故相馬信夫司教の「神学」
過去ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170516)の後半部の続きを少し。
相馬信夫/アンセルモ・マタイス/酒井新二(共著)『座談会 日本にとって解放の神学とは:現代から未来への提言』中央出版社/聖パウロ会八王子修学院(印刷)(昭和61年)を読み、どこに引っかかりを覚えたかを部分抜粋する。
・マタイス発言:聖書というものは、貧しい人々のために書かれた(p.20)
← ユーリ:「貧しい」とは、経済面だけで言及していないか?霊性面、精神面、心理的側面はどうか?では、ユダヤ教徒は、果たして聖書をどのように位置づけているのか?
・酒井発言:すべては実践から生まれるということも、ちょうど中国で「実践は真理を検証する唯一の基準」ということが言われたことを思い出させます。実践主義の過剰には、いささか疑問をもちます。(p.34)
← ユーリ:ジャーナリストだった故酒井新二氏は、緒方貞子氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%BD%EF%CA%FD%C4%E7%BB%D2)の長年のカトリック友人だが、難民問題で奮闘されていた緒方氏の「現場主義」にも、やや苦言を呈するなど、同信の友として、正面から議論されていたようである。本書中、マタイス発言や相馬発言に対しても、忌憚なく異論を出されている。このような側面にも目を向けたい。
・マタイス発言:「時のしるし」という言葉ですが、ヨハネ二十三世のとらえている、「時のしるし」とは、第一に女性の社会進出、第二に労働者の人権闘争、第三に第三世界の貧しい人々の立ち上がりをとらえているわけですが、(中略)ヨハネ二十三世はそれをひと言で言うと解放運動というか、いわゆる女性の解放、労働者の解放、第三世界の貧しい人々の解放と言いかえてもいいのではないかと思いますが、そういう解放運動の戦闘に立っている教会のイメージをつくり出したのではないかと思います。(p.40)
← ユーリ:ヨハネ二十三世については、イタリアの小村の出身で、貴族階層の前教皇とは対照的な出自だったと聞いている。だが、発言その他をまだ充分に私は研究していない。第二バチカン公会議の成果ばかりが華々しく日本に導入されたので、それ以前がまるで負のように語られていたことを覚えている。
・酒井発言:それを強調しすぎることは、ある種の「解放の神学」の行きすぎだと思います。神学の多様性を肯定することと白人の神学、黒人の神学といった人種主義的神学の主張とは別だと思います。(中略)それを解放の神学というレベルだけでカバーしようとするところに、どうしても私は違和感をもたざるをえません。(p.47)
← ユーリ:酒井氏に同意。
・相馬発言:私はフィリピンとか韓国のような抑圧されている不正な社会の原因に日本、あるいは先進国がかかわっているという問題があると思います。(p.64)
← ユーリ:どのように関わっているのかが問題。フィリピンにはフィリピンの、韓国には韓国の問題があり、それぞれ民族性や歴史も政治形態も異なるので、なぜ一律に日本のせいにされなければならないのか不明である。
・相馬発言:たとえば駅や公園にいる宿のない人たち、在日韓国人や被差別部落の人たちを見ると、ほんとうにここはフィリピンじゃないかと思うことがある。(p.65)
← ユーリ:故相馬司教の思考回路の問題点が、徐々に明らかになってきた。在日韓国人の歴史や、なぜ日本に韓国人が在住しているのかという背景理由が無視されていること、被差別部落の人達の淵源は何かが語られていないこと、在日韓国人と被差別部落の人々を一括りにしてフィリピン扱いしていること、これらは、どちらにとっても、それぞれに失礼な対応であり、司教の立場でそのような大雑把な発言を堂々とされていたということに、改めて仰天させられる。
・酒井発言:相馬司教がおっしゃったように、資本主義的国々の繁栄は(ママ)、五分の四の第三世界の犠牲者の上に成り立っているんだと割りきってしまえば、これは一つの解答になる。しかし、おそらく現実は、そんな単純なものではなく、いわゆる南北問題というものは非常に複雑であって、日本がアジアを必要としているがアジアは日本を必要としていないというふうに割り切れるものでもないと思うのです。(p.68)
