ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

夢想と現実の乖離 そして...

お年賀状、確かに年内に投函したのに、昨日、名古屋市内に住む妹に電話すると、「今日届いたよ」。先程、我が家の郵便受けを見たところ、お正月にこちら宛に出された方のものも届いていて、何だか、普通郵便の方が早いのではないか、と疑問に思いました。配達する方達のご苦労を思えば、多少遅くとも、確実に届く方が優先されるべきなのでしょうが。
さて、私の「恩師」からは、「恐らくこれが最後になります」と添え書きされたお年賀状が届きました。何が最後かといえば、年末にも書かせていただいた『説林』へのご論文のようです(参照:2009年12月22日付「ユーリの部屋」)。80歳を超えてもなお、論考を学術雑誌に投稿し続けられる気力だけは、不肖の私も見習わなければと思います。
ドイツ語の先生からは、ハイネについて出版するご予定だとかうかがいました。以前もドイツ語関連でご著書を送ってくださった先生ですが(参照:2008年4月4日付「ユーリの部屋」)、お待ち申し上げております!
この先生は、私がいつかは母校に戻って教鞭をとるよう暗示してくださったのですが、どこでどう間違ったのか、どうもいけません。主人とよく、昔の思い出話をしゃべっていると、「そりゃ、環境というより、先生の選択が悪いわ」と諭されます。つまり、私自身が気づかなかったものを見抜いて、伸ばそうとされた先生方も確かにいらしたのに、何だか、変なことを平気でおっしゃる先生の方が権勢をふるうことが多いために、つい、どこかで引きずられてしまった、いえ、影響されてしまった、という...。親の方も「学校は近い方がいい」という方針で、「そんな先生なら、早く代わった方がいい」とは言いませんでした。だから、その分、自分の感覚や選択眼が鈍るわけですね。もう、これからは気をつけるぞ!って、遅いですが。
今日の午前中は、恒例の健康診断の日でした(参照:2008年1月9日・2009年1月15日付「ユーリの部屋」)。今年は1週間ほど早くなり、しかも、検査項目によって料金が大幅に異なるためか、受診者は少なめで、しかも50代60代ぐらいの女性が多かったように思います。これも、主人の勤務環境を知る絶好のチャンスなので、毎年、楽しみにしています。
本当に、結婚するまで、企業のことなど何も知らずにいたので、ものすごく勉強になりました。社内報も、月報のような冊子も、何でも目を通して視野を広げるようにしています。逆に言えば、学校組織が、いかに非常識でも偏屈でもそのまま通用してしまうことがあるのか、ということです。大学へは、勉強好きだったので通い続けられたようなもので、今でもどこか違和感を覚えるような研究会や学会などは、残念ながら、あります。
理想はやはり、上記の「恩師」のようなタイプの先生が一人どっしりといらっしゃって、しかし、そこには自由闊達で明るい真理探究の同志が集い、月一度ぐらいずつ自主的に、誰かの家か、公共施設を借りて、小さくとも質の高い、公表に足る継続性のある勉強を続けていくという原則があることです。インターネットなどで閲覧する限りにおいて、他分野や他地域では、さまざまなレベルの学習会があるように見受けられますが、どうも、私が気難しい性格のためか、(あ、参加してみたい)と思うような集まりは東京や遠方だったり、(是非ともここへ連なりたい)という勉強会は、私がお客さんに過ぎないようなものだったりして、うまくいきません。
高校の時もそうでした。私が思い描いていた高校時代は、もっと青春の風が吹いていて、自主的に読書会や各種グループがあるようなものでした。例えば、世界文学全集を次々読破するような、そんなグループに私も入らせてもらい、想像力と創造性が自由に大きく羽ばたくような、そういう交流があるものだと夢想していました。
実際には、ぎゅうぎゅう詰めの学課スケジュールをこなすのに精一杯で、何かグループをつくろうものなら、先生に届け出なければならない、という...。
今思えば、最も私が生き生きとしていた学校時代は、小学校5,6年の時でした。今年も、その担任の先生からお年賀状が届き、「私もまだ働いておりますよ」とのお言葉が添えられていました。あの頃の私は、「自由にグループを作りなさい」と言われると、真っ先に気に入った男の子のところへずかずかと歩み寄って行き、「ね、私と同じグループにならない?」なんて、非常に積極的でしたね。「学年初で唯一の男女混合グループか」と珍しがられて、隣の担任の男の先生まで見に来られて、得意満面でした(参照:2008年11月13日付「ユーリの部屋」)。さすがに修学旅行の前だけは、先生から「女の子だけのグループを作りなさいね」と注意されましたが、その意味もよくわかっていなかったほど、おぼこ娘でした。実におおらかな、よい時代でした。学習塾なんて行っている子も、少数派でしたし...。授業が終われば部活動(私は4年生から鼓笛部で、まずはアコーディオン、次に、名古屋祭りに出られる楽器が決まっていると知るや否や、小太鼓に宗旨替えして、確かに出場させていただきました!)、その後も、ちょこっと宿題を30分か、せいぜい長くても1時間ぐらいやって、すぐに近所やクラスメートと遊んでばかりいました。本当にたのしい時代でした。

そうです!この調子でいけば、もっと何とかなるかもしれません。