ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

パレスチナ村落同盟

久しぶりに「メムリ」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=http%3A%2F%2Fmemri%2Ejp&of=50)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=http%3A%2F%2Fmemri.jp)から、印象的な著述を引用する。
「メムリ」記事は、概して重苦しく複雑な内容が多いが、今回の特徴は、外国メディアの特派員に関する、実に辛辣かつ的確な観察が含まれていることである。これこそ、我々が他山の石とすべきことであり、単純かつナイーブな日本の「パレスチナ援助」(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20150519)のみならず、「親イスラエル」気取りへの苦言だとも言えよう。

「外国メディアの特派員のほぼ全員が、PLOを支持していた。その頃には既にこの組織は国際認知を受けていた。彼等は、地元のイスラエル紙レポーターと同じように、状況に無知でアラビア語も判らず、それを補うため、過激派と密接な関係を築き、苦労して情報をとることをせず、その過激派から情報を得て、それを記事にしていた。その報道たるやプロとしての深い読みに欠け、無批判であった。それでも、イスラエル紙の記者に比べればまだましであった。イスラエルの記者連中ときたら、まるで無国籍のようで、国民感情など全然なかった

(抜粋引用終)


「メムリ」(http://memri.jp/bin/articles.cgi?ID=SP10316

緊急報告シリーズ  
Special Dispatch Series No 103 Sep/21/2016

パレスチナ村落同盟顛末記」
イガル・カルモン(MEMRI会長)


23年前の9月13日、ホワイトハウスの庭でオスロー合意が調印された。イスラエルアメリカは、PLOについて疑問の多い不確かな前提を共有していた。PLOパレスチナ人を代表する唯一の組織であり、パレスチナ人との平和を目的とする唯一の交渉相手という仮定である。確かに当時はそのような空気であった。しかしながら、その空気は、問題関与者のアメリカ、イスラエル、そして思惑のあるPLOの政策によって、つくりだされたのである。PLOは、それまで対抗組織を次々と抹殺している。調印の15年前、ウェストバンクにひとつの運動が生まれた。PLOの政策に反対し、イスラエルとの平和を求める組織である。しかし、運動は失敗した。その失敗から38年経過したが、PLOそして西側のPLO支援者達は、今でもこの運動の亡霊にとりつかれている。私は直接この運動にかかわり、その動きを目撃した者である。次に紹介するのは、この村落同盟の顛末である。


1978年8月、ドディン(Mustafa Dodin)とパレスチナ人活動家の一団が、ウェストバンクの軍政部に要望書を提出した。ヘブロン域に村落同盟を設立したいという内容であった。ドディンは元ヨルダン政府閣僚で、この地域では著名な人物であり、ヨルダンの首相をつとめたタル(Wasfi Al-Tal)に近い人物であった。反PLOの立場である※1。ドディンは、ヨルダンからヘブロンに近い出身地のデュラ町へ戻ると、イスラエルとの平和構築をめざす政治運動をたちあげようとした。しかるにイスラエルの軍政当局は占領地での政治運動を認めなかった。イスラエルとの平和を築く運動であっても、そうなのである。やむなくドディンは、ヨルダン法で認められている社会事業団体の設置申請をおこなった(当時軍政部はウェストバンクをヨルダン法にもとづいて管理していた)。これが村落同盟である。最初の申請から許可がおりる迄(1978年8月許可)1年半程保留されたわけである。


政治活動反対は、“ダヤン政策”として知られるものの延長線上にあった。この政策は1967年の夏以来続いていた。ダヤン自身が組織的に体系化した方針ではなく、大まかな原則、ガイドライン、状況に応じダヤンが部下に与えた指示を、集大成したものである。それには、政治活動の禁止、穏健諸派内の依怙贔屓禁止、が含まれる。その穏健派には、ヨルダン支持派、数は多くはないがイスラエルの保護下におくパレスチナ自治国の建設派が含まれる。後者で特に著名な人物が、ラマッラ出身の弁護士シェハデー(Aziz Shehadeh)である※2。しかしながら、実際には、この政策は過激派の存在を認めるものでもあった。過激派のPLO支持者達が、イスラエル当局者によって好意的に扱われ、Al-FajrやAl-Shaabのような過激派新聞が、モシェ・ダヤン国防相の直接指示で、発行を認められた。テロ活動にかかわらない限り、占領管理地区住民に言論の自由を保証し、社会活動に干渉しないというのが、イスラエル政府の公式の説明であった。


