ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

非情世界に立ち向かうために

メーリングリストより。

牧野愛博『非情世界:恐るべき情報戦争の裏側


笑顔のウラで熱心に諜報活動をする世界。相手が隠しておきたい情報を、手段を選ばずに徹底的に探り、ときには盗み取る。



・敵対する国については言うに及ばず、ふだんは首脳同士が笑顔で握手を交わす同盟国や友好国にも盗聴や通信の傍受を仕掛ける。



・「盗聴は行われている」というのが世界の情報マンの共通認識だ。道徳や倫理を持ち出す世界ではない



・英国ではシニカルな意味で、「インテリジェンスは紳士の仕事だ」と言うのだそうだ。やられる方が悪いと割り切って自衛するしかない。



・最終的には、人間とはどういうものなのか、という問題につながる。誰にでも本音と建前がある。国家もそうだ。インテリジェンスは相手の本音を探る作業だ。友好と情報収集の作業は、平然と両立させることができる。



・秘密を扱う人間は、いつか必ず話したくなる。今日や明日は無名でも良いが、いつかは評価を受けたいと考えたくなるものだ。



・情報を扱う人間は、情報の重圧で道を外れることがある。



・日本も国際情報に限った「対外情報庁」をゼロからつくるべきだ。米国との情報技術の差は、大学と幼稚園くらいの開きがある。



・優秀な人材を育て、「地域主義の情報」を目指すべきだ。北東アジアなら日本は米国に負けない情報収集や分析ができる。それができて初めて、ギブアンドテイクの形で米国から有用な情報を得られる立場になる。



アメリカは、英国、オーストラリア、カナダ、ニュージーランドとともに「エシュロン」と呼ばれる盗聴・傍受システムを運用している。米国以外の4カ国は英連邦に属し、機密情報の共同収集や共有が可能な信頼関係があるとされる。

(部分抜粋引用終)

国際派日本人の情報ファイル
No.2774 H30.4.18 7,946部
「依りすがる人」と「引受る者」


(伊勢雅臣)経済においても、防衛においても「引受る者」がいなければ、国は成り立ちません。「諭吉の啓蒙は武士的な精神をもつ国民たれと教へたのである」「『四民平等』は・・・強く高いところで平等にならうとしたのだった」とは、心に残る一節です。



・「一身独立して一国独立する事」とは、福澤諭吉の『学問のすすめ』の一節である。一国が独立するには国民一人一人が独立せねばならない。その独立とは何か。
諭吉は「独立とは自分にて自分の身を支配し他に依りすがる心なきを云ふ」と述べ、「人々この独立の心なくして唯他人の力に依りすがらんとのみせば、全国の人は皆依りすがるの人のみにて、これを引受る者はなかるべし」といふ。



・親から仕事を言ひつかり、家庭の中での役割をもつ。さらに職を得て社会に出る、結婚して家庭をもつ。それは、職務を引受け、子供の養育や新しい親への孝養を引受けることでもある。就職や結婚といふ慶事のよろこびの反面には新たな責任を負ふ緊張がある。かうして自身の責めや務めを引受ける人がゐることで、世の中は世の中として成り立ってゐる



・日本の経済を支へてきたのもさうした人々の地道な努力によるものだった。



円高と中国など低賃金後発国との厳しい競争に晒される中で、生産現場では、(教授の言葉を借りれば)“ジタバタと”生産性の向上などに苦闘したのである。さういふ現場の多くは生き残り、依然として日本経済の足腰となってゐる。



・「外国に対して我国を守らんには、自由独立の気風を全国に充満せしめ、国中の人々貴賤上下の別なく、其国を自分の身の上に引受け、智者も愚者も、目くらも目あきも、各其国人たるの分を尽さざるべからず。」



・「国を自分の身の上に引受ける」といふ言葉は激しいが、逆に我が国では長い間、国を自分で引受けるのではなく、自分を国で引受けてくれと依りすがってきた。福祉政策の行き過ぎである。



・理由の一つは倫理的なものであった。私人間で慈善的な救助を受けるのであれば、そこに恩を感じ、或いは身の恥を思ふといふことが起きるが、社会保障の場合は、負担する国民と享受する国民の間に国家権力が介在するためにさうした恩や恥も感じない家族内の自発的扶養も後退する。その結果「自己責任の意識や家族の連帯感隣人愛というごとき健康な自由社会の根底を破壊するという心配」を示された。今や社会保障にどっぷりとつかり、その副作用は財政の巨額赤字としても顕現した。



・国民が依りすがってゐるのは国防問題である。目下の日本は諭吉の時代と同様、泰平の時が過ぎ、周辺国が牙をとぐ現在である。しかもその当の日本で根強い論調は、故意に危機から目を閉ざすか、或いは「独立の心なくして唯他人(国際社会?)の力に依りすがらん」ともいふべきもののやうだ。



戦後占領憲法の呪縛といへようか。さうした日本を「引受けよう」としてじっと機会を窺ってゐるのは実は中国ではないか。この状況に目を見開いて、我が国の存立を我々国民が引受けていく、その大事な一歩が憲法九条の改正(本来は自主憲法の制定)である。



・諭吉の啓蒙は武士的な精神をもつ国民たれと教へたのである。明治といふ時代が偉いのは、実際にその武士的気風が国民各層に広がったところにある。「四民平等」は皆が弱く低いところで平等になったのではなく、強く高いところで平等にならうとしたのだった。

(部分抜粋引用終)