← ユーリ:再度、酒井氏に同意。
・相馬発言:実は、私がラッツィンガー枢機卿に言いたいのは、彼の中にアメリカ合衆国の政策に対する批判がひと言もないでしょ。それは不公平だと言いたいですね。
酒井発言:だけど国際政治の中に入っていくのはむずかしいんじゃないでしょうか。(p.94)
← ユーリ:再三、酒井氏に同意。
・相馬発言:たとえば最近の指紋押捺拒否に対する教会の支援運動などもそうですね(p.96)
← ユーリ:「指紋押捺」に関しては、6年前の今頃、某キリスト教系私立大学の図書館で1980年代から90年代初め頃の古い文献を調べていた頃、主流派だというプロテスタント組織でも同じことを指摘していたことを知った(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170511)。ところが、今を遡ること20年以上も前に某国立大学で教えていた頃、ロシアからの女子留学生に、「日本で外国人が指紋を採られることに抵抗する話がありますが、どう思いますか」と尋ねたところ、「それは必要な処置で、ロシアでもあります。外国人は何をするかわからないから、個人の特定のためには必要です」ときっぱり返答したことも併せて思い出す。それに、今では日本各地の銀行のATMで、個人預金の保護の名目で、機械で指紋確認をするではないか。アメリカでも、入国の際に指紋を採られたが、何ら不快感はなかった。ある面、途上国の方が厳しかったことも想起する。
問題は、「教会の支援運動」の内実である。人々が教会に行くのは、果たしてそのような運動を支持するためなのか?以下、検索で知ったホームページからの抜粋を参考までに。
(http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuunanadai)
指紋押捺拒否運動
・1980年代に在日朝鮮人で外国人登録証の指紋押捺を拒否する運動が盛んとなった。指紋押捺は外国人登録法第14条に明記されている義務であり、拒否者には逮捕者が出るなどの緊張した状況になったものだった。この問題は1990年5月の盧泰愚大統領の訪日の際に取り上げられて外交問題にまで発展し、最終的に1991年1月の海部首相訪韓時に調印された日韓覚書で2年以内の指紋廃止が決定し、拒否運動も終息した。そしてこの1月より指紋廃止は施行された。
・在日朝鮮人は1947年5月に外国人登録されることになったが、当初より外国人登録証の偽造・売買が多かった、韓国からの密入国が多かった、北朝鮮からの工作員潜入があった、という3点の状況から本人確認の一番確実な指紋が必要となり、1952年に指紋制度が実施され、現在に至っているというのが彼の主張である。
・在日朝鮮人同士の婚約で相手の親に紹介する際に居合わせた人に聞いたが、ちゃんとした人かどうか調べたいからと、その親が相手の登録証をじっくり見たという。これは密入国者かどうか調べるためである。
・指紋拒否運動側は、これに対してどう反論できるのか。二つしかない。一つは北朝鮮の工作員潜入はあり得ないことで、日本や韓国の公安当局が捏造したデッチ上げだとするか、もう一つは工作員潜入が事実だとしてもそれは大した問題ではなく、工作員の数は在日朝鮮人68万人に比べてごくわずかで、少数の工作員摘発のために圧倒的多数の指紋をとることは許されないとするか、どちらかである。
・その時は南朝鮮はアメリカや日本の収奪と朴正熙大統領の圧政のために民衆は苦しんでいるが、いずれ民衆は立ち上がり、朴政権を打倒して人民政権を樹立し、朝鮮は統一される、という総連の考えを素直に単純に信じたものだ。
・現代の世界は資本主義の最終段階の帝国主義から社会主義に向かっている、南ベトナムが解放されて北ベトナムと統一されたのと同様に、日・米帝国主義の植民地ともいえる南朝鮮もまさにそういった歴史を歩もうとしている、と思ったものだ。だから社会主義国の北朝鮮から南朝鮮、日本に工作員を潜入させるのは、南朝鮮や日本にとって不法であろうが、歴史の必然の流れの中では、統一や革命のためなら許されるのだ、と思ったものだった。
・今は拉致事件で金正日自身が工作員の存在を認めたので、このような文章を発表しても大丈夫ですが、当時はかなり勇気が要ったものです。何しろ総連ははるかに元気だったし、指紋押捺拒否に取り組む市民運動も激しかった時代です。しかし小さなミニコミ誌でしたから、ハナから無視されたようです。