ダヤン政策と村落同盟の発足


元ヨルダン政府閣僚ドディンとその支持者達は、イスラエルと交渉して平和条約を締結することを目的とし、これを公然と表明していた。その運動を認めたのは、ダヤン政策の原理原則から逸脱したことになる。ウェストバンクの軍政局アラブ問題アドバイザー室で、激論が続いた末に、この結論に至ったのである。室長はメナヘム・ミルソン教授であった。しかし許可がでた後でも、村落同盟のメンバー達は、ウェストバンクに関わる問題で、軍政局内の人間や、地元及び外国のジャーナリストに至るまで、ありとあらゆる人々から、直接間接に干渉され、反対された。

一見したところ、組織の目的は必要且つ望ましいのに、何故そんなに大きい反対をうけたのであろうか。ダヤン政策が、うまくいっているようだと考えられたからである。これが、答である。ダヤンドクトリンは、東西両岸の交流を認めたオープンブリッジ政策、管理地区内の地方選挙の実施、民衆レベルでの最大限の自由を含む、あらゆる面での穏健且つリベラルな施策につながっていた。この姿勢が、ダヤン政策はこの地域にヨルダン・イスラエル共同管理地区をつくるのが狙い、という印象を与えた。しかしながら、政治レベルでは、目的が全く逆であった。ダヤンは、ヨルダン支持者の地位を弱める手段で、管理地区(ウェストバンク)に対するヨルダンの政治的要求を小さくしたかったのである※3。


ダヤンの政治意図に拘わらず、リベラル派のジャーナリスト及び政界周辺は、いろいろな理由からその政策を支持した。ヨルダンの独裁的性格の王政を嫌う者もいれば、パレスチナ自治国を良しとする者もいた。イスラエルの右翼のなかにも、ダヤンの政策を支持する者がいた。彼等は反ヨルダンの方向性をもっていたからである。それは“大イスラエル主義”主張者の立場と合致していた。


管理地区が、政治上治安上静かである限り、ダヤンの政策は成功しているように見えた。静かであるのは、穏健派のパレスチナ人達がいるおかげであったが、間違ってダヤンの政策のおかげと判断されたのである。しかるに、1974年開催のアラブ首脳会議は、パレスチナ人を代表する唯一正当な組織として、PLOを承認した。これに後押しされて勢いにのったPLOは、管理地区で勢力を拡大し、反イスラエル扇動が増えてきたイスラエルではダヤンに代ってシモン・ペレスが国防相に就任し、ダヤンの政策を踏襲し、管理地区の地方選挙の実施を支持したが、テロはエスカレートするばかりであった。


ラバト首脳会議そして国連総会によるPLO承認から2年経過した。その間イスラエルの軍政局は、多くのイスラエル政界関係者と同じように、この歴史的事件を完全に無視し、そのままダヤン政策を維持した。1975年に管理地区で一連の暴動が発生しても、イスラエルの当局者達は、状況の変化を認めようとしなかった。つまり、親ヨルダン派を初め穏健派の地位が減退しているのは、この派をつき放し、反ヨルダン派即ちPLO支持者に行動の自由を認めた結果であることを、認識しなかった。当局者達は、1976年の選挙が違った結果になると信じこんだが、その期待に反して、PLO支持者が選ばれてしまった。当局者達はこの結果を自分達に都合のよいように解釈した。「結局のところ、町をきれいにして発展させるのは、この公僕達である。そのための選挙であり。彼等はその任務で選ばれたのだから、政治には関与しないだろう」というわけである。しかし、その期待は無惨に打ち砕かれる。プラグマチックである筈のヘブロン市長がとった最初の行動は、通りの清掃ではなく、自分の自治体に配分される予定の政府補助金の拒否であった。市長は、1967年以来定例化している方式に従って、イスラエル当局と契約を結ぶことを、避けたかったのである。親PLO市長達は、すぐに結束して、付加価値税(VAT)の導入に反対した。この税はイスラエルで実施された純粋に財政的な問題であったが、この市長達は、反イスラエル宣伝にこれを利用した。しかしながら、商工会議所の会頭達は、親ヨルダン派として知られ、プラグマチックな姿勢をとり、VATの導入、実施にむけて、イスラエル当局と交渉した。


