ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

当たり前のことを丁寧に

今日はこれから、私達の住んでいる地域が改修工事のため停電する、とのことですので、あまり長くインターネットが使えません。そのため、単発的な短い話でお許しいただければと思います。

国際聖書フォーラムの最終講義で「イザヤ書」について学んだのですが、その講義の司会と通訳を務められた筑波大学の池田潤先生は、小さなメモ帳を手に壇上に上がられて、発言が始まるや否や、ペンを細かく走らせ、通訳の段階では、質問者のお名前まで丁寧に通訳されていました。去年の聖書フォーラムでもそうでしたが、とても的確で落ち着いたすばらしい通訳でした。少しでも見習わないと…。

やや分不相応であっても、ちょっと背伸びしていい会合に出ると、何でも気分良く学べるので爽快です。時には、自分のことを棚に上げてでも、対応やら発言やらで、何かと批判がましくなってくる会合も皆無ではないので…。そういう所は、たいていボスと部下の人間関係が今ひとつしっくりいっていないとか、同僚同士の縄張り争いが激しくて、どこか連絡が滞っているとか、競争心むき出しで余裕がないなど、何らかの‘逸脱’が観察されるのです。
一流というのは、当たり前のことを常にきちんと実行できる人のことを指す、と昔どこかで聞きましたが、恐らくは、いつの時代であってもどこであっても、その通りなのでしょう。

そういえば、先日マレーシア華人の友人が宿泊したTホテルですが、7月17日のブログ日記(「あるマレーシア人の東京初体験」)の後、念には念を入れてと思い、ホテルに電話をかけて、いったい震度3ごときで、23階から半狂乱になって降りてきた人が本当に実在するのかどうか、失礼を承知でお尋ねしました。

それほど深い意味はなかったのに、わざわざ電話受付嬢が「デューティーマネージャーから説明させていただきます」と申し出てくださり、数秒の後、男性の担当者が名前を名のって、5分以上もかけて丁寧に状況を説明し、安心させてくださいました。どこの馬の骨ともわからない者に対して、ここまで丁重に扱ってくださるなんて、やはり伝統的な最高級ホテルは違うなあ、さすがは、宮様の結婚披露宴が開かれただけのことはある、と感慨を新たにすると同時に、こういう点が日本の強みなんだ、と誇りに思いました。

環境こそ雲泥の差があれ、日常の心がけとして、私もそのようでありたいと願います。どこで誰が見ていて、その人がどういう人とつながりを持っているのか、こちらにはわからないわけですから…。考えてみれば、猛省しきりなのですけれども...。

ここまで書いてパソコン電源を切って停電に備えていたところ、作業の前後に工事担当者からインターフォンできちんと挨拶あり。当たり前のこととはいえ、やはり気持ちがいいですね。しかも、予定より50分ほど早く終了しました。どうもありがとうございました!

では、続きを書きましょうか。
昨日の記事について、さすがに自分でもかなり気になったので、再度、インターネットで調べてみたところ、2件、参考になるサイトが見つかりました。

1.http://www.kuis.ac.jp/icci/publications/kiyo/pdfs/16/16-04.pdf
神田外国語大学異文化コミュニケーション研究所の「2003 年度活動報告」によれば、9 月12 日から14日まで開かれた British Hillsにおける第13 回異文研夏期セミナーで、‘人間、こころ、宗教、そして日本人—宗教と日本人の関わりを訪ねる’と題する講演と対談がもたれたそうです。これは、衛星中継で全国に配信されたとのことなので、ご存じの方も多いかもしれません。講演者は山折哲雄先生(日文研所長)で、対談相手は石井米雄先生(東南アジア史・神田外大学長)でした。
【基調講演報告】から一部抜粋しますと、次のようになります。

「1. 9.11 同時多発テロブッシュ大統領の演説
ブッシュはテロの犠牲者を悼む演説で‘われわれは今死の谷を歩んで、神の御加護の下に耐え進んでいこう’ という旧約聖書ダビデ王の演説から引用した一説を用いた。国家の危機に直面し、自分を励まし、その犠牲となった家族を慰め、さらにアメリカ及び全世界に送るメッセージに旧約聖書が使われたことを、山折氏は予感していたという。また、イラク進攻に赴くアメリカの戦車隊員たちの胸のポケットにはお守りのように‘毒蛇とまむしを踏みにじり神と共に進軍しよう’ というモーゼの詩の一説が入っていたという。この場合の毒蛇・まむしとは異教徒のことであろう。」「今回のイラク進攻も含めて歴史上かつておこった戦争は、文明の衝突、宗教の対立が原因であると短絡的にいうことはできないが、その底流にはユダヤ教イスラム教・キリスト教の問題が伏流水のように存在している。西洋社会というのは、グローバリゼーションといわれるようにその社会システムを普遍的価値観として世界に広げていこうとする積極的な意志をもっている。その際に、旧約的なムチ、新約的なアメの価値観を戦略的に使いわけている。」

