ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

お年賀状

三が日も明け、今年のお年賀状はピークを越えたかと思う。
主人宛のお年賀状は、健康を気遣い、励ます言葉を書かれたものが目立った。温かく、深いご理解に囲まれていることに、心から感謝申し上げる。
ところで、ビジネスなどの一般的な社会通念の常識としては承知していたが、個人的な関係では、これまであまり気に留めたこともなかったことに、お年賀状の出し方や届き方で、相手を判断して交際範囲に入れるかどうかを決める例があるらしい。
例えば、手書きの言葉が入っていないからダメとか、元旦初日に届かなかったから来年からは失礼します、などである。
確かに大晦日の何日も前に余裕を持ってポストに投函したのに(毎年、投函日もリストに記入している)、どういうわけか他府県の相手方に初日に届かなかったことから、一方的に「来年からは出しません」と宣言されてしまったことがある。後で「何日にポストに入れました」とメールで書いたところ、「それでは郵便配達のせいですね」と了解していただけたが、人間関係が壊れたことは事実であり、遅きに失している。
正直なところ、先方からお断りされて、こちらとしてはホッとした。何が起こるかわからない世の中にあって、何でもかんでも自分だけが正しく、その規格から外れた相手を排除したがるような人に、無理に受け入れていただく必要はない。そこまで私は暇ではない。
それに、お正月前後は毎年海外に出る習慣の方達もいて、そういう場合には、いつも多少遅れて届くが、私としては何ら気にならない。お相手の都合まで、こちらが操作できる問題ではないからだ。
元旦に気持ちを新しく整えてお年賀状を書くという考えの人もいて、その場合は、元旦に届くはずもない。いただいてうれしいことに変わりはない。
家族に病を抱えた高齢者を持つ場合には、早々とお年賀状を用意したところ、急遽、喪中葉書に差し替える事態が発生するかもしれず、元旦に届くどころではない年だってあることだろう。
手書きの言葉については、住所や宛名をパソコン出力にする方が失礼かもしれないので、表書きが手書きであれば何ら問題はない。むしろ、こまごまと余計な言葉を書かれて不愉快になるよりは、余程シンプルで品がいいと思っている。それに、本来は墨をすって毛筆で一枚一枚丁寧に書くのが正式である。それを現代風に省略しているのだから、文句を言う方がおかしいと思う。
以前にも書いたことだが、元旦に「来年からはお年賀状を出しません」と長々と赤字で書かれたものを受け取ったことがある(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121109)。学生時代の友人だったが、結婚後、何だかいつも引っ越しが多くて大変そうだとは思っていた。入院したり、ご主人の職が定まらなかったりして、こちらも心配していたが、お年賀状が届く限りはどこかで元気にしているのだろう、と思っていた。赤字でお断りを書かなければならないほど何か私が失礼なことをしたのかと気になったが、関わりのあった方に連絡を取ってみたところ、「誰にも言いたくない事情があってのことでしょう。そちらのせいではないと思いますよ」と言ってくださった。
子どもの写真については、自分にとってはかわいい我が子のつもりでも、届いた先でどのように品評されているのかわからない。将来、何か不都合な証拠に使われる可能性もなきにしもあらず。長い人生をトータルして考えれば、家族写真は親しい間柄に留め、普通は文字だけのお年賀状の方が無難ではある。
何よりも、本来の意味としては、相手の幸福と安寧を祈る言葉を届け、「新たな一年もよろしくお願い申し上げます」とご挨拶するのが、お年賀状の役割であると聞いている。尋ねられてもいないのに、自分の業績一覧を書き並べたり、自分の家族のことばかり綴るのは卑しいことだと、古典的な本にも書いてある。
何も書いていないのは、書けるほどの人生ではないからだと考える人もいるらしいが、とんでもない倒錯である。
ということがわかれば、元旦に届かないから、言葉が書いていないから、という不満そのものが品格や倫理から外れているのは言うまでもない。
我が家では、主人が毎年デザインを選んでいる。私は住所に間違いがないか確認する程度である。最終決定は二人で。単色だと見た目が楽しくないので、その点だけは気をつけるが、後は何事もあっさりした方が好みである。