ここで強調しておく必要があるが、多年に及ぶダヤン政策実施がもたらした累積結果が、社会の過激化である。具体的にはPLOとその組織の目的に向かって傾斜していったことである。それでも軍政当局とその幹部達は、ダヤンが更迭されシモン・ペレスに代った後ですら、ダヤン政策の精神で管理を続けた。管理地区諸活動調整官室と軍政局には、その精神が横溢していた。かなりの変化が生じたのは1976年夏、メナヘム・ミルソン教授が、ウェストバンクのアラブ問題に関するアドバイザーに就任した時である。ダヤン政策の精神は挑戦をうけ、新しいアプローチが導入された。1976年11月筆者は、ミルソンの補佐官としてアラブ問題室に加わった。


我々の活動は、現場のあらゆるレベルで、ダヤン政策の矛盾に逢着した。はっきり述べておきたいが、我々は軍紀に違反したり、陰でこそこそやったりしたことはない。ダヤン政策は、政府の公式政策と暗黙裡に矛盾し、その政策の足を引張ったが、我々はイスラエル政府が発表した基本原則に従って行動した。即ち、ヨルダンは非敵性国であるので、我々はこれを政治対話のパートナーにしようと努力した。ラバト決議とは真逆である。そして親ヨルダン派は弾圧ではなく支援されるのである。


我々の出発点はダヤン政策の起点とは全然違っていた。ダヤンは、ヨルダン崩壊まで占領地を維持管理することを、基本方針にしていた。1970年にテロ組織と国内で紛争が生じしている。過激派との闘争で国家が崩壊し、その跡地がパレスチナ問題の解決を提供する。当時ダヤンの演説には、彼の確信がにじみでていた。つまりダヤンは、イスラエルパレスチナ人との平和の可能性を信じていなかったのである。これに対して我々は、この悲観的見方に組せず、紛争をいつまでも続く不可避の事態とする宿命論を否定した。


確かに紛争は深刻であり歴史上根深い。我々にその認識はあった。しかし現場での感触は別であった。穏健派の存在である。テロリズムパレスチナ人自身を痛めつけ危険にさらすことを理解し、平和促進を期待している。穏健勢力を強めるならば、思慮分別のある平和指向の政策を追求できる可能性がある。我々は、この穏健派が支配的勢力ではなく、彼等が信奉する意見はパレスチナ社会で主導的立場にたっている都市部エリートに共有されていないことも、知っていた。しかし我々は、農村人口の大半が―サイレントマジョリティである―イスラエルによる明確なる政治上の約束と現場での行動があれば、この平和アプローチを受入れる用意のあることも知っていた。


防相の承認で、七つの村落同盟がウェストバンクに設置された。最初ヘブロンにつくられ、ついでラマッラ、ベツレヘムと続き、その後北部のナブルス、ジェニン、トルカレムにもできた。


イスラエルパレスチナ双方のアラブ人体制派双方が激しく反対したにも拘わらず、村落同盟ができたことは、我々の状況判断が正しかったことを物語る。PLOの暴力的方向が道義的政治的重要性を持つとは考えない、むしろそれに反対する穏健派が支えを得た。我々はそう考えた。もっともそれが平和に直結するかどうか不明であったが、PLOとの平和が不可能なことは判っていた。1948年の難民問題を代表し、その帰還権を要求する組織だからである。我々はこの点についても正しかった。PLOの帰還権要求が、平和の合意に向けた道をすべてブロックしていた。イスラエルが占領地の97%を提供した時(エフード・バラク首相時代)、或いは領土のスワップで占領地100%返還を提案した時(オルメルト首相時代)でも、この問題が足を引っ張ったのである。


我々は、PLOを相手とする政治闘争が、一挙に解決の運びになるとは、考えていなかった。点数を稼ぎながら延々と続く長期戦、と判断していたのである。武力闘争でグリーンライン(1949年の停戦ライン)内へ戻ることを目的とする組織よりは、テロリズムに反対し平和交渉を求めるパレスチナ人を相手にする方が、イスラエルにとってはるかに良い。この基本戦略は、たとい平和に結びつかなくても、理にかなった当然のアプローチと我々は考えていたが、イスラエルの政界では右も左も反対し、受入れなかった。双方共に己れの政策にしがみついていた。右派陣営は、アラブ穏健派との対話が領土上の妥協でおわることを恐れ、左派陣営は、PLOがいつかは平和のパートナーになるとの期待と信念に、しがみついた。ウェストバンク全域に村落同盟をつくることには成功したが、それは短命に終る。我々が国際社会とアラブ世界の政治的コンセンサスに反することをやり、不幸にしてイスラエル人の同意も得られなかったためである。