「2. イスラエルの旅—砂漠の150 キロと聖地エルサレム
阪神淡路大震災・オウムのサリン事件がおこった1995 年の秋、山折氏はイスラエルにゆき、イエスが伝道活動した道をたどる旅をした。イスラエル北方のナザレは、砂漠に石造りの家がぽつんぽつんとある場所であった。そこは、エルサレムまでの150 km いけどもいけども砂漠で地上に頼るべきものなど何もなかった。ガリラヤ湖ヨルダン川にいたっても周囲は砂漠であった。このような頼るべきものが地上に一切なく、はるか天上にのみ、それを求めざるを得なかった世界こそが一神教のうまれる風土である。
エルサレムにはユダヤ教徒嘆きの壁とイエスキリスト昇天伝説の聖墳墓教会、それにイスラム教の信仰の場所で聖なる大岩のドームが、すぐ近くにあり、一触即発の状態で危うい均衡を保っている。そして、すぐ近くにありながら異教徒が訪ねあうことはない。日本の四国八十八箇所などの聖地巡礼など多神教的世界における聖地巡りは常に円運動であり、一ヵ所の中心的聖地にいって帰ってくるような往復運動はしない。ユダヤ教キリスト教イスラム教信者がそれぞれの宗教をこえた聖地めぐりをするようになれば、パレスチナイスラエル問題の解決の糸口がみつかるかもしれない。しかし、山折氏の帰国直後、パレスチナ和平に貢献したとされるイスラエルのラビン首相が暗殺されたというニュースがながれた。」

以上です。一文ずつコメントを加えたくなるような内容ですが、以下の3点に限定いたします。聖書引用は、日本聖書協会新共同訳』1998年からです。

・「われわれは今死の谷を歩んで、神の御加護の下に耐え進んでいこう」というのは、「ダビデ王の演説」ではなくて、恐らくは、「ダビデの詩」という副題がついている詩編23章4節の「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。 あなたがわたしと共にいてくださる」を指していると思われます。これは、9.11発生当時、私も珍しくテレビを見ていたので、ブッシュ氏の詩編引用および同時通訳がかなり意訳したことを覚えています。緊急の場合の飛躍はやむを得ないかもしれませんが、詩編に多少なじんでいる者からすれば、(あれ?)となるのですね。事件発生以来、2年もたっているので、全国配信するような講演での聖書引用は、正確な翻訳を用いるべきではなかったのかと思います。

・それ以上に大事なのが「‘毒蛇とまむしを踏みにじり神と共に進軍しよう’ というモーゼの詩の一説」の箇所です。手持ちの小さなコンコルダンス(聖書語句索引)で調べてみたところでは、恐らく「あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり 獅子の子と大蛇を踏んで行く」という詩編91章13節が該当するのではないかと思われます。ところが、この詩編にはどこにも「モーゼの詩」など書かれていないのです。どうも山折先生、「蛇」と「まむし」がお好きなようですが、コンコルダンスを一冊お持ちになってはいかがでしょうか。あるいは、パソコンをご使用ならば、今は聖書本文検索という便利なサイトが無料で使えますけれど...。

・「エルサレムにはユダヤ教徒嘆きの壁とイエスキリスト昇天伝説の聖墳墓教会、それにイスラム教の信仰の場所で聖なる大岩のドームが、すぐ近くにあり、一触即発の状態で危うい均衡を保っている。そして、すぐ近くにありながら異教徒が訪ねあうことはない。」の箇所にも異論があります。私もこの3月上旬に、一神教の揺籃の地であるイスラエル、特にエルサレムをこの目で見ておきたいという願いが実現したので、ユダヤ教キリスト教イスラームの各聖所についてはよく覚えていますが、基本的に、あそこは各民族と各宗教が区域毎に分かれているので、何とか共存できるのではないかと思うのです。混住地区で育った人も、成長してアインディティが確立するにつれ、かえって文化混淆から離れていくことが多いように、イスラエル旅行の前後に読んだ約30冊の文献から感じました。山折先生のおっしゃる多神教巡礼の円循環というのは、よくわかりませんが、もしこの三宗教が相互に聖地巡りをしたとしたら、かえって社会混乱が起きる可能性も充分考えられます。基本的に、イスラエルパレスチナの対立は、土地の分配と民族問題が根底にあり、宗教に関しては、イスラエル側が「分離・相互不干渉」の原則を貫いているように思われます。

