ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

凜とした日本女性のモデル

櫻井よしこ氏(http://pub.ne.jp/itunalily/?search=20519&mode_find=word&keyword=Ms.+Sakurai)。部分的に(それはどうか?)と思う解釈があったので、従来から、このブログでほとんど引用はしてきませんでしたが、この頃になって、筋の通った凜とした日本女性としての発言が気に入っています。元キャスターで美しい言葉遣いをされる上、論戦中も熱くならず理路整然と落ち着いて語られます。
一度離婚されているようですが、決して「犠牲者としての女」をメソメソと演じることなく、いつもカメラの前ではにこやかで爽やか。健康管理もシンプルかつ合理的で、何年も前に雑誌で紹介されていた様子を拝見して感じ入ったことがあります。仕事一筋に生きてこられているのに、決して「男社会」を糾弾することなく、普通の人生経歴とはやや異なったご自分に対する理解を他者に強要することなく、シングル女性であってもそのように見えない、見せない強さがあります。
特に昨晩、過去の映像を見ていて共感したのが、「国益がぶつかっている時に不用意な善意を相手に示すと逆効果」だという発言。日本では民主党の時期に、それまで一切問題にもなってこなかった尖閣諸島竹島の所有権について、「この島が取れるかもしれない」と思わせたと指摘(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120627)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120917)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121109)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130209)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130605)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130906)。これは全くダニエル・パイプス先生が昔の論考文で主張されてきたことにも相通じており、アラブ共同体の内部問題をきちんと観察せずに、相手に善意を示せばこちらにも善意が返ってくると無邪気に考えて実践した、アメリカのキリスト教宣教師達の外交上の失敗を見事に論駁されていました。「土地と平和の交換」というパレスチナ問題も同一路線上にあります(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130918)。
いくら鈍感な私でも、ここ数年のNHKと『朝日新聞』の筋違いの拡大報道や質の著しい低下にはほとほと辟易しているので(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120904)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121113)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121123)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130408)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130505)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130519)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130920)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131002)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131006)、この歳になると「保守論客」とは実に合点のいく主張だと素直に思えるようになりました。ようやく、恐れ入って後退させられていた昔の感覚が堂々と前面によみがえってきたような気がします。
結局のところマルクス主義思想は、ソ連が崩壊しても、中国が市場開放しても、社会民主主義のような形で、欧州や日本やアメリカにさえ蔓延しつつあるということなのですね。メディアと学校教育と出版を通して、少しずつ巧妙に浸透して人々の考えや行動を変えていき、気づいた時には、伝統が変容したり崩壊寸前になったりしているのです。多文化主義政策などに代表される左派とイスラーム主義の結託とは、アメリカなどでも批判的に主張されるパターンですが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120811)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130102)、確かに、無神論と有神論の違いはあっても共鳴し合う面があるので、互いに手を取り合って社会崩壊に協力しているのでしょう。それは、この日本でも確実に観察されるところです。
「私のようにやれば成功するのに、あなた馬鹿じゃない?」と他人を見下すような陳腐な自称キャリア女性ではなく(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20071114)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090110)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090402)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100423)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120310)、「女性が働きやすい社会は男性にとっても働きやすいはずだ」などと一方的に根拠なき主張を無責任に振り回すこともなく、「ワーク・シェアリング」などとカタカナを使っているものの、実は労働者階級の過去の実践をモダンに言い換えただけの用語を(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120522)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130830)、恥ずかしげもなく口にする専門職女性とはきっぱり決別。こういう風潮が世の中を崩し、きちんと生きてきた人々を脇へ押しやり、マイノリティがマイノリティたる所以を直視することなく、形式的平等へといびつに転換しようとする愚かさを、実に的確に指摘されていると思います。
一つ、東京書籍という私も学校時代に使った教科書の問題点が挙げられていました。最もよく普及している学校教科書の出版社だとのことですが、「政府と国民とで考えが違う」という記述があるのだそうです。PKOの事例ですが、私にはなぜか馴染みのある表現で、「中央政府に抵抗する人民」を一方的に善とするイデオロギーの一部反映です。自由社会なのだから、国民には意見の相違があるのは当然のことであって、話し合いや自然淘汰で、収まるべきところに収まっていくのが筋。わざわざ教科書が書き立てる必要性はないのです。担当教師が「こういう意見もありますよ」と、一言付け加えるぐらいでよいのでは?
「両論併記」「異なる立場にも目配り」「自分だけが正しいと思わないように」という主張は、混乱させる思想だと思います(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120521)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120827)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120929)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130704)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131001)。よほど狭い環境と思考の中で生きているのでない限り、普通は成長と共に視野が広がり、さまざまな立場や考えがあることに気づくのが自然。わざわざ主張されなくても、普通の感覚でわかっていること(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130625)。私も中学高校の頃、どうして社会や歴史(日本史、世界史)の教科書の記述が、いつの時代も常に「人々は苦しい生活を強いられていた」という文で章が閉じられているのか不思議でなりませんでした。(もしそれが本当ならば、なぜ人間の世の中がここまで継続したのか?)(善政と悪政があるはずなのに、その見分け方を教えずに、なぜいつも権力者は「悪」と公式化しているのか?)(やはり優秀で力のある人が上に立って、きちんと世の中を治めてくれなければ、安定した暮らしなどできないではないか?)と疑問ばかりつのっていました。塾などで、何も考えずに教科書記述を鵜呑みにして受験競争を勝ち抜いてきた人々が今中心になっているとするならば、確かに、その上の世代の保守論客派が「否」を突きつけないと、自分の国に誇りも自信も持てなくなってしまいます。
基本的に人は誰でも、自分の生まれた国や民族や社会に責任を持つのが妥当だと思います。余程の迫害や生命の危険がない限り、安易に国籍を変えたり、移住したりすれば、伝統基盤が崩れますし、不必要な問題をみすみす作り出していることになります。