ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

『異端者と呼ばれている私』(3)

今日もJessica Stern氏の本『神の名におけるテロ』(拙訳)を読みふけっていました。それにしても、勇気と慎重さと感受性と高い知性を併せ持った稀有なタイプのユダヤアメリカ人女性だと思います。1997年には『ピースメーカー』という映画の主人公のモデルにもなったそうですが、映画をほとんど見ないために、これまで知りませんでした。(と言っていたら、主人がいつの間にかDVDを注文していました。)
無論、れっきとした学術研究者ですし、単身で危険なテロリストに会いに行くのですから、事前に外交官や学者やビジネスマンなどに会って話を聴き、資料を読み込むなど、相当の下準備をされていったようです。なので、面談の間に、相手が嘘をついたり、こちらを利用しようとしたりするのには、気づいていたとのことです(p.xxix)。
アルカイダのメンバーには話そうとは思いませんでした。怖かったからです。」(p.xxx)「睡眠がほとんどとれなかったので、質問するのに怖じ気づきました。」(p.56)「初めてパキスタンへ旅行した時、私は神経質になっていました。」(p.107)「夫は、私が怖がるべきではない時に怖がり、怖がるべき時に怖がらないと言ってはおもしろがります。」(p.112)などの率直な書き方には、非常に好感を持ちました。
ポイントは、相手(テロリスト)の立場に感情移入して世界を見ようと努めるものの、決して相手の土俵に乗らないというスタンスです(p.xxii-xxiii)。聖戦の原因を、主に孤立、屈辱、人口配分、歴史、領土に帰して分析していますが(p.ix)、面談では、自己の見解を語らず(p.xxix)、一緒に座って相手の語りたいという気持ちに沿ったそうです。また、9.11直後から、イスラームとテロの因果関係を問う風潮が蔓延した中で、三つの一神教それぞれのテロおよびテロリストを著作で平等に取り上げた点は重要な手法です。けれども、だからといって一神教そのものを責めたり、世俗的なユダヤアメリカ人として、イスラエルの在り方やユダヤ教の教えに責任を問うような軽率な態度でないところは、学ぶべきものが多いと思われます。
しかしながら、同時に、「イスラーム世界には、非常に多くの屈辱を感じている若者がいる」ことを率直に認め、「ユダヤ教徒やクリスチャンのテロリストは多くの軍兵を募りませんが、イスラミストのテロリストはそれができるのです」と、違いをはっきり述べている面にも、(BuzzFlash Inteviews 12 May 2004, (http://www.buzzflash.com/interviews/04/05/int04024.html))注目すべきではないかと私は思います。
最終ページでは、無法則で無責任と外部には思われるようなアメリカの消費主義、バラバラの集合体、自由の解釈、映画や音楽において粗野で暴力的なものを栄光に化す傾向に対して喚起を促し、グローバル化や新世界秩序は、そういった価値観を広めることを意味するのだと述べています(p.295)。もしそこでアメリカ批判に向かうなら一種の常套手段で珍しくもありませんが、Stern氏のStern氏たるゆえんは、「しかしアメリカのシステムの核になる部分は防衛し再確認する価値がある」と主張している点です(pp.295-296)。その核とは、「いかなる人間も、民族、性別、宗教を問わず比肩なしに価値があること」と「信教の自由への関与」です。とはいっても、「宗教的理由で殺人を犯す自由ではない」と記しています(p.296)。
さらに、「銃弾だけでなくテロリスト集団内やテロリストとスポンサーや同調者の間で、混乱や対決や競争を作り出すことによって、我々は応答する必要がある。」「平和を愛する実践者達によって、極端な宗教解釈を非難することを奨励すべきである。」「考慮するものは、何に対して闘うかであって、何に反対するかではない。」「精神的な恐れに順応することを避けなければならない。そして我々の諸原則に最大限堅く立つ必要がある。寛容、共感、勇気を強調することによって。」(p.296)
クリントン政権で国家安全保障の仕事に関わり、子どもを産んだことで意識が変わったというJessica Stern氏。政治的党派心はないが、イラク戦争に反対したことで分離派だと思われるようになったというJessica Stern氏。読んでいるうちに、先輩女性としても魅力的な側面を知ることができ、とても有益でした。

