ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

眞子さんの海蛇物語

...だって、今回もハンガリーまで、わざわざ親子で国宝豚を見に行った(か食べに行った)んでしょう?
湿度が高過ぎるので疲れやすいのだが、考えてみれば、本州の子ども達はまだ夏休み中なのであった。そろそろ、宿題の追い込み体制か?
そこで、自分に課した「夏休みの自由研究」がてら、積み上げた本を一生懸命に読んでみると、これがなかなか興味深く、楽しい読書。
この度の秋篠宮眞子内親王のご慶事をきっかけに(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170821)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170822)、ようやく国民の皆様方が目覚めて、25年前の日本社会の一般常識や良識に戻ってくださったらいいなぁ....(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170805)。どうも世代交替してしまい、私と同世代の秋篠宮ご夫妻が学生時代にどのように振る舞っていらしたか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170816)を知らない人達が、勝手に興奮してネット上で盛り上がっている気運もあるらしく...。
言論の自由表現の自由とはいえ、「そういうご自分はどうなんですか」とも問いたい。
だって、これが我々の国史の一ページになるんですよ!
こんな隙だらけの日本なんて、海外から見たら安っぽいお笑い番組にもならない。
今後が大変ですぞ、皆様。もう三等国に入りかけている。ゴールは間近。
一刻一刻、一瞬一瞬、一人一人の選択と言動が、その意味で厳粛なのだ。何事もやり直しがきかない、偶有性と唯一性。
さて。
昨夕の楽しい読み物は、長与善郎(著)『わが心の遍歴筑摩書房昭和35年)定価380円(古本として80円)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170815)。
一ヶ月ほど前に96歳で老衰のために逝去された犬養道子氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170727)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170812)の母方の親戚筋に当たる方だ。
犬養道子氏の著作を集中して読んでいた学生時代には(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090317)、あまりに華麗な血筋に、身の縮むような恐縮した気分だったが、落ち着いて考えてみれば、そういうことを知っておくことこそ、日本の近現代史そして現在を理解することにつながるのだ。
今はインターネットで手軽に情報が手に入ると思っている軽々しい頭の人は、「あ、反日リベラル左派!」等とレッテルを貼って気勢を上げているようだが、馬鹿馬鹿し過ぎて、相手になんてしていられない。
物事は両面を見る必要があり、どちらの道を選ぶにせよ、反対側もよく検討する作業が必須。そして、その総体こそが日本の近現代史なのである。
東宮家のことも心配している私だが、アンチでもプロでもない平凡な一国民として、自分にも降りかかる事項として、ここは一つ、別の角度から示唆を得たい。
「わるい時機の訪英」という章がある。その中で非常に印象的だった箇所を抜粋してみたい。

六時とかに時間を打ち合せて出かけ、久しぶり小泉君夫妻とこの異郷で会えたことは嬉しかったが、そのグロヴナー・ハウスというホテルは流石英国風な格式ある感じのする古い館であったが、二階の座敷らしい部屋へ通って見ると、そこの正面に皇太子自身がちゃんと椅子に掛けておられたのに一寸驚いた。皇太子の御宿泊所は別の、もっと立派な迎賓館のような所と想像していたからだった。


それで先ず初対面の御挨拶に名を名乗ってお辞儀をすると、ただ無言の会釈を返えされただけだったので、こっちも何一と言もいわず、すぐ退った。(中略)一番父母の恋しい幼時にその御両親から一人隔離されて淋しく育った皇太子ももう二十歳だという。それで「ご苦労だった」位のいたわりの一語をかけられる位には常識も働き、民主々義であって頂きたい。少し威厳を保つことにこだわっていられすぎるのではないかと実は思ったのであったが、後に信吉からあの時の殿下は可哀相だったとその無理からぬ当時の事情を説明され、そうだったかと同情したのだったが、それから六年近くたった今日では小泉君の辛棒強い努力の甲斐もあってか、ずっと成長されたらしいのはもちろんであろうが、(以下略)(pp.340-341)