・ところで現在もなお北朝鮮工作員とその補助要員は数百人が潜入しているだろうとされています。また今の日本は中国等からの密入国者の増加や外国人犯罪の急増で治安の悪化が心配されています。これらのことを考えると、あの時に外国人登録証の指紋押捺制度を撤廃したのは失政・失策だったのではないか、と思います。
(部分抜粋引用終)
このブログ主の方は、本日付でも文章を掲載されている。よく調べていらしたので、引用させていただいた。「撤廃したのは失政・失策」だったのでは、というご指摘に同意する。
冒頭の本書の三名は、既に故人である。相馬司教(1997年10月逝去)、マタイス上智大学副学長(2012年5月逝去)、酒井氏(2016年12月逝去)だが、どなたもかなり長生きされたので、社会的影響力も少なくはなかったのではないだろうか。今となっては、当時の酒井氏の発言が、極めて常識的なだけに貴重に思われる。
そこで最も興味があるのは、やはり故相馬司教のこと。以下に、人となりの一面が現れていると言えよう。
(http://nativitas.blog130.fc2.com/blog-entry-89.html)
カトリック司教 幸田和生
2012-12-10
・昔、わたしが神学生のころ、名古屋教区の相馬信夫司教が神学生たちに講話をするために神学院を訪問されました。わたしは係でしたので、司教様と打ち合わせをするために客室の相馬司教様のところに行きました。
・「何の話にしようか。『正義と平和』の話がいいかな?でもそれはしょっちゅうしているから今日はマリア様の話にしようか。それでいい?」
・わたしが驚いたのは、神学院に来るまで、話を決めていなかったということでした。つまり、何の準備もしてこないわけで、司教というものは、準備なんかしなくても神学生に対する講話ぐらいできるのだと、みょうに感心したのです
(部分抜粋引用終)
この幸田和生司教は、やはり社会福祉関係の担当をされていて、書面で手書きの署名文字を見たことがあるが、今のカトリック司教はこういう字を書かれるのか、と驚いたことを覚えている。
日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)
「相馬 信夫」
昭和・平成期のカトリック司教 元・日本カトリック名古屋教区長。
生年:大正5(1916)年6月21日
没年:平成9(1997)年10月6日
出生地:東京
学歴〔年〕:東京帝国大学理学部天文学科〔昭和16年〕卒,東京カトリック大学神学院〔昭和35年〕卒
主な受賞名〔年〕:朝日社会福祉賞(平3年度)
経歴:昭和35年司祭叙階。44年名古屋司教に任命され、平成5年まで名古屋司教区長をつとめる。日本カトリック正義と平和協議会会長、人権福祉委員会委員長、名古屋いのちの電話理事長。東ティモールの民族自決支援運動にとりくみ、6年6月東ティモールの住民の自由を支援する“アジア太平洋連合(APCET)”結成にあたり、議長に就任。湾岸戦争の際には自衛隊機の派遣に反対し、湾岸避難民救援実行委員会委員長として民間機をチャーターし約3000人を母国へ移送した。共著に「日本にとって『解放の神学』とは」「平和への歩み」。
(転載終)
一言申し添えるならば、1980年代という私の学生時代は、経済が上昇中で、物が溢れ、豊かになり、欧州から学ぶものはないとさえ豪語する風潮だった。だからこそ、世の中の異なる側面にも目を向けようというカトリック側の呼びかけに関しては、視野を広げ、見解にバランスをもたらすという意味はあったと思う。私はずっと、そのように理解してきた、というよりも、自分に言い聞かせてきた。
但し、あの頃、不当にも日本のせいにされていた貧困などの原因が、実はソ連の共産主義工作員などが煽り立てていた誤った政策によることもわかるようになった今となっては、悲喜こもごも、遠い昔を思い出すような不思議な感覚である。
もしかしたら、この「解放の神学」に乗せられて(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170512)、人生を棒に振ったシスターや奉仕者も、この日本の教会には少なくないのではないだろうか、と想像する。