...と、すっかり前置きが長くなってしまったのですが、昨日の「ユーリの部屋」で書いたように、Jessica Stern氏の提言を肯定的に踏まえた上で、立場のかなり異なる、しかし、その背景からうなずけなくもない元ムスリムアメリカ人であるキリスト教改宗者の著作をご紹介いたしましょう。
異端者と呼ばれている私』(拙訳)の著者であるNonie Darwish氏と同じ年(1948年)にエジプトで生まれたDr. Michael (Amerhom) Youssefという方です。Wikipediaによれば、16歳で福音派キリスト教に改宗し、1967年の六日戦争中にレバノンに脱出して、オーストラリア大使館に保護を求め、シドニーの神学校で叙階を受け、1977年にアメリカにわたり、フラー神学校で修士号を受け、エモリー大学で社会人類学イスラーム社会学)の博士号を授与されたという経歴のようです。1984年にアメリカ市民権を得て、今はジョージア州アトランタ使徒教会を建てキリスト教の伝道をしているとのことです。
そもそも、なぜこの『アメリカ、石油 そしてイスラーム的な精神:本当の危機は我々の思考様式の間の大きな隔たりにある』(拙訳)“America, Oil & The Islamic Mind: The Real Crisis Is the Gulf Betweeen Our Ways of ThinkingZondervan Publishing House, Grand Rapids, Michigan1983/1991)を入手したのかと言えば、マレーシアの一般信徒リーダーのクリスチャンから(注:教会指導者層ではない)、メールで「これを読んでみて感想を聞かせてくれ」と勧められたからです。2004年5月上旬のことでした。その人自身は、オーストラリアで紹介されて読んだそうです。つまり、あの地域一帯のクリスチャンサークルでは、2001年の9.11同時多発テロの意味を探り、マレーシアで進行中のイスラーム復興に対処する方法を考えるために、このような本を読んでいたという一つの証拠になるのかもしれません。もっとも、私自身は特に感想を述べませんでした。鵜呑みにされたら困ると思ったのと、当時はまだ、自信を持って回答できなかったからです。

重要なのは、ムスリムをやめてキリスト教に改宗したとはいえ、「イスラームを信奉する人々を愛している」「ムスリムに対して、私が真正な愛を持ち、深く感謝していることを誤解しないでほしい」と明言している点です(p.7)。これは、Nonie Darwish氏とも共通しています。「宗教制度としてのイスラームと人としてのムスリムを区別しようと一生懸命努力した」と述べ、「私を受け入れてくれた故郷であるアメリカで、自由に物が書けることを喜んでいる」(p.7)と記しているところも、Nonie Darwish氏と全く同じです。

ホメイニ師イラン革命レバノン戦争、エジプトのナセル大統領やサダト氏暗殺、サウジアラビアの状況、イラクのクェート侵攻などの事例を淡々と簡単に記す折々に、綴られている主張は次の通りです。

・なぜ人は、イスラームに傾倒すればするほど、他宗教に対してますます不寛容になるのか。(p.12)
ムスリムは西洋の生活様式ユダヤキリスト教の倫理制度の区別ができない。(p.13)
・宗教的観点から、キリスト教イスラームは一つの根本原則について合意する。それは、神はすべての創造主であるということである。しかし、それ以上は、合意できる面がほとんどない。(p.14)
ムスリムキリスト教を第一のライバルだとみなす。なぜならば、西洋だけでなく、アフリカやアジアの各地でもキリスト教宣教師達が活動しているからである。私はムスリム一人一人を憎んではいない。多くは友達なのだ。主が命じられたように、キリストの愛によって何人をも愛する努力をしているのだ。(p.15)
・スペインでは、左翼や環境主義者達がムスリムであることをカッコいいと思っている。(p.27)
インディアナ州ムスリム学生会本部のパンフレットでは、(1)ムスリムと非ムスリムの双方に出版物を通してイスラームを広める(2)イスラーム機関を設立する(3)ムスリムに対して信仰の実際面を助ける(4)非ムスリムの間でイスラーム信仰を分かち合うよう宣伝し促進する(5)ムスリム意識の統合を奨励する、と書かれていた(p.29)。西洋でのイスラーム宣教がどれほど攻撃的かを悟っている人はほとんどいない(p.30)。
イスラームでは、金銭的な成功はアッラーの祝福の証拠として解釈する。石油はムスリムへのアッラーの贈り物である。石油によって、ムスリムが優れていることを達成できる。そしてイスラームの卓越性を証明でき、他宗教の信徒を服従させることができる。(p.41)
・非ムスリムは、イスラームの法制度では、改宗か服従か、女性、子ども、奴隷以外を除外するしかない。(p.44)
ムスリムイスラームの優越性は不信仰者を貶めることで示されると信じている。石油とお金は、屈辱と服従の手段を提供する。(pp.44-45)
・ジハードは聖戦。文字通りの意味は「苦闘/闘争」である。すべてのムスリムが、ジハードは不信仰者の血を要求することだと同意しているのではないが、イスラームの勝利のために苦闘/闘争することだというのは、すべての信心深いムスリムの生活の一要因である。(p.64)
・不信仰者と永久に平和な平等が続くことはない。イスラーム思考では、優越することが重要な要因なので、イスラームの偉大さを表現するのに唯一価値あるものは、統治支配である。(p.65)
ムスリムはクリスチャンと同じ神を礼拝していると主張する。表面的にはイスラームの神とユダヤ教キリスト教の伝統における神は似ているところがたくさんある。この明らかな合意は誤導である。(pp.71-72)
キリスト教は、その過ちやその名における非道にもかかわらず、本質的には愛と赦しと新しい命の宗教であるが、イスラームは法、服従、処罰の宗教である。(p.73)
・救いの不安定さや神への恐れがイスラームを防御的で攻撃的にさせるのだ、特に、非ムスリムの扱いにおいて。(p.81)
イスラーム思想において、愛は弱さの印である。クリスチャンは隣人を愛するように教わるが、ムスリムは隣人を裁き、非難し、除外するよう教わる。(p.82)
・典型的には、ムスリムだけが市民権を付与される市民に値するとみなされている。(p.101)

かなり長くなってしまったので、今日はこの辺で中断させていただきます。