ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ミーチャ@DSCH(5)

ミャンマー情勢が懸念されます。

ミャンマービルマ)からの留学生とは、院生時代に少しご縁があり、名古屋の友好協会に顔を出したり、チューターとしてお世話させていただいたり、日本語教育の関係で何人かの留学生と知り合ったりしました。そのうちの一人は、日本人と結婚して岐阜に住んでいます。当時のミャンマー人の印象は、日本人と非常に似ているところがあるというものでした。言語も、文字こそ異なれど、語順や文法項目が類似していますし、仏教的な穏やかな文化と農業国であるということ、人々の全般的な勤勉さが、自然な親しみを覚えさせるものでした。もっとも、人それぞれの性格や出身地や育ちなどの相違がありますが、戦時中の日本兵への対応一つでも、全体的に日本にとっては好意的なものだったようです。
昨日の朝日新聞朝刊では、ミルトスのスタッフが名前入りでインタビューに答えられていました。私もメールでやりとりした方です。この度ミャンマーで殺害されたジャーナリストの方とは、イスラエル取材の通訳・翻訳の仕事で知り合いだったとのことでした。平凡に暮らしているだけの私ですが、どこかで間接的に人と人がつながっているのだと感じさせられた記事でした。

一刻も早い収拾と平和を望みます。

昨日は、近所の町立図書館を経由して、大阪府立図書館からショスタコーヴィチ関連のCDと本、そしてイスラエル関連の本を借りてきました。

CDは、9月19日の「ユーリの部屋」にも書いた、サイモン・ラトル指揮のベルリン・フィルサラ・チャンショスタコーヴィチプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番(2曲とも)です(2005年 EMI Classics)。実のところ、私自身はあまりサラ・チャンが好きではありません。子どもの頃はかわいらしかったのに、妙齢に近づくにつれて化粧がけばけばしくなっていくのが、どうも上品とはいえず、態度にどこか自信過剰のふてぶてしさがあるのが目につくからです。CDで聴いた限りにおいて、彼女の演奏が秀逸であることは確かですが、部分的に音が外れていて、表現にやや不安定さと曖昧さが感じられる箇所が幾つかあります。恐らくは、音楽をとことん追究するよりも、成功したヴァイオリニストとしてのプライドの方が勝っているのでしょう。

五嶋みどりさんのように、母娘二人で、それこそ背水の陣を敷いて、必死にがんばってきたのと違い、サラ・チャンは、係累にも恵まれ、家族ぐるみで彼女をバックアップしてきたので、小さな頃から組織的に最短距離を歩み、何かと余裕があります。しかし、その余裕が、音楽に対する謙虚さやひたむきさに結びついていないように見えるのが、大変に惜しまれます。韓国ではその方が受けるのかもしれません。ただ、日本ではどうでしょうか。「音楽祭で、サラ・チャンは歩き方が下品だった」と書かれたアメリカ在住の日本人のブログを思い出します。そういう全体的な雰囲気や人生に対する姿勢が、クラシック演奏家に対する好みや人気を左右するので、ある面こわいところがあります。

ショスタコーヴィチでは、弦楽四重奏曲の第3,7,8番が入ったハーゲン弦楽四重奏団のCDも借りてきました。楽しみです。案外、聴いてみると「これ、知ってる!」ということが多いのですが…。

その他のCDは、イツァーク・パールマンの演奏で、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第2番が入っているものです。数年前にも借りたものですが、もうすぐパールマンのコンサートがありますから、再度の予習も兼ねて…。それに、ショスタコーヴィチを知るには、天敵(?)だったプロコフィエフを聴くのも一方法だと考えたのです。まあ、プロコのCDは他にも持っているのですけれど…。

その他の本3冊については、9月19日の「ユーリの部屋」に記した通りですから、ここでは省略するとして、音楽関係では、ソロモン・ヴォルコフ(著)/青村茂・上田京(訳)『ロシアから西欧へ:ミルスタイン回想録』春秋社(2000)も借りました。

また、ミルトスが棚卸しセールをするというので、リストを送って紹介してくださったものの中から、『ヘブライ語の父ベン・イェフダー』(1988/2000)と『イスラエル建国物語』(1994)も同時に借りました。多分、二週間以内には読めないと思いますが、延長手続きをして、早く読み切りたいです。とにかく、今はわくわくしています!これがミーチャ・ショスタコーヴィチとどんな関係にあるのか、と尋ねられたならば、それは、偽書扱いされているヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』の「5章 わたしの交響曲は墓碑である」に依っているとお答えしましょう。

わたしは思うのだが、音楽的な印象について語るなら、ユダヤ民族音楽がわたしにもっとも強烈な印象を与えていた。わたしはユダヤ民族音楽を聞くたびに、いつでも感動を覚えるが、それはひじょうに多様性をおび、見た目には陽気でも、実際は悲劇的なのである。それはほとんどつねに泣き笑いにほかならない。
 ユダヤ民族音楽のこの特性は、音楽がいかにあるべきかというわたしの観念に近い。音楽にはつねに二つの層がなければならない。ユダヤ人はひじょうに長いあいだ苦しんできたので、自分の絶望を隠すすべを身につけていた。ユダヤ人は自分の絶望を舞踊音楽のなかに表現している
。」(p.227)


ユダヤ民族音楽についていうなら、それはユニークなものである、と断言できる。たくさんの作曲家たちがユダヤの音楽に耳を傾けてきた」「わたしの作品の多くにも、ユダヤ音楽から受けた印象が表現されている。」(p.228)


これはただ単に、純粋に音楽の問題であるばかりではなく、道徳の問題でもある。わたしはしばしば、ユダヤ人にたいする態度からその人間を判断している。」(p.228)


あるとき、それは戦後になってからだが、わたしは本屋のそばを通りかかって、ユダヤの民謡集を見かけた。わたしはいつでもユダヤ民謡に興味をもっていたので、その本にはメロディーも出ているものと考えたのだが、歌詞しか収められていなかった
その歌詞のいくつかを選び出し、それに曲をつけると、ユダヤ民族の運命について語れるように思えた。それを行なうことが重要に思えたのは、周囲に反ユダヤ主義が増大しつつあるように見えたからである
。」(p.228)


わたしの両親は反ユダヤ主義を恥ずべき偏見とみなしていたが、その意味では、わたしは完全に特殊な教育を受けていた。」(p.228)


ユダヤ人はヨーロッパでもっとも迫害され、よるべのない民族となった。中世が戻ってきたのだ。ユダヤ人はわたしにとって象徴となった。そこには、もっとも無防備な人間の問題が集約されていた。戦後、わたしはこの感覚を自分の作品のなかで伝えたいと努力したものである。このときはユダヤ人にとって悪い時代であった。もっとも、ユダヤ人にとってはいつでも悪い時代ばかりだったのだが。」(p.229)

外の仕事をいったんお休みしている今は、主婦業さえしっかりやっていれば、こんなに自由に本が読めて、クラシック音楽も聴けて、好きなように勉強もさせてもらえて、ありがたい限りです。私にとって一番幸せなのは、こういう時期です。大切に過ごそうと思います。