ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

前途多難な日本の予感(1)

今年で、ノーベル賞受賞者が母校から6人出た。今年4月、ニューヨーク市のペンシルヴェニア倶楽部にお招きいただいた時(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140508)、ノーベル賞受賞者の顔写真がずらりと壁に貼ってあった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140509)。待ち時間の15分ほど、他にすることもなかったので、壁を眺めていたが、思わず退きたくなるような威圧感も覚えた。

今、落ち着いて考えてみれば、非西洋圏の日本の地方大学で、政治絡みの平和賞や文学賞でない理系のノーベル賞を母校が6人も輩出したとなれば、これは誇っていいことだ。しかも、私も含めた家族3人の母校だ。恥じることはないのに、どうしてここまで引け目を感じながら日々を暮らさなければならなかったのか。
...と、関西に来てからずっと考えていた。これは、生活全般、否、人生設計に大きく影響を及ぼすことである。非常に深刻な問題だ。
一つは、ズィンミー・メンタリティである。いわゆる「第三世界」を、あたかも日本と同等の質で見なければ学問ではないかのような風潮が、学会にも研究会にもあった。そして、極めつけは、先日のN氏経験である(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141008)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141010)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141011)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20141012)。N氏のイデオロギー問題という以上に、受け入れ環境に相当の問題を感じた。あの頃は、関西の一私学がそこまで大いばりできるほどの実力派なのか、不思議で混乱させられた。学生気質は伸び伸びして育ちの良さが感じられたが、私の見るところ、甘ちゃんも目立った。教員が「勉強していません」「英語は、私わかりません」などと人前で平気で抜かすところも、気になった。
「私立大学の教授からは、『国立大学はリベラル・アーツがないから困る』ごとき訓話を目の前で延々とされる。」と、過去ブログ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131211)のコメント欄にも書いたが、学会でさえ、そんな調子だったのが嫌だった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20111026)。歴史をしっかり正確に見てください!
その私学の誇る「リベラル・アーツ」については、過去ブログでも少し言及したことがある(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091125)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20091126)。
納税者のおかげで経済的に勉強させていただいた者にとっては、どうも腑に落ちなかった。なぜならば、国立大学だと、学校が用意してくれない素養や教養は、何でも自分で探して身につけなければならなかったからだ。今でこそ幼稚園みたいになっているが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130519)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140305)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140323)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140518)、私の世代までは、少なくとも敷居の高い、もとい、気位の高い事務官がいて、図書館でさえ、卒業生は使わせてくれなかったほどだった。
だが、既に2002年には「リベラル・アーツ」を唱える人々の欠陥を指摘した文章が出ていたのだった。

http://www.st.rim.or.jp/~k-kazuma/ED/ED115.html
リベラルアーツ教育の限界」


リベラルアーツ教育を重視しても効果は小さい


 大学改革の1つとして、「リベラルアーツ教育を重視すべきだ」という意見を耳にすることがある。教育改革や大学改革に興味があって調べたことがあるなら、この意見に出会ったことがあるだろう。では、リベラルアーツ教育を十分に実施したら、期待した効果が得られるだろうか。結論を先に言ってしまうなら、効果はほとんど期待できない。それより大きな問題なのは、この意見を出す人の思考方法である。その点も含めて、簡単に解説しよう。


 リベラルアーツ教育を重視すべきだと主張する人は、人間的に成長させるとか、専門バカにならないため、といった理由を挙げることが多い。
(中略)
 人間の成長は、学習で得た知識だけでなく、様々な体験が欠かせない。
(中略)
 意外に見逃されがちだが、人間的な成長には、論理的な思考能力も欠かせない。誰かが感情的に訴えているとき、それが本当かどうか確かめもせずに信じると、悪い行為に加担してしまう。論理的な思考能力が高ければ、訴えた内容が本当かどうか、評価したり推理したりでき、適切な判断の基礎として役立つ。


 論理的な思考能力が役立つのは、誰かの訴えにだまされない場面だけではない。いろいろな状況で、適切な意見や提案を示せるため、問題が生じている全部の場面で役立つ。それは、他人に対しても可能だ。感情的な意見に誰かがだまされそうなとき、論理的に考えた適切な助言を与えて、助けてあげることができる。
(中略)
 リベラルアーツ教育を重視する意見の人は、どのように考えて、その結論に達したのであろうか。今まで見た意見の中には、リベラルアーツ教育を実施した結果、どういう効果が得られるのか、示したものは1つもなかった。大まかな感覚だけで、意見を述べているものばかりだ。
(中略)
 リベラルアーツ教育の重要性を主張する人には、試しに次のような質問を与えてみればよい。「それを実施して、どのような効果が期待できるのか」と。さらに「その効果を得るのに、それが最良の方法なのか」とも。どちらも、物事を検討する際には重要な視点で、教育内容の検討でも例外ではない。実際には、こうした質問をぶつけても、マトモな回答など出てこない。それほど深く考えて主張しているわけではないからだ。
(中略)
ポイントとなるのは、論理的な思考能力の習得、自分が考えた内容を上手に伝える能力の習得、良識ある人間としての意識を持つことの3つだ。これらが身に付くように、教科を設計すればよい。
(2002年3月19日)

とまぁ、小学校高学年向けの学習指導要領かと見まがうほどの内容だが、それほどまでに今はレベルが低下している。でも、意識やプライドだけは昔のまま。だから困ったものだと思う。
母校のノーベル賞の話も、あまりワクワクしないのは、そういう現実があるからだ。