敗戦後、「民主化」「新生日本」の掛け声の下、新たな日本国憲法によって、封建的な因習を払拭すべく、ガラッと価値観を変えて改革を施した結果が、これなのだ。これによって、下剋上よろしく得をした人々も当然いただろうが、家柄が高かったために損をした階層もあったはずだ。皇太子(今上陛下)の戸惑いも頷けるところである。
私は、この箇所を読んだ時、藤島泰輔孤獨の人三笠書房1956年)を思い出した(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160901)。献辞には「皇太子殿下に捧ぐ」とある。
三島由紀夫が序を書いているが、非常に含蓄に富む、鋭い指摘が含まれている。

「皇太子は、傳統の象徴であり、また流行の中心でもある。この『孤獨の人』は、存在論的孤獨の人なのではなく、ただ制度によつて孤獨なのであるが、孤獨といふことの深く人間的な側面と、制度の非人間性とが、尖鋭な對照をなして、この少年を不幸にしてゐる。そして二つの側面は、互に他を反映しつつ、他をめてゐるのであるから、この少年の孤獨をただ人間的に救済するといふ企ては、はじめから矛盾を含んでゐる。」(p.4)

(ユーリ注:原文の「強」は「弓偏」に「口」「虫」)

「先生いぢめの殘酷で暴力的なこと、中等科から入つてきた學生に對する排他的意識、かういふところは昔のままであるが、ひつめられた貴族の必死の悲愴な特權意識は、戰前には見られなかつた。」(p.5)

(ユーリ注:原文の「追」は「辶」)

−何しろ、皇太子殿下のおられる級ですからお子さんの言語、態度、健康その他充分注意して下さるように。(p.31)

一國の象徴となるべき少年と京極伯爵となるべきだつた少年の對話。(p.32)

誰も殿下を、あいつを本當に愛してやろうとしないんだ。勢力爭いの道具、虚榮の道具、それなんだ。結果は、それ、道具でしかないんだ。誰も愛國心なぞ持つてもいないくせに、そうして、天皇制への疑問を持つているくせに、わからない、そう、わからないつてのは便利な口の利き方だ。ふざけてやがる、全く。(p.47)

俺は自由な意志を持つて生きる權利を持つているんだ。まき添えを喰うのはいやなんだ。千谷、全く意志のない人間のレゾンデエトルを考えたことあるか?精藭的不具に無理矢理仕立てられて行く一人の人間を貴樣は傍でじつと眺めていることができるか?(p.48)

みんなだ。日本國中、みんなだ。右も左も、持ち上げようとするにしろ、叩き潰そうとするにしろ。みんななんだ。罪の意識もなしにね。(p.50)

それに間接的にジャアナリズムがそうなんだ。あの連中のつける見出し《人間皇太子》….人間ていうのはああいうものじやないということを百も承知の癖に….自分達が追いかけまわして臺なしにしちまつているんだ。誰もちつとも本氣になつてやらないんだ。誰も愛してやしないんだ。(p.50)

端的に表現された平等觀がどれほど宮に喜悦をもたらしているかを知つた。(p.65)

−私は反戰論者だった。はじめから敗けることを知つていた。私は随分大膽に反戰論をぶつた。特高が月に何度も家に來た。それはお前も知つているだろう。(p.113)

−私は根つからの反戰論者で、戰爭中は軍部のお先棒をかつぎ、敗戰と同時に自由主義者に鞍がえをした節操のない連中と區別をして貰いたいからそう言つてるのだ。(p.113)

−お前は惠まれた生活をしていると思つたことはないのか。これだけの家にすみ、女中が何もかもしてくれ、立派な學校に通つていて、それでもあの女の處に行かなきやならないのか。(p.118)

言つてやろうか….見榮さ。「家の子供は學習院です」「皇太子と一緒でね」それが言いたかつたんだ。(p.119)
…あの人は個性というか、人間性というか、そういう人間の大事なものを抑えつけられている。俺は心からそれを氣の毒に思つている。(p.135)

あの人が八千萬人に一人という確率で不幸を背負つて生れて來たということを仕方のないことだと考えている。理論的に不必要であつても、今の日本人としては、感情的に必要な人なんだ。そのためには、彼は八千萬人に一人という犠牲者であつても、犠牲者であることを認識して諦めるべきだと思うんだ。(p.135)

俺は殿下とともにいるつもりだ。そうして彼が存在する以上、彼の地位が故意に攻撃されたりすることのないようにしたいんだ。(p.136)

貴樣は、やはりあの人の孤獨の恐怖を甘く見ているんだ。(p.136)