2.http://www.5a.biglobe.ne.jp/sunomono
次に、「すのもの」氏と称する方のサイトから、二カ所引用いたします。「リンクはご自由に」とのことですので、特に引用許可はとっていません。
「すのもの」氏は、言葉の使い方に敏感な方のようで、こまめにあれこれ、おもしろい表現や文章などを見つけては、サイト上で書き綴っていらっしゃる模様です。

(1)「2003-08-07 「国際平和シンポジウム基調講演での山折哲雄氏の聖書の引用箇所はどこ?」6日づけ朝日新聞大阪本社版。
ブッシュ大統領旧約聖書からダビデの言葉を引用して演説を締めくくった。「我々はいま死の谷を歩んでいる。神とともにこの苦しみに耐えていこう」》。これはどこの引用だろう? たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいをおそれません。あなたがわたしと共におられるからです」(詩篇 23.4, 口語訳)がすぐに思い浮かんだ。これだろうか? 前書きに「ダビデの歌」とは書いてあるが、そうは考えない人がほとんどだろう。
では、《……多国籍軍の兵士の胸ポケットに、旧約聖書のモーゼの言葉を書いた紙片があった。「神とともに獅子と毒蛇を踏みにじって前に進もう」》は? 欽定訳から grep で lion を探してみると、pavilion, rebellion, vermilion もひっかかるので " lion" でやり直し。見つかった箇所を順に見ていったところ、あなたはししと、まむしとを踏み、若いししと、へびとを足の下に踏みにじるであろう」(詩篇 91.13, 口語訳)ではないかと思われる。(イザヤ 30.6, アモス 5.19 ではあるまい。) しかし、これを「モーゼの言葉」とする根拠がわからない。その前の第 90 篇には「神の人モーセの祈り」との前書きがあり、第 91 篇には前書きがないので、この前書きが第 91 篇にもかかると解釈したものだろうか。そもそも、第 90 篇をモーセの言葉と信じている人もほとんどあるまい。」
(2)「2005-07-12「山折哲雄氏は一神教についてどれだけ理解しているのだろうか?」
《国際平和シンポジウム基調講演での山折哲雄氏の聖書の引用箇所はどこ?》でとりあげた、2003年8月6日づけ朝日新聞大阪本社版のシンポジウム報告の基調講演。
砂漠に囲まれたエルサレムで、人々は天上のかなたに唯一絶対の神を求める必要があった。豊かな自然に恵まれた日本では、森に入れば森の中で、山に入れば山の中で生命の息吹を、そして神の存在を感じることができる。そうした風土が神々への信仰と複数の宗教の共存を実現したと言える。
神はいたるところにいるのでは。詩篇 139 参照。
「複数の宗教の共存」とは何を指すのか、はっきりしない。最後の段落では《残された道はガンジーの非暴力の思想と日本的な諸宗教の共存の体制ではないか》と述べているが、複数の宗教が真の意味で共存していた、すなわち、諸宗教がお互いに干渉せずに信仰されていた時代・場所はほかにも多くあると思う。「複数の宗教の共存」ではなく「複数の宗教の混交」のつもりなのではあるまいか。
特定の宗教を念頭におき、これと混交しない宗教は排除する、という発想につながらないだろうか? 」

・まったく「すのもの」氏に同感です。これ以上の追加説明は不要なので、これにてコメント終了!

《ユーリ追記》東京大学出版会の『一神教とは何か−公共哲学からの問い』(2006年)には、「山折哲雄」氏ではなく「山我哲雄」氏が、旧約聖書について語られています。正確に言えば、前者は仏教学者、後者は聖書学者ですが、同時に、お二人とも「宗教学」をも名のっていらっしゃるところが、実に紛らわしいです。一度、お二方で対談されてみては?