ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

新渡戸シンポの感想 その4

性懲りもなく、まだ今月初めのシンポジウムの話を続けようと思います。
会場である上智大学のエレベーターに乗った時、どのような外国語専攻科が開講されているのかを天井近くの表示で眺めながら、改めてカトリック系大学だなと思わされました。英語は当然のこととして、ドイツ語、フランス語、イスパニア語、ポルトガル語と、カトリック圏域がずらりと勢揃い。ロシア語が入っているのは、ロシア正教会カトリック教会の伝統的な関係をどこかで示唆しているのでしょうか。アジア文化専攻という研究室もありますが、これは東南アジアが中心のようです。いずれにしても、さすがはカトリック系ならではの言語文化地域です。プロテスタント系ならば、どこかでヘブライ語ギリシャ語も加わるかと思いますが、これは古典学ないしは、哲学・思想の領域かもしれません。
「ことばに壁がある」ことそのものを問題視する識者もいないわけではありません。しかし言語集団の違いによって壁があるからこそ、守られている部分も大きいだろうし、相手に敬意を抱きつつ、学ぶ意義があり研究しがいがあるというものではないでしょうか。もしも、差異がなければ、戦争も対立も差別もなくなるだろうと仮定するのではなく、平板でつまらない人間界になるであろうことを想像してみるとよいと思います。
多言語習得が異なる文化への寛容の精神を本当に育むことになるのかについて、多文化共生推進の方々に水を差すようですが、公にはそうでなければならないのですけれども、自分の経験からはやや疑問です。一般の人は、基本的に、母語以外は必要に応じて言語習得するものであるからです。たくさんのことばを知っている人が、真に穏やかで円満な人格者かというと、これまでの人生経験から、必ずしもそうとは言い切れないように思います。かえって、豊富な知識が邪魔して、頭でっかちの傲慢そうな発言をする人も、残念ながら見かけたことがあります。
この多言語習得=寛容の精神育成言説は、恐らくは文化相対主義に基づくものであろうと考えられます。しかし現在、文化相対主義に対する批判が出ているのと同様な疑問が提出されるでしょう。言語を離れて考えてみると、例えば、どの宗教も等価値を有するという主張があります。そうでなければ、宗教の相違に基づく対立や紛争を招くからです。しかし、だからといって、その主張が事実通りであるという保障も証拠も実はありません。経験的には、一理あるかもしれないがそうでないかもしれない、としか言えないところが微妙です。「誰でも自分の宗教が一番と思っているのが普通」と言われることもある一方で、自分の宗教が嫌だと思っていても抜けられない(背教が許されない)宗教も世の中には存在するのです。
数年前、ミュンヘン大学神学部の教授が、ある講演会で「宗教は、その表現方法が異なるだけで、どれも同じである、という説があるが、私はそう思わない。芸術作品がどれも同じわけではないように、価値の高い宗教もあれば、価値の低い宗教もある」とドイツ語で述べられました。終了直後に、日本の主催者側の一人が慌てふためき、講演者の方に駆け寄って行ったのを私は目撃しました。この件は、主催者と招待講演者の事前の意思疎通の問題もさることながら、充分考えてみる必要のあるテーマではないでしょうか。
話を言語に戻しますと、「間違いを恐れず、どんどん話してみるように」というアドヴァイスが、ラジオの外国語講座でも頻繁に聞かれました。本来は「間違いを恐れつつも、前進していこう」ではないでしょうか。15年以上も前のことですが、マレーシアで、英語を話すインド系の家庭で「あの女性はとても料理が上手です」と言おうとして、例のごとく暑さと疲れのためもあり、朦朧として“She is a good cooker.”とつい口走ってしまったところ、早速、そこの奥様から袖を引っ張って台所に連れて行かれました。「あのね、間違った英語を話すと教養がないと思われるから、気をつけてね。“She is a good cook.”と言うんですよ」と直されて、顔から火が出そうな思いをしました。
また「アジアの人々は、英語にそれぞれのなまりや癖があっても、堂々と喋っているのだから、これからはアジア英語変種も公に認めていき、日本人も日本式英語でも構わないのではないか」などと主張する「英語論者」に出会うこともありますが、到底私には賛成し難い見解です。