前述のように、村落同盟設置作戦は、交渉相手がウェストバンク軍政部の法務アドバイザー、国防省国際法務局、そして勿論国防省内局、管理地区政府諸活動調整官室で、倦まずたゆまず数ヶ月に及ぶ説得工作によって、やっと許可を得たのである。リクード政権時代エゼル・ワイツマン国防相が、この調整官室のアラブ問題アドバイザーの職務をミルソンに提示し、これをうけたミルソンは、1978年1月にこのポストについた。そしてまずワイツマンを説得した。国防相は、生返事ながら一応同意した。調整官室は、ダヤン政策を代表する組織であるが、論争にまきこまれた唯一の機関ではない。治安機関のなかでは、多くの人士がこのダヤン政策を信奉し“政治的英知の極致”とみなしていた※4。しかしながら、ウェストバンク駐留部隊指揮官のダビット・ハゴエル准将は、村落同盟構想を支持し、我々の活動を認めた。だが、1978年春に交代し、後任のベン・エリエゼル准将は、この構想に無関心と敵意を足して二で割ったような態度であった。2ヶ月後ミルソンは任期がきれ、古巣のヘブライ大学へ戻ってしまった。後に残ったのは筆者ひとり。孤軍奮闘することになる。私のまわりには、優れたスタッフが揃っていた。アラビア語に堪能で、アラブ及び中東問題の専門家達であった。どのスタッフも、任務の何たるかを心得、筆者の方針に沿って、熱心に働いてくれた。しかし、国防省の内局には、支持してくれる者がひとりもいなかった。


村落同盟反対者と反対動機


防相の許可を得たから、これで終りとはならない。むしろ論争は激しくなった。うまくいく筈がないという予言をした者は、ここを先途とせめたてた。反対派の急先鋒が、占領管理地区を専門にするジャーナリストと左派政治家、軍政局の幕僚達である。軍人の間にも、特にモシェ・レヴィ少将(そして後任のオリ・オル少将)率いる中部軍管区の将校達が反対した。外国のメディア、領事(特に東エルサレムアメリカ領事)、ヨルダ、PLO、そして入植者達も反対である。


このイニシァチヴは、国防相の承認をうけていた。道義的政治的観点からみて、穏健派との対話推進は当然であり、正当性があると思われるのであるが、何故この人達は反対したのであろうか。以下その理由である。


占領管理地区問題を担当するジャーナリストの圧倒的大多数は、強硬な政治見解を有し、PLOパレスチナ人の代表(妥当な)とみなしていた。このジャーナリスト達はPLOの立場を弁護し、口では過激なことを言っているが、実際には穏健であるとか、今にきっと穏健化するなどと主張した。ジャーナリストの大半は、占領管理地区のPLO支持者達と個人的につき合いがあった。この支持者達は情報提供者でもあった。勿論、選択的な情報の提供であり、ジャーナリストは見返りを要求された。PLOに好意的な報道である。いずれにせよジャーナリスト達は、ヨルダンとその支持者には嫌悪感を抱いていたので、親PLO著名人について好意的な記事を書くことなど、容易なことであった。例えばカワスメ(Fahd Qawasme、ヘブロン市長)、ミルヘム(Muhammad Milhem、ハルフル市長)とその同類である。イスラエル人ジャーナリストのなかには、ダヤン政策の文脈でパレスチナ人過激派と関係を築き、これを促進する者がいた。彼等にとっては、それは外国人メディアの目に開けた進歩派と映ることを期待してのことであった。簡単にいえば、彼等の態度、行動はプロとはほど遠く、批判力に欠けていた。


イスラエルの政治で左翼陣営は、パレスチナ人穏健派を第五列とみなし※5、PLOの支持者は“民族の烈士”で“信頼のおけるリーダーシップ”と位置付ける。つまり、村落同盟の活動に対する彼等の反対は、政治的であり感情的である。


