ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

ドイツ語・無教会・マレーシア

ブログ日記を立ち上げてすぐ、K家から冊子が届きました。今年の1月、サラワクの教会で、素朴だけれど感動的な賛美礼拝を地元のクリスチャン達と共にした経験を、S子さんがさりげなく書いてくださったことは、私にとって単なる偶然とは感じられませんでした。農学、土壌学がご専門のS子さんなら、いずれマレーシアに来られても不思議ではないと思っていたのですが、研究準備のために来馬中、日曜日になったら簡素な土着の教会で礼拝に参加した、という何とも気取らぬ積極的な姿勢がとてもうれしいのです。

「一緒になって歌ったのですが、民族や宗教の差別と整っていない生活環境という生活苦と裏合わせにあるその素朴な楽しい賛美にとても感動しました」
‘Ich sang auch mit und die Gesänge, die der Diskriminierung zwischen Rassen und Religionen und dem hartem Leben dort entstammten, bewegten mich tief.’ 

既述のように、K家はドイツ語と日本語で冊子を書かれます。いえ、単なるバイリンガルじゃありません。英語は当然のこと、エスペラントをはじめ、ヘブライ語ギリシャ語、イタリア語、ロシア語、ソルブ語、スラブ系言語など、さまざまな言語を吸収し活用されているポリグロット一家なのです。ただし、何でも無秩序に手がけていらっしゃるのではありません。家族の中に一つの中心軸がしっかりと据えられていて、その軸にぶれがないからこそ、アイデンティティを守りつつも、広く視野が世界に及ぶのです。

その軸とは、無教会キリスト教の信仰、です。

無教会? 内村鑑三? そうです。日本が誇るべき独自のキリスト教です。

最近、私はつくづく、日本に無教会が形成されたことを大いなる恵みだと思うようになりました。学生時代は、内村鑑三の著作集を読んでも、自分が所属していた教会の方針と合わないように見える部分があり、ちょっと抵抗があったのですが、今思えば、それは本質とはまるで関係のなかったことでした。

無教会といえば、マレーシアでも公に紹介されています。2004年7月26日から8月6日までクアラルンプールで開催された世界教会協議会(WCC)信仰職制の会合で、関西学院大学神学部の神田健次先生が、無教会についてドイツ語でご紹介くださったのです。これは、非常に大きな意味があります。隠れたところで働かれるキリストの福音が、この日本でも、たとえ小さな群れであれ、無教会の形をとって種蒔きされ、現代にも確実に受け継がれているという事実について、イスラームを連邦宗教とするマレーシアで、公然と語ることができたのですから。もちろん、出席者は、マレーシアも含めた世界各国からのキリスト教代表者がほとんどでしたが…。

一部のムスリムの中には、反西欧イデオロギーとしてのイスラーム復興潮流において、キリスト教は西洋由来の宗教だという認識からか、地元のクリスチャン達にも言論上あるいは実力行使の攻撃を加えることがあるそうです。昨今のイラクパキスタンなどの教会で発生している爆破、誘拐、殺害事件などは、毎週送られてくるマレーシア版カトリック新聞でも頻繁に報道されています。

加えて、そのマレーシアにおいても、背景が異なり規模は小さくとも、類例は全くの無縁ではありません。例えばつい最近、クランタン州のオラン・アスリの新しい小さな教会堂が、突然ブルドーザーで壊されてしまいました。無認可の土地に勝手に教会を建てたから、というのが当局の理由ですが、いきなり壊す前に、なぜ話し合いをしなかったのでしょう。遡って1990年代半ば頃には、大学で選択科目ないしは必修科目とされたイスラーム文明論の講義で、キリスト教を一方的に非難論駁するムスリム講師がいるため、クリスチャン学生が困って牧師や司祭に訴えるという話を何度も聞きました。他にも大小さまざま、1980年代以降から、社会意識の高いキリスト教指導者であればあるほど、マレーシアの将来を憂える声が聞かれ、実際、アジア神学ジャーナルには、幾つかの論考も出されています。

その一方で、来日されたマレーシアの首相その他の関係者は、イスラームがいかにキリスト教圏の西洋によって歪曲され、貶められているか、ムスリムがいかに犠牲になっているかについて繰り返し演説します。恐らく、ほとんどの日本人はキリスト教徒ではないから、こうすればムスリムの苦境を理解してもらえ、味方につけることができると踏んでのことだろうと思います。また日本側も、アジア・イスラーム圏の‘親日国’との外交路線を重視するため、あまり不利になることは表に出さず、という対応をとります。それは、外交上は賢策であり、何の反論の余地もありません。しかし、だからといって、声ならぬ声を代弁せず、存在しているものをあたかも存在していないかのように黙殺して「うまくいっているモデルのムスリム国マレーシア」とのみ世論形成していてもいいのでしょうか。

イスラームの理解が大切なのは、今更言うまでもありません。ただし、その場合、ユダヤ教からの系譜上で考えることが、基本中の基本だろうと思います。その上で、各地域のイスラーム事情なりムスリム研究なりが蓄積されるのが筋だと考えます。なぜ、日本にいる外国のムスリム教授が「マレーシアのイスラームは成功している」と何度も述べる一方で、地元の非ムスリム達が「私達はイスラームムスリムを尊重はする。でも、イスラーム化が進むと非ムスリムに不公平な抑圧がかかるので、私達少数派も尊重してほしい」と不平不満の声を上げるのでしょうか。その両方を直視することが、実は必要ではないかと思うのです。