第一に、アジアの人々は、植民地支配の結果、英語やフランス語などに秀でる階層が存在していることは確かですが、何も好きこのんでなまりや癖を押し出しているのではありません。マレーシアに関するならば、特に華人の中には英語のアクセントが強すぎる人が目立つようですが、それは本人に自覚がないか、直そうとも思っていないからです。しかしながら、きちんとしたそれなりの教育を受けた階層なら、「あの人の話し方はどこか○○風だ」とか「さすがは英国留学経験者だけあって、ことば選びが的確だ」という発言も聞かれます。テレビのニュースキャスターの発音でも「あの人は英語学校を出ているからいいけど、この人はマレー語世代だから、どうしても聞きづらい」などと内輪で評しているのも耳にしたことがあります。前述の「英語論者」は、恐らくこういう地元人の評価を経験したことがないのでしょう。私などは、歳をとればとるほど、身の縮む思いを繰り返していますが、だからといって「この私のぐしゃぐしゃ英語も認めてください」と主張するつもりもありません。そんなはしたないことを…。
日本国内の大学で、留学生に日本語を教えていた時期があります。もし留学生が「音声学の授業は嫌だ。私の発音でも、意味が通じるのだからこれでいいだろう」と言い出したならば、今でも厳しく注意すると思います。本当に意味が通じるかどうか、そういう話し方をして、どういう印象を与えているか教えるのが、こちらの責任だからです。その逆を考えてみれば、上述の見解の不足がわかるでしょう。
「無国籍料理」というものがあります。一度ぐらいなら遊び感覚で楽しめますが、それほどおもしろくもおいしくもないというのが正直なところです。味そのもののことを言っているのではありません。混ぜ合わせたものの元がわかるならともかく、どう見てもルーツやアイデンティティのはっきりしないものは、どこか‘いかがわしさ’がつきまとうものです。誤解のないよう言い添えますが、この感情は‘差別’ではありません。
それから、「橋渡し言語」という表現があります。エスペラントもそのように称されることがあります。しかし、ただ単にAとBを結びつけるための通路をつくるだけに終始するのではなく、問題にすべきは、橋そのものが広いか狭いか、そして丈夫なのか壊れやすいのか、誰によって造られた橋なのか、その橋をわたる人はどういうタイプで、どんな目的なのか、ではないでしょうか。さらに、橋を渡った先に何があるのかの見通しもなく、やみくもに渡る人もいないだろうと思います。
ある研究大会で口頭発表した時のことです。私は当然、マレーシアの話しかできませんから、マレー語の宗教社会上の問題についてお話させていただきました。その後質疑応答に入り、一人の初老男性が挙手し、暗に私に同意を求めるかのような質問をされました。「最近、インドネシアスリランカで、大地震のため津波の被害が多く出ましたね。それをテレビで見ていて、‘ほれ見ろ、だから子ども達にもアジア諸語を教えなければ’と思ったんですが、どう考えますか」。私に言わせれば、失礼ながら「正気ですか」と問い返したくなるような話です。こういう突発の危機状態には、現地語よりもっと大切なことがあります。それは、土地の指導者(その場合は必ずしも現地語が母語とは限らない)に迅速で正確な情報を的確に伝えることと、水や薬やテントなど本当に必要なものが、無駄なく速やかに全ての人々に行き渡るよう、地元の人々と協力することです。なまじ、中途半端な速成の「アジア諸語」を使ってみたところで、役に立たないどころか危険ですらあります。そういうことは、フィールド経験豊富な専門家に任せるとして、我々はもっと他にすべきことがあります。
ついでながら、マレーシアに関して、日本人でもマレーシア人でも「自分はマレー語も英語もマンダリンもタミル語もできる」と公言する人に今まで会ったことはありません。たいてい見積もるところ二言語、多くて三言語使い分ける程度です。しかし、本当のことを言えば、真に優秀な人は、家庭でもモノリンガルであることが多かったです。日常会話レベルでマレー語を混ぜたりすることがあるのは、地元文化ですから自然です。幾つかの言語を中途半端にあれこれ話すよりも、しっかりと一言語で思考し、情報を入手し、生活する人の方が、落ち着いていて、こちらが知りたいと思うことをよく知っていました。もう一歩付け加えると、英語学校で教育を受けた人は、英語もマレー語もよくできるのに対して、マレー語学校で教育を受けた人は、同じカリキュラムでも英語が弱いという報告がなされています。
今日の「ユーリの部屋」は、とりとめもなく雑感めいてしまいました。