俺は社會主義者でも共産薹員でもないぞ。彼等ばかりが天皇制を否定するんじやないんだ。コミュニストじやなきや天皇制を否定できないということはないんだ。(p.136)

俺達は殿下をいまの状態なりに人間性の解放に持つて行くようにするんだ。(p.138)

宮の異常なまでに表現された寂しさの表情だった。(p.158)

それは、宮や、彼の一族が常に味わう感じに違いなかつた。《壁》なんだと岩瀬は思つた。抽象、具象のすべての意味を含んだ《壁》だつた。(p.205)

隣室に入つて行く宮の後姿が、吉彦の目を捉えた。片一方の肩の下つた、英國製らしい仕立のいい洋服の背中は、吉彦にぞつとするものを感じさせた。その後姿は滿十八歳の誕生日を迎えた青年のそれではないのだ。それは全く、老いを強制され、老いに陥つた人の後姿だつた。あの人には、第一樂章も、第二樂章もない。あるのは《第四樂章》だけだ。しかもその第四樂章が永遠につづくのだ、と思つた。(p.247)

宮はときどき食後のざわめきの群から離れて熱帶魚を覗き込んでいた。(p.247)

宮と熱帶魚のみの對峙する部屋は無殘なものに感じられた。(pp.247-248)

しかし宮の想像する光の灯つた家並は理想觶かも知れないのだ。
−誰の罪だというんだ。いつたい、誰の罪なのだ。(p.248)

(部分抜粋引用終)
(ユーリ注:一部に旧字体がパソコン表記できなかった箇所がある。)


要するに、敗戦に伴う、国民の心理的逆転と、憲法上の構造的矛盾と、その他諸々が渾然一体となって、今日まで来てしまったという….。
実は私、1990年代初期に天皇皇后両陛下にお目にかかっている。しかも、美智子皇后陛下から直接、おみ足を留めていただいて、お声を掛けていただいたのだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091112)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120311)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131223)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161101)。
その御訪問に関しては、ビデオに録画されているし、2000年代初期に、かの『朝日新聞』の「声」欄にも投書したので、記録として残っている。
ネット上で苦情や不満を述べている人々の気持ちはよくわかるが、同時に我々が考えなければならないことは、一般国民の相矛盾した精神状況である。
人は憲法の下に皆が平等であるべきだと社会志向し、性差別や出自や職業等による格差に対しては声高に異議申し立てをし、少なくとも建前上は非難し、政策としてその是正に努めようと求める。その一方で、天皇陛下をはじめとする皇族全体には、お手本としてあくまで品位と格式の高さを維持するよう、言動と精神の不自由さを求めているのだ。
もっと穏やかに表現すると、国民はある面、皇室に対して、自らが果たせぬ永遠の夢を持ちたい、のだ。
だからこそ、海辺で「お父さまぁ〜。うみへびがいるよねぇ〜」と無邪気に叫んでいた幼い眞子さんが、ご両親の望んだ名前の如く、天性を歪めず、あるがまま、すくすくと育ったのに、お年頃になってお相手が出現した途端、国民の税金で養ってきたのだとばかりに(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170728)、罵倒したり落胆したりしながら、まるで近親者のように自分達の好みに合う勝手な理想像を押し付けて、騒いでいる。

安全が確保され、一分一秒が事前に綿密に計画された公の儀式で、上等のスーツや民族衣装を着て、きれいにお化粧を施したお手振り等、数分の映像が流れてくるのみである以上、成人された眞子さんが、実際のところ、どのような人柄で、普段、何を考えて大学に通っていらしたのか、私には全くわからない。但し、ICUには二度訪問したことがあり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091126)、図書館も学生食堂も利用したので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090909)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101024)、調べようと思えば、どのカリキュラムの下で、どのような教授陣から、どのような学生達と一緒に教育されたかもわかることだろう。
ともかく、眞子さんは眞子さんなりに考えて、ご両親にも紹介した上で、公務と学業の傍ら、この五年間を過ごして来られたのだろう。相手の素性を調べた上かどうかはわからないが、「できるだけ早く結婚した方がいい」と、秋篠宮殿下も会見で述べていたと記憶する。

それならば、国民のできることは最初から何もない。ただ、熱を冷まして、現状および現実をあるがままに見つめ直し、幻想を払拭することができるだけである。