ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

こんなはずでは....

もしこの病でなかったら、全然違った人生展開であったことは、まず間違いない。
...と、主人がいつも言っている。
例えば、日々の暮らし次元では「ユーリを乗せた車を運転して、買い物やドライブに行くのが当たり前だっただろう」「山へ行って、スキーを教えてあげただろう」というのが主人の言であり、私の方は「マレーシアとシンガポールへ一緒に旅行して、かつての私の歩みを辿っただろう」「子どもも二人か三人はいただろう」と応じている。

どうしようもないことを考えても仕方がないのだが、個人の努力だけではない、世相の流れもある。
だが、若い時に立てた目標を一筋に達成していくことこそが、本当に「成功した人生」と呼べるのか?
「育てたように子は育つ」と鼻息の荒い女性達がいるが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171009)、そんなに思い通りに家の中を動かしているのか?「子は親の鏡」というが、「親はなくとも子は育つ」とも言わないか?
「結果を出す」という表現が流行しているが、何をどのように「出す」のかが問題。長期目標と短期目標があり、それほど簡単に「結果」が達成できるかどうかは、わからない。また、可視化目標と不可視化目標があり、目に見える「結果」ばかりを取り沙汰するのもどうなのか?

PS:ふと、妙なことを思い出した。中学一年生の頃、近所に住んでいた同じ学年の女の子に、「ユーリちゃんって、ゴミみたいな存在だね」と突然言われたのである。
家の中では慣れていたために神経が麻痺していたのだろうが、言われていたことの意味がわからなかったので、「ゴミみたいな存在って?」と聞き直した。すると、道でローラースケートをしながら、「ゴミはゴミじゃん。役立つこともなく、要らないっていうこと」と、平然と答えたのである。
腹が立つどころか、(家の中だけでなく、友達からもそう思われているんだ)と潜在意識に深く染み込んだ感覚だけは、今も覚えている。
いつでもゴミのように捨てられる存在だということを念頭に、あまり期待せず、人様に迷惑をかけないように気をつけて、静かに生きていくことが重要だ、という貴重な教訓を得た。
外国語を幾つか勉強したり、本を読むことが好きなのは、その間は自分一人の静かな時間なので、他の人々の迷惑にならないだろうという意味もある。また、外国語や本を通して、ゴミのような自分にも、さまざまな人生や考え方を知るチャンスができる。
ゴミはゴミなりに、ゴミの分際に応じて、生きる術を見つけることだ、という教訓も得た。
しかしながら、今の私には、思いがけず役割が与えられている。家事をして、主人の支えになることだ。そうすれば、主人の母は喜んでくれる。つまり、自分以外の人に対して、少なくとも私には存在する意味がある。
何らかの役に立つ人間になるよう努めなければならない。自己実現とか、誰かを出し抜くというような考えではなく、どなたかが喜んでくださるような公的な務めを果たさなければならない。
ゴミの独り言でした。