マッカーシーの逆転とCW
保守派ブログとして、なかなか興味深い文章を綴っていらっしゃる方がいる(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140215)。部分的に意見を異にする点がなきにしもあらずだが、多くのトピックについて、私と重複する考えもかなり含まれ、刺激と励みになっている。特に、マッカーシー評価の史的展開がおもしろかった。後ほど、引用させていただくが、その前に少し補足を。
マッカーシー旋風については、犬養道子女史のアメリカ滞在記の本を学生時代に読んだ時に初めて実態の一端を知ったが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090317)、アメリカの「共産主義赤狩り」と揶揄されたマッカーシー上院議員の起こした運動である。当時は相当な批判を浴びたのだが、今では、櫻井よしこ氏らの保守系論客の談話を読んでいると、「マッカーシーは結局は正しかった」と証明されたという発言が見られる(櫻井よしこ『日本よ、「歴史力」を磨け』文春文庫(2013年)pp.171-173(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131121))。つまり、時の経過に伴って、評価がまるで逆転したという事例なのだ。
なぜマッカーシーか、と言えば、ダニエル・パイプス先生のキャンパス・ウォッチ(CW)を巡って(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120113)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120710)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120812)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120929)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121012)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121020)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121117)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130516)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130625)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20130920)、その批判者達が一様に、反発や非難の合い言葉として「マッカーシズム」と叫んでいたからだ。だいたい、親パレスチナ派や過激なアラブ系ムスリムやそのシンパ達が、自分達の行為を別の角度から批判されたからといって、「マッカーシズム」と叫ぶこと自体、自分が共産主義系に類した活動をしていることの心理的証左となる。つまり、自分で自己暴露しているという矛盾が露呈されているだけなのだが、その点をどう考えていたのだろうか。
2004年2月のバークレー校でのインタビューで披露された(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120113)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120126)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120505)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20121012)、それに対するパイプス先生の落ち着き払った反論は、なかなか傾聴に値する。
1.マッカーシーは権力中枢に近い存在で、政治力を持っていた。我々の中東フォーラムは、ワシントン規模と比べれば小さなシンクタンクで、権力を持っているわけではない。マッカーシーは人を逮捕することが可能だったが、我々はそのような権力も権利も有していない。
2.私が立ち上げたキャンパス・ウォッチのウェブサイトは、いわば世間一般に判断させるための情報提供をする小さなサイトである。(別のインタビューでは、父母達に子女の大学教育の場を選択する際の「消費者カタログ」のようなものと称していた。)大学人の失職を目指す運動ではない。そんなことには我々は関心がない。
3.我々の目指していることは中東研究の質の改善であって、相互批判によって研究の質を高めていこうとするのである。私だって、いつでも批判されている。特にシンクタンクの場合、世間の目で批判され、評判や質が落ちたら資金も集まらない。大学は、いったんテニュアをもらえば一生涯安泰で、教授が何をしても構わなくなってしまう。
4.(共産主義批判の学術的先鋒に立っていた)父にも私は聞いたが、あのマッカーシー旋風は、今騒いでいる人達が言っているような種のものではない。
などということだった。
二年半以上も前にこのビデオを二回繰り返して見ているうちに、(へぇ、今のアメリカにも、こういう落ち着いた知的な話し方をする、紳士的な人がいるんだ)と驚きつつも、どこかで(ひょっとして、この方と私、個人的に親しくなることになるのかもしれない)と胸の奥底で沸き上がったような感触があった。即座に(いえいえ、私なんて、境遇が違い過ぎて、そんなことはあり得ない)と自分で否定したこともしっかりと覚えている(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120809)。ところが、現実には今まで綴ってきたような展開に...。
前置きが長くなった。あれから十年以上が経っても、まだ相変わらず非難を浴びているらしいキャンパス・ウォッチだが、一方で、まだ閉鎖もされずに継続されているウェブサイトなので、相当の自信と信念を持っての活動なのであろう。例えば、過激なムスリム集団のウェブサイトなどは、開設してはすぐに閉鎖、また別名にして開設し直しては、しばらくして閉鎖、を繰り返しているらしい(『オサマ・ビン・ラディン発言』ブルース・ローレンス(編)鈴木主税・中島由華(訳)河出書房新社(2006年)p.9.)(参照:2011年11月26日付ツィッター(https://twitter.com/itunalily65)26 Nov 2011 「そんなことを考えながら、遅ればせながら『オサマ・ビンラディンの発言』を中古で入手し、一日かけて読んだ。数年前の某所での仕事を思い出す。あの頃は、突然呼ばれて、何が何だかわからないままに、それぞれの発言を聞いては混乱していた。貴重な経験だったとも言えるが、私の認識とはズレがあった」。)つまり、当局その他が察知してモニターすると、気づき次第、変装して新たに出直しを試みているようなのだ。
