳部に入った。アフリカの先住民族を研究し、75年から約10年間、民博で併任教授などを務めた。館長だった梅棹さんと議論したことも。「若手研究者を育てるリーダーとしての資質も持っていた」と振り返る。

 日本人エベレスト初登頂者で、日本山岳会前副会長の平林克敏さん(75)=兵庫県川西市在住、大町市出身=は、関西電力に勤務していた59年、黒部ダムを見学に来た梅棹さんと初めて出会った。「黒部峡谷をせき止めてダムを造る文明的意義を調べに来られた」といい、「考え方がものすごく大きな人だった」と話した。

毎日新聞』(http://mainichi.jp/kansai/news

梅棹忠夫さん死去:生涯「知の探検家」 民族学、常識破る 失明後も執筆続け


 常識にとらわれないユニークな発想で、民族学文化人類学から文明論まで幅広い分野に独創的な研究を残した国立民族学博物館(民博)顧問の梅棹忠夫さんが3日、90歳の生涯を閉じた。「知の探検家」として人類の未来について語る一方、研究の拠点づくりにも力を尽くした。【佐々木泰造】

 大阪市立大助教授のとき、京都市の自宅の応接室を毎月第1、第3金曜に開放し、若い研究者や学生たちとビールを飲みながら自由に議論する場を提供した。「金曜サロン」と呼ばれ、後に日本の民族学文化人類学を担う多数の研究者を輩出した。

 64年に生まれた自主講座の「近衛ロンド」も梅棹さんが実質上のリーダーで、会場に近い京都大だけでなく関西のさまざまな大学の学生や会社員、主婦らが参加して、95年まで1000回も続いた。

 日本民族学会の博物館担当理事となった68年から、学会の悲願だった博物館設立に取り組み、万博の跡地に敷地を確保して、74年の民博開設にこぎ着けた。教官の出身大学は京大、東大、ほかの大学が3分の1ずつで、学閥人事を避けて多彩な顔ぶれを集めた。

 民博では常識を打ち破り、民俗資料などをショーケースに入れずに見せる露出展示や、ブースでビデオ映像を見せる映像展示をわが国で初めて取り入れ、その後の博物館ブームでモデルとなった。

 現地調査で集めたデータを整理するための工夫などを紹介してベストセラーになった「知的生産の技術」(69年)をはじめ、著作はわかりやすく書かれた。65歳で視力を失った後も口述で執筆を続け、3年間に約40冊の単行本を刊行するなど、知の探究に晩年まであくことがなかった。

 ◆評伝

 ◇情報化社会を予見
 激動の20世紀にあって、21世紀の今日の世界を梅棹さんほど見事に予見した学者はいないだろう。

 もともとの専攻は動物学。大量のオタマジャクシを水槽で飼って、動きを数理解析した論文で理学博士号を取得した。戦前、調査に訪れたモンゴルで家畜の群れを見て、どういう法則で動いているのかと考えたのがきっかけだった。

 そのユニークな着想は、理系から文系に転じた後、壮大なスケールの比較文明論として結実した。それが現地調査と詳細なデータ収集に基づいていることは見逃せない。

 「戦後提出された最も重要な世界史モデルの一つ」と評された「文明の生態史観序説」(57年)は、55年にカラコルム・ヒンズークシ学術探検隊の一員としてアフガニスタンなどを訪問しイスラム文明とヒンズー文明に接したことによって生まれた。

 女が封建武士=サラリーマン型の妻をやめ、社会的な職業を持つべきであるという「妻無用論」(59年)は、その後の女性の社会進出を予見していた。「情報産業」は梅棹さんの造語で、「情報産業論」(63年)は現在の情報化社会を予見する世界で初めての論文だった。

 高度情報化時代に合わせ日本語をローマ字で表記すべきだという戦後すぐからの持論は、実現していないが、ほとんどの人がローマ字入力で文章を書き、それを海外の人がインターネットで読む時代の到来を見越していたとも言える。

 梅棹学の先見性は、固定観念にとらわれない自由な発想から生まれた。21世紀にも受け継がれるべき知的遺産だ。【佐々木泰造】

昨日の夕刊で、梅棹忠夫氏がお亡くなりになったとの報に接しました。
約2年前に、思いがけず民博の守衛さんの受付口でお目にかかったのが(参照:2008年7月26日付「ユーリの部屋」)、最後となってしまいました。本当に、何事も一期一会で貴重だと思います。万博公園の中に位置する民博の建物の構造自体、いつも発想の大きさを感じさせるのですが、上記の記事にもありますように、大変にスケールが大きく、ユーモアたっぷりでユニークな学者だったと改めて思います(参照:2007年10月7日付「ユーリの部屋」)。また、梅棹研究室から、松谷みよ子氏の展示会チケットをいただいたことも、懐かしい思い出です(参照:2008年7月19日・8月18日付「ユーリの部屋」)。これで、後は鶴見氏のみとなってしまいましたが、この世代の先達は、今では残念ながらあまり見かけられなくなってしまったほど、大胆な着想と行動力を誇っていらしたと感銘を受けます。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。