軍政局の職員達(シビリアン)は、占領管理地区の日常生活にかかわる仕事をしている。その大多数は真面目で良心的な公僕であるが、村落同盟の活動に反対した。仕事と地位を保持したいため、地元民に対する責任と権限の委譲に反対であった。彼等の態度は、時に哀願調となり、我々は冗談に、この人達は今の自分の仕事を手放すのが惜しくて、パレスチナ人の支配下でも働きたいのか、と言ったものである。1967年の戦争のすぐ後とは、事情が随分違っていた。戦後このようなポストには、上級幕僚がついていた(地区司令官と肩を並べて働き、民政問題を扱った。“閣僚”級の人物である)。戦後占領地行政にさまざまなポストがつくられ、各省庁から担当者が派遣された。彼等は出身省庁でも重要ポストにいた人々であった。戦後12年たった今、管理地のポストは中級レベルの役人で占められていた。彼等は?閣僚?となった。つまり、そこではお山の大将的存在なのである。その地位を手放したくない気持は、判らぬわけではない。行政責任を地元民に引きわたせば、御役目御免になるからである。


中部軍管区の上級幹部で、我々の活動に不快感を抱いた人物もいる。占領地では彼等は管理行政の大御所として君臨し、中部軍管区からは参謀本部国防省そして時には内閣にも、幹部が送りこまれ、重要な職務についている。1981年まで、占領地は軍政下にあり、その行政は軍即ち中部軍管区司令部の指揮下におかれた。この状態がその年に終るとなれば、自分達にとって極めて重要な地位がなくなるわけだから、嬉しいわけはない。我々の活動は、メディアと左翼勢力から批判されたが、将軍達は活動の責任を一切とらなかった。批判者に対しては、我々のイニシァチヴではないから、我々を批判するのは論外であると言い、ことごとに我々の活動の邪魔をした。関係がないと言っても、我々の活動は、軍の活動に影響し、入植者に対しても然りである。軍には、入植者を守る任務もあったから、軍は我々を支援せず、入植者は助けた。彼等はダヤン政策を“至高の政治的英知”とし、我々よりダヤンの方がずっと“アラブを理解”している、と信じていた。


我々の活動に軍が不満を抱いた理由はまだある。1981年にミルソン教授が民政の長に任命された時、教授はシャロン防相と人事問題で談判した。任務不適格として相当数の軍政官を更迭し、代りに予備役の将校達を任命する案である。主としてハショメル・ハツァイルキブツ運動の出身者で、現役時代軍情報部に勤務し、アラビア語に堪能で中東研究の経歴を持つ人達だった。彼等は、政治イデオロギーの重要性を理解し、デモやビラを介した政治活動に通じており、ここが一番肝腎な点であるが、平和教育を徹底して受けていた


防相は、一見したところ奇妙な要求を直ちに承認した。当然大臣には大臣なりの思惑があった。このような陣営なら、現地の状況鎮静化に役立つ、と考えたのである。ミルソンは、マパム党指導者のヤーコブ・ハザンに相談した。メンバーが現役将校して復帰するには、運動の許可が必要で、ハザンはスタッフの役割や、我々が支援しようとするパレスチナ人穏健派の目的について質問した。ゴールはイスラエルとの平和合意にあることを確認すると、ハザンは予備役の現役復帰を許可した。しかるに、アルツィ(シェル・ハショメル・ハツァイル)運動の書記長代理アリザ・アミールがこれを耳にして、党書記ビクトル・シェムトヴのところへかけこみ、「あの御老体(ハザン)は、とうとう狂ってしまったわ。シャロンを助けるつもりよ」と叫んだのである。シェムトヴは許可を取り消した。キブツの規律に従わなかったのは僅か2名で、しかもこの両名いずれも長期に我々と行動を共にすることが許されなかった。


外国メディアの特派員のほぼ全員が、PLOを支持していた。その頃には既にこの組織は国際認知を受けていた。彼等は、地元のイスラエル紙レポーターと同じように、状況に無知でアラビア語も判らず、それを補うため、過激派と密接な関係を築き、苦労して情報をとることをせず、その過激派から情報を得て、それを記事にしていた。その報道たるやプロとしての深い読みに欠け、無批判であった。それでも、イスラエル紙の記者に比べればまだましであった。イスラエルの記者連中ときたら、まるで無国籍のようで、国民感情など全然なかった(例えば、1982年11月、ヘブロンで村落同盟の決起集会が開かれ数千名が参加した。海外のテレビ局多数が取材するなかで、村落同盟指導部がイスラエルとの平和をよびかけた。ところがダバール紙のダニー・ルービンシュタイン記者は、“ヘブロンの悲しく憂鬱な一日”と題する記事を書いた)。