訳文を始める前に、かなり慎重に調べてみたものの、やり方の唐突さや、世間の注目を引き寄せるための大袈裟なセンセーショナリズムの手法という問題はあるにせよ、キャンパス・ウォッチは当座のところ問題なしと判断したのは、上記のマッカーシズムの評価逆転の話を知っていたからでもある。つまり、今だけを見て、表面だけで判断はできない、ということなのだ。
では、冒頭のブログを一部転載させていただく。
(http://conservative.jugem.jp/)
「Blacklisted by History」読了 マッカーシズムとは何だったのか
2014.09.08
“ジョセフ・マッカーシー”と言えば、マッカーシズムやマッカーシー旋風、そして赤狩り、といった言葉が思い浮かぶ。
通常以下のように理解されている:
• マッカーシーの赤狩りは中身のない架空の事件であった。
• 赤狩りによって、多くの罪なき人々が次々と悲劇に追い込まれた。
• マッカーシーは不当に強硬で執拗な手段を用いて反発を招き、国民の不安を駆り立てた。
• マッカーシーがターゲットにしたのは自由主義的で進歩的なニューディール支持派の民主党員であり、共和党員としての自身の地位を上げるための政治的活動であった。
• 1953年に朝鮮戦争が終わりを迎えるとともに共産主義の脅威は後退しており、マッカーシーの共産主義脅威論は根拠の無いものであった。
• マッカーシーが標的にしたのは社会主義に対して心情的に好意を抱いていただけの無害な人々であり、疑わしきは摘発・除外という魔女狩り的な荒っぽい方法によって何の罪もない人々の生活を破壊した。
• 進歩的な考え方の人々が多いハリウッドはマッカーシーの恰好の餌食となり、共産党員でない無関係な人々も失職に追い込まれた。
• 1950年2月9日、ウエストヴァージニア州ホイーリングという小さな街にてマッカーシーは演説を行い、共産党員の政府内への浸透について述べ、それらの共産党員やスパイのリスト205名分を持っていると言った。だが実はマッカーシーはそのようなリストは持っておらず、単なるハッタリであったことがバレている。
• 中国学者に過ぎなかったオーウェン・ラティモアはマッカーシーからいわれなき罪を着せられ、迫害を受けた。
• 天才物理学者、ロバート・オッペンハイマーは、若き日に共産主義に傾倒したことがあるというだけで血祭りにあげられ、公職から追放された。
• 赤狩りの欺瞞がバレるにつれ、風当たりを感じるようになったマッカーシーは、焦りのあまり、攻撃の矛先をアメリカ陸軍にまで向けるにいたったが、批判が事実無根であったため、逆に再起不能なまでに叩かれることになった。
• マッカーシーによる告発は全くの事実無根であり、架空のホラ話であったということがバレたため、上院にて弾劾され、調査委員会委員長を解任された。
• マッカーシーは性格破綻者であった。臆病で狡猾、敵の弱点を見つけては攻撃することに長けていた。大酒飲みで、政敵を見つけては「共産主義者」「ソ連のスパイ」などのレッテルを貼り、口汚くののしった。
(中略)
上に述べられた”事実”は全てが”嘘”である。
マッカーシーの罪は”間違っていた”ことではなく、“正かった”(ママ)ことであった。存在する危機を暴き、社会に突き付けたことで時の権力(政権、政府関係者、メディア等)の怒りを買った。そして今日に至るまで抹殺されることになった。
(中略)
マッカーシーは「私はこの人物が怪しいと睨んでいる」などと言ったことは一度もなかった。「FBIの捜査においてソ連へのスパイ活動を行ったことで摘発されているにも関わらず、この人物は国家機密に関わる地位に据えられている。なぜだ!?」と注意を喚起し、しかるべき措置が取られるべきであると主張したに過ぎない。
(中略)
ところで、インターネット上にはマッカーシーに関する誤った情報も多々見られる。「ハリウッドの俳優がマッカーシズムの犠牲になった」というものである。ハリウッドの共産主義浸透を調査したのは下院非米活動委員会である(後に大統領となったニクソンはメンバーの一人)。マッカーシーは上院議員であって、下院の当委員会とは無関係である。
1930年代から40年代にかけて、アメリカはソ連とは友好関係にあった。その関係を推進したのはルーズベルトとトルーマン両政権であった。当時の社会はニューディールの最中であり、社会主義の色濃い時代であった。その社会背景にあって、ソ連は政府組織の上層部にまでスパイを送り込み、影響力を行使した。反共主義者であったエドガー・フーバー長官のFBIはソ連・共産主義の脅威を明確に認識し、政権上層部に関わるスパイ事件を捜査する(アメラジア事件はその一つ)。しかしトルーマン政権はそれらの事件に対して協力するどころか、あからさまな隠蔽に走る。
(中略)
マッカーシズムという言葉はいつの日か、「不当な迫害」から「迫害にもめげず、勇気を持って声を上げること」を意味するようになるのであろうか。その時こそ過ちの歴史が克服されたと言えるのであろう。このような書が出版され始めているのは良い兆候である。
追記:
本書には日本人としても興味深い記述がある。1930年代、ソ連スパイであるゾルゲの日本派遣。ゾルゲがソ連から受けた指令は日本の軍事的な矛先をソ連から逸らすこと。1941年”中国学者”にして”蒋介石の軍事顧問”にして共産主義者であったオーウェン・ラティモアは、中国から本国へ電報を打つ。「蒋介石総統は米国が日本との妥協を探ろうとしている事を大変憂慮されており、そのような事態になれば中国の米国への信頼は壊滅的な打撃を受けると仰っています」と。その電文を受け、ホワイトハウスに伝えたのは大統領補佐官、ロークリン・カリーであった(ラティモアと同じくソ連のスパイとしてマッカーシーの標的となった)。そして同じくソ連のスパイとして対日関係悪化を最大限推し進めたのが、後に日本への最後通牒(ハル・ノート)を書いたハリー・デクスター・ホワイト(財務次官補)であった。ソ連の意向に操られたルーズベルト政権が日本に不当な圧力をかけたことが真珠湾攻撃につながったと、本書は認めているのである。
(部分引用終)