ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

生きた交流の場があれば

本を何冊か書いて、メディアでも著名になると、講演会などで著者との生きた交流が持たれることがある。
大変に遅くなったが、1月30日の関西クリスチャン・アカデミーでの佐藤優氏とのことを(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160218)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160309)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160310)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160327)、時の煩雑さで埋もれてしまう前に、少しだけ書き留めておこう。
「とのこと」と書いたのは、実はお褒めいただいたからなのである。同じ場所で久しぶりの再会となったが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101013)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130403)、当然のことながら、私のことなど覚えてはいらっしゃらない。ただ、以前と同じ雑誌に同じようにサインをいただいたので、それが何らかの記憶の助けになればと思った。
あまり直後に書くと、何やら虎の威を借る狐の二の舞だし、著名人にあやかった自慢だと痛くもない腹を探られて誤解されたくもないし、舞い上がっていると勘違いされてもいけないので、文献資料で確認してから、と生真面目に思い込んでいるうちに、今日になってしまった。
「恫喝調子」と以前書いたのも、実は、集まった大勢の方々に対する佐藤氏の期待や思い入れもあっての叱責なのだろうと、私は解釈している。この会合は録音されていたので、証拠も残っている。
私が褒めていただいたのは、「質問の仕方がよい」ということで、具体的に早口で読み上げて、皆様の前でおっしゃってくださった。サインの際も、「下の名前は?」とお尋ねがあった。もちろん遠慮したが、それは思いがけないことでもあり、ここに改めて感謝申し上げる次第である。
講演内容については、ノート持参でご著書数冊を机に積み上げてのお話で、ここに書くべきことではないが、基本的に重要な点で意見を異にする面について、こちらから率直に問い、応答がストレートに返ってきたことは、出席者として幸いだった。
その応答については、今日ではなく、いずれまた。
質疑応答に関して、ここで是非とも書いておきたい。佐藤氏のみならず、ご著書でヒットを飛ばされ、有名になられた方々で、メディアなどでも活発に発言されている方ならば、どなたでも同様の経験をされていることだろうと思う。
質問用紙が事前に配布されており、休憩時間に佐藤氏に質問したい内容を書いて提出する形式だったが、幅広い質問が数多く寄せられたので、てきぱきと処理される感じだった。ところが、さすがに文字の書き方や質問文で即座に質問者の背景が察知できるのだろう、恫喝というのか、厳しい叱責をいただく場面が何度かあった。
一言で言えば、「そういう質問を平気でするというのは、私の著作を全く読んでいない証拠だ」というもの。実は、参考文献として数冊の著書リストが予め提示されていた。なので、「読んでいれば、そこに書いてある。読まずに質問して答えを得ようとするのは、安易な態度であり、著者に失礼だ」ということなのではないかと理解した。もちろん、それには私も同意する。
もう一つの質問タイプとしては、あまりにも大きな問いであって、制約時間内でとても答えられるものではない、というものがあった。つまり、場にそぐわないことを試しに聞いてやろう、とするものである。
または、佐藤氏の人柄を誤解してか何なのか、甘ったれた女学生みたいな質問を書いていたらしい人もいて、それは当然のことながら、相応の応対をされていた。
私の質問内容は下書きが残っているのだが、実は非常に重く、厄介な種である。そして、申し訳ないことに、その場で佐藤氏からいただいた返答は、気になったので文献で調べたところ、必ずしも事実とは合致しないことが判明した。しかしながら、そのことで私は佐藤氏を責めているのではない。極めてご多忙であり、それなりの理由があってのことであろう。但し、文献証拠は文献証拠であり、そこは人間関係や立場の相違を超えて、事実として明らかにしておくことが大切かと思う。
若い男性が立ち上がって「佐藤先生のおかげで、今自分はこうしていられます」と宣言した場面があった。恐らくは、その領域に私は入ることが許されず、入る意図もないが、多筆の佐藤優氏には、そのように若い人々を勇気づけ、励ましている部分がある。
佐藤優氏(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/archive?word=%BA%B4%C6%A3%CD%A5)の著作を全部読んできたわけではなく、思想面でも、重なっているようでいて実は基本的に異なる面があるが、それは対立でも何でもない。ただ、直接お目にかかる機会があると、言葉に出さなくても、何となく感じられる部分に触れることができる。また、言葉にすべきことでもないだろう。