アメリカ領事を先頭に各国領事は自国外務省の政策を実行した。端的にいえば、国連の与えた国際承認を後楯にしてPLOを支持し、我々の政策を無視、過激派PLO支持者に力を貸した


村落同盟に対するヨルダンの態度は、二つの時期に分けることができる。当初ヨルダン政府は暗黙裡に支持した。理由はある。村落同盟の活動が、占領管理地区におけるヨルダンの立場を強めることに気付き、1974年のラバト及び国連決議を無視し、占領地の政治的代表としての地位を後押した※6。しかしながら、1982年3月8日の後変ってくる。この日イスラエル国境警備隊指揮官ツビ・バルが、自衛目的で村落の同盟のメンバーに武器の操作訓練を施している、と発表したのである※7。ヨルダンとしては選択の余地はない。同盟はヨルダンの法律下では非合法の存在と正式に発表せざるをえなかった。ヨルダンは、この決定をした後、ヨルダンの旅券保持者―占領地ウェストバンク住民全員が携帯している―が同盟に参加しないように、一連の行政措置をとった。ラバト決議の後、アラブはPLOパレスチナ人の唯一正当な代表とみるようになり、ヨルダンはアラブのコンセンサスに反した行動をとっていないことを、示さざるを得なかった。ここで指摘しておく必要があるが、ラマッラ村落同盟の指導者が暗殺され、自衛のためIDF(イスラエル国防軍)の武器保管庫から少数の同盟メンバーに武器を支給したもので、民兵隊を編成する意図はなかった。IDFの中部軍管区司令官は、武器操作訓練を施すことを禁じていたので、アリク・シャロンに近いツビ・バルに接触して、訓練を施して貰ったのである。


村落同盟に関しPLOは勿論反対であり、それはラマッラ村落同盟指導者の殺害に端的に示されている。数年後ジェニン村落同盟の長も殺されたPLOは最初から最後まで毎日暴力的威嚇を繰り返していた。ボイコットを頻発し、同盟の活動が麻痺するような妨害活動をおこなったのである。


GSS(総合情報機関、シンベット)は、穏健派支援とその敵対勢力支援抑制の政策については保留する姿勢であった。それにはいくつか理由がある。それにはダヤンのドクトリン堅持願望もふくまれる。つまり、穏健派支援に反対し、過激分子を“本当の指導者”として支える。更に、GSSの権限はテロリズムとスパイ活動の防止と規定されており、扇動或いは敵意ある民衆活動を、その権限内にある対象とはみなさなかった。たとい双方とも結局は過激主義とテロ行為につながっても、取り締らないのである。GSSには、村落同盟に反対する別の理由もあった。非常な敵意を抱くパレスチナ人達が、二枚舌を使い情報提供と交換に、この情報機関の保護を受けていた。GSSは、アラブ問題アドバイザー室が情報・調査網として機能し、綿密な調査を行なっていた事実を、受入れたくないだろう。調査結果は、政府関係機関とメディアに配布されていたのである。


占領管理地区では、ユダヤ人入植者もひとつの勢力であった。村落同盟に対する彼等の態度は、地元住民に対する態度と同じで、無関心か或いは敵意を抱いているかであった。ヘブロン域の集団或いは個人の間に、特に激しい敵意がみられた。そのひとりが、エルヤキム・ヘツニである。1950年代初期のシュラート・ハミトナドヴィム組織(ボランティアの戦列の意、ヘブライ大学の学生を中心にして起きた社会運動)の活動家で、ヘブロンユダヤ人居住地キリヤト・アルバ建設にかかわり、イスラエルではよく知れられた人物であった。管理地区に入植した人達と違って、彼は世俗のユダヤ人で、アラブの隣人達に対して、公平な心で接していた。弁護士として、地元のアラブ人が不当な扱いを受けていると判断すれば、イスラエル当局を相手取り、法廷でアラブ人を弁護した。そのような経緯から、彼は村落同盟の活動家達と個人的に良い関係を築いていた。しかし、政治の場では、彼は占領地の併合論者で、同盟の活動に真正面から反対し、歴代国防相に同盟を発展させないように、働きかけた、イスラエルPLOを相手にしないから、この組織は恐ろしくない。しかし村落同盟は問題である。ヘツニはそう考えた。彼が恐怖感を抱いたのは、アラファトではなくムスタファ・ドディンの方であった。ドディンがイスラエルとの平和を推進すると、イスラエルは合意に達するため占領管理地区から撤収しなければならない。彼はそう考えた。後にレバノンのサブラ・シャティラ両難民キャンプで虐殺事件が起きて(1982年)、シャロン防相が政治的に孤立し、入植者の支援を必要とした時、村落同盟の活動中止を求めるヘツニの圧力は、相当にきいた。


