ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

読書メモというもの

最近のメーリングリストから。

細谷雄一大英帝国の外交官』の要旨


・戦後間もない時期に首相を務めた吉田茂は『回想十年』と題する回想録の冒頭に、アメリカ人のハウス大佐が語った言葉を引用して、「ディプロマチック・センスのない国民は、必ず凋落する」と記している。


・「ディプロマチック・センス」とは、吉田にいわせれば、「外交的感覚」であり、「国際的な勘」であった。それは、海図のない国際政治の舞台で、いかにして自らの国益を定義して、いかにして自国の安全と国益を守り、国家の進路を展望するかということである。


・「イギリスほど自国の事情を外に漏らさず、他国のそれに几帳面に精通している国は、地球上に存在しない」(16世紀のベネツィアの外交官)


・イギリスの強さはむしろ、その国民を基礎とした外交の技術と制度、そしてそれを支える考え方にある。世界中に張り巡らされたイギリスの外交体制は、世界のあらゆる情報を精確に吸収して、鮮やかに分析している。それにより、イギリスは国際社会で何が起こっているかを把握していた。


・単にイギリス外交官の仕事によっているというだけではない。世界中に浸透する諜報活動、すなわちスパイのネットワーク、植民地における軍人や植民地官僚、あるいは現在でいえば紛争地帯における国際平和維持活動に従事する人々や国連などでの国際公務員、そして国際ビジネスで世界を動いている経済人などがいる。さらにはBBCに見られるような高い水準のジャーナリズムなど多様な人々がイギリスの世界的な活動を陰に陽に支えている。そして同時に多様な情報を本国に流している。


・外交の力の本質は何か。「対外政策とは、何か偉大なものであるとか、大きな存在であるということはないのだ。それは自分自身の問題にも関係するような、あるいはあなた自身の問題にも関係しているような良識(コモンセンス)や人間性の上に成り立っているのだ」(20世紀イギリスの最も偉大な外務大臣といわれたアーネスト・ベヴィン)


・アーネスト・ベヴィンは外相就任以前は、そもそも外交の仕事をしたことがなく、政治家として豊富な外交経験を持っていたわけでもなかった。それにもかかわらず、ベヴィンは外相として歴史に名を残す功績と、外務省の官僚たちの間に溢れるほどの称賛と愛慕を生み出した。まさに「良識」と優れた「人間性とにしっかりと支えられた外交であったと評価できる。


アーネスト・サトウは、外交を次のように定義している。「外交とは、独立国家の政府間の公式関係における知性と機転の応用」であり、「軍事力のみにより国際関係が支配されることを防ぐための、文明により考案された最善の方法」である。


・19世紀末に長期にわたり外相を務めたソールズベリ卿は、同様の趣旨について次のように論じる。「外交官の成功には、ドラマチックなことは何もないのだ」。それは「自国においての思慮深い判断力、他国においての適切な礼儀正しさ」、また「あるときには賢明なる妥協、そしてあるときには先見の明のある粘り強さ」であって、「油断なき機転、不動の平静さ、さらには愚行にも挑発にも不手際にも、動じることのない忍耐」なのである。


・ソールズベリの言葉の中に、イギリスの求める理想の外交官像が凝縮されているように思える。外交には魔法などはない。あるのは人間の良識であり、知性であり、判断力であり、そして礼儀正しさである。それは人間の社会の反映でもある。


・政策決定に関与している政治家や官僚は、かつてないほど多忙になったゆえか、研究者が記す文章を読まなくなりつつあるように思う。イギリスの外交官たちのように、歴史書や文芸書を読むことを愛して、自らがそのような歴史書や文芸書を執筆するという、時間的および精神的な余裕など思いもよらないことかもしれない。


・外交に人間的な魅力は不可欠である。それは、人間と人間の交際であるがゆえに、人間の品格、知性、教養が存分に試される機会でもあるのだ。ハロルド・ニコルソンが「旧外交」の伝統を擁護し、外交理論を発展させる上で訴えたかったことは、そのような失われた時代の、失われた「外交官」の理想像であったのかもしれない。


・イギリス人の外交官が国際舞台で見事な交渉能力を発揮する背景として、パブリック・スクールでの独特な教育と訓練があったのである。そこでは柔軟性、修辞能力、ユーモア、機転などが磨かれる。それは間違いなく、イギリス外交の資産であった。


・人間が外交を行うということが当然であるとすれば、外交を行うためには人間を理解せねばならない。ヒューマニティの学問が、外交官になるために必要だろうか。英国外交官が、学問に深い造詣を持ち、そして自らがざまざまな著書を書いている。本を書くことが重要なのではない。そのために柔軟な思考と発想を維持して、常に視野を広げ人間性に対しての感受性を豊かにしておくことが重要なのだ。

(引用終)
アーネスト・サトウ」については、過去ブログを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150524)。
「ハロルド・ニコルソン」については、過去ブログを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110407)。

秋月瑛二氏が(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%BD%A9%B7%EE%B1%CD%C6%F3)、またもやおもしろいことを書いていらした。

http://akizukieiji.blog.jp/archives/1071889935.html


・読書メモとしてでも残していこうかと思って1800回以上の投稿になった
・ブログ・サイトというのは自分が感じまたは考えたことを時期とともに記録し、検索可能なほどにうまく整理してくれる便利なトゥールだ。
J・J・ルソーの<人間不平等起源論>を邦訳書で読み終えて、この人には、自分を評価しない(=冷遇した)ジュネーブ知識人界(・社交界?)への意趣返し、それへの反発・鬱憤があるのではないか、とふと感じたことがあった。ついでに思い出すと、読んだ邦訳書の訳者か解説者だった「東京大学名誉教授」は、その本の末尾に、「自然に帰れ!」と書いたらしいルソーに着目して、ルソーは自然保護・環境保護運動の始祖かもしれない旨を記していた。「アホ」が極まる(たぶんフランス文学者)
・A・自分が帰属する組織(新聞社等)の仕事としてか、またはB・フリーの執筆者として(対価を得て)、「知的」文章書き等をしているのだろう。
・名誉又は顕名、要するに<名前を売って目立つ>ためには同業他者と比べて自分を<差別化>しなければならない。あるいは<角をつける>必要がある
・a文筆が完全に「職業・生業」であるフリーの人と、b別に大学・研究所等に所属していて決まった報酬等を得ているが、随時に新聞・雑誌等に「知的」作業またはその結果を発表している人とでは、分けて考える必要がおそらくあるだろう。
・a文筆が完全に「職業・生業」の人にとっては、原稿等発表の場を得るか、それがどう評価されるかは直接に「生活」にかかわる。なお、おそらく節税対策だろう、この中に含まれる人であっても「−研究所」とかの自分を代表とする法人を作っている場合もある。櫻井よしこ江崎道朗武田徹中島岳志の名前が浮かんできた。

(引用終)
「ルソー」については、過去ブログを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20110830)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150409)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151202)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170920)。
櫻井よしこ」氏については、こちらを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%DD%AF%B0%E6%A4%E8%A4%B7%A4%B3)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%DD%AF%B0%E6%A4%E8%A4%B7%A4%B3)。
「江崎道朗」氏については、こちらを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%B9%BE%BA%EA%C6%BB%CF%AF)。
中島岳志」氏については、過去ブログを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121117)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171021)。