シャロンと村落同盟


1981年、シャロンが国防相に任命され、村落同盟に新たな機会が到来したようにみえた。シャロンがミルソン教授にウェストバンク管理地区のポストを提示したからである。我々はいろいろ疑問はあったが、シャロンがミルソン教授をこのポストに任命する事実に注目し、管理地区へ新風を吹きこむ意志あり、と信じたかった。シャロンは村落同盟構想を口頭で支持した。我々の活動を助ける意志があるようにみえたのである。しかし、その期待はすぐに崩れ去る。我々の活動と我々個々人を嫌う多くの人から圧力がかかり、それに屈したのである。それが第一である。ウェストバンクは、1967年以来軍政下にあったが、シャロンはそれを民政に変えた。前者は国際法にもとづくもので、パレスチナ人自身が1967年以来それに順応せざるを得なかったのであるが、後者は国際法上根拠がない。この新体制は導入当初から、その合法性をめぐり、無意味で不必要な紛争に引掛り、我々の活動は齟齬をきたした。新体制は、占領地併合に向けた第一歩と受けとめられ、PLO支持者の闘争の言い訳にもなった。第二に、シャロンは村落同盟支援に関する約束を、ひとつも守らなかった。開発援助資金はなしで、占領地に対する全体的政策を討論する場も設けなかった。彼は、穏健派を同盟としてまとめることには全く関心がなく、時間をさくことも国防省予算をこの事業にまわすこともなかった。同盟は、1981年初めに村落同盟総連合として全土規模に組織化されていたが、以上のような理由から、同盟内外の諸問題に翻弄され改善の見込みもなく弱体化していった。勿論彼等は努力したし、同盟が新しい政治動向であり、平和のためイスラエル政府の協力もあるだろうと考える人々が支援の輪を広げていたのに、肝腎のこちら側がこの体たらくであった。1982年9月、ミルソンは任命から1年もたたないのに、サブラ、シャチーラ難民キャンプ虐殺事件の余波をうけて辞任し、筆者が後任の指名をうけた。かくして不可避の凋落が始まる。国防相自身がこの虐殺問題とそれが引き起した波紋の対応に追われ、シャロンが辞任を余儀なくされ、後任にモシェ・アレンスが任命され、更にシュロモ・イリヤが民政局長になった。イリヤは、村落同盟に敵意を以て接し、その指導者の失脚を画策した。更に村落同盟に反対する者共が新しい国防相にいろいろ圧力をかけ、遂に総連合は解体され、メンバーの自衛用に支給されていた武器も没収され、メンバー達は無防備状態で危険にさらされることになった。アラブ側の同盟反対派は、こぞってこの“失敗”に狂喜したが、彼等のせいで、そうなったわけではない。崩壊の責任は、構想の概念や意義、見通し等に一顧もしなかったイスラエル政府にある。PLOアラブ諸国等は遠目に眺めていただけで、そんな力はなかった。反対の声にとり囲まれて歴史的政治プロセスに乗り出す時、このような失敗がつきものと言えようか。この後、1993年にイスラエル政府がPLOと共に政治イニシァチヴをとろうとした。国及び国際コンセンサスにとり囲まれてはいたのであるが、成功の見込みはなかった。その理由は我々自身が予見し警告を発した通りである。


村落同盟に関する誤解


この機会に、村落同盟反対派が宣伝している嘘を二つ指摘しておきたい。第一は、これが?シャロン・ミルソン計画?だったという嘘である。前述のように、村落同盟はシャロンが国防相に就任する3年前に設立され、シャロンがこれに関わることはなかった。“シャロン・ミルソン計画”など存在しなかったのである。村落同盟の信用落しのため、あたかも本人がでっちあげたようにシャロンの名をくっつけ、何も知らぬ人達が、猿まねで唱えているのである


第二の誤解は、“分断して支配せよ”の原則に従って我々が都市部と農村部のパレスチナ人を分断するため村落同盟をつくったという主張である。この主張も、全く根拠がない。前述のように、ムスタファ・ドディンが村落同盟をつくろうとした背景には、政治運動発足の可能性がないことに由来がある。彼は、公然とイスラエルと平和交渉をやれる政治運動がつくれなかったのである。1977年にこの要求を手に我々のところへ来たドディンは、国防相が管理地区に政治団体の設立を認めていない、たとい平和の合意を目的とするものでも駄目であるとの説明をうけた。彼にできるのは、ヨルダンの法律で認められている社会事業団体だけであった。後日ドディンは、この問題を村落同盟発足で解決できる、と言って来た。換言すれば、村落同盟の枠が、ドディンとその支持者達に、彼等の意志に反して押しつけられたのである。そしてそれは、イスラエルと平和交渉に向けて動こうとするパレスチナ人を支援したいと願う我々にも、同じように押しつけられたのである。


ハデレフ・ラシャローム運動


この村落同 盟にイスラエル全体が反対したのではない。この事実を指摘することなくペンをおくことはできない。1983年、村落同盟を支援する運動が、イスラエルの左翼運動のなかに生まれたのである。この運動は、ハデレフ・ラシャローム(平和への道)と名付けられたが、政府機関とは全く関係がなく、キブツ運動の活動家達で構成されている。ハショメル・ハツァイル、イフード・ハクヴツォット、ハキブツ・ハメウハッドの主要三運動である。主要人物には、ヨナ・アイゼンベルグキブツ・ガンシュムエル)、ハノッホ・ベーリ(ハゾレア)、ドディク・ショシャニ(ラハヴ)、ヤーコブ・ヨニシ(ベイト・ハシタ)、エズラ・ブルーミー(ロシュ・ハニクラ)、シュロモ・レシェム(ウリム)が含まれる。彼等は、村落同盟のメンバー達に接触し、彼等を支援し、彼等と一緒に会議その他の活動を組織した。彼等は、イスラエルパレスチナ平和の選択肢は、海外に探すまでもなく、身近にあることをイスラエル社会に示すため、あらゆる努力を払った。しかし、1983年の場合と同じように、イスラエル当局が、村落同盟と手を切る過程にあるので、彼等は殆んど何もできず、彼等の支援は救済をもたらさなかった。


・本記事は、イスラエルKivvunim Hadashim(第29号2013年12月、エルサレム)掲載記事の改訂版。


(1) タルは、1971年にPLOによって暗殺された。前年9月この組織に対する活動で報複されたのである
(2) アジズ・ジェハデーは1985年12月2日に射殺された
(3) イスラエル軍政局のもとで実施されたオープンブリッジ政策、給与の振替(ヨルダンで公務員として働いている教師及び役人が稼いだ給料を、ウェストバンクへ移しても可とする政策)は、ダヤンが公約したことで、彼としてはこれを守らざるを得なかった(もっとも最初は禁止していた)。ダヤンの指示で1972年に実施された地方選挙の結果も(ヨルダン支持者が市長、地方議会の議長の地位を維持した)、ダヤンの本意に合致するものではなかった。彼はその地位に反ヨルダン派の人間をすえたかったのである。そのため彼は反対派の就任を勧奨した。ダヤンが成功した例がハラフ(Karim Khalaf)の就任である。イスラエルの管理下で主席検事、ラマッラ市長となった。1976年の選挙では、PLO支持を自称する候補者達が、国防相から大いにもちあげられた。国防相は、彼等が明言する政治的立場に触れることなく、軍政局に支援を指示した。
(4) イスラエル国民の大半は、ダヤンを“アラブ人を理解する”人物とみなした
(5) この用語を彼等に当てはめた最初の人は、シュロモ・ガジット少将であった。少将は、ダヤン政策の徹底した擁護者であり、初代の政府諸活動調整官であった。
(6) これがフセイン国王の態度であった。当時ヨルダンの首相であったバドラン(Mudar Badran)は、国王の指示に反した行動はとらず、ドディンに対して同情の姿勢を示さなかった。ドディンがヨルダン政府の閣僚であった頃、二人は衝突したことがある。
(7) バルは、自分がとった行動の結果を考えることなく、自分を大きく見せるため不適切且つ歪曲して情報をリークした。

(転載終)