ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

古き良き時代は遥か彼方に

地震に引き続き(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180619)、豪雨が発生した。
シンガポールの友人からは(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080807)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080811)、「何か手伝えることある?」と御見舞メールが来た。私の感覚では、かつては東南アジアを日本が援助する側だったのに、いつの間にか、日本が援助される側に回ってしまっている(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20120320)。情けないことだ。
幸い、私の住む地域は地震も豪雨も大丈夫だったが、気温の上昇は昔では考えられないほどである。昨日は37度から38度だと猛暑日だったが、行ける間にと思い、炎天下の中を向日市文化資料館へ行ってきた。
自転車と電車で出掛けたため、うっかりして日傘を忘れてしまったが、熱中症予防に日陰を選んで歩く他、道を尋ねる振りをして、コンビニやスーパーで少しずつ涼みながら、目的地へとゆっくり辿り着いた。そうこうするうちに気づいたのが、愛知県の半田市では「榊原」姓が目立つように(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170727)、向日市では「岡崎」姓が多いことである。
さて、「大阪府に住み、京都府へ通勤している」と言えば、関東地方を除き、遠方の方にはどう映るだろうか。しかし、昔で言えば摂津国山城国の関係であり、境界線をまたいでいる町の特徴を反映して、今でも、行政上は大阪府下で、電話は京都番号である(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171114)。つまり、大阪にも京都にも近く、程よく住みやすいベッドタウンということだ(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20070902)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080904)。
だが、歴史文化的に言えば京都文化圏の端にあり、町内でも「あそこまでは京都で、そこから向こうは大阪」と明確に意識されている。人々の振る舞いも、平安朝から鎌倉時代まで貴族の別荘があったらしい地域は(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180624)、お互いに丁重に頭を下げ合っているが、最近建てられた高層マンションが並んでいる所では、挨拶もしないで我が物顔の人々もいる、というように異なっている。
気がつくと、ここ十数年のうちに、本町や隣町や近隣の市で、地域の歴史文化を展示する資料館が連立するようになった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080419)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20100214)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20170723)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171027)。もしかしたら、自分の関心事の変遷を反映しているだけなのかもしれないが、突然、立派なパンフレットが増え、展示が増加したような印象がある。
インターネットのお蔭で、居住地にかかわらず、どこにどのような書籍が所蔵されているかが一瞬のうちにわかるようになったし、博物館や美術館や資料館や音楽会の催しも、近隣府県まで幅広く知ることができるようになったのは嬉しい。
いくらリベラル左派や平等主義のせいで国力が低下したと批判されようとも(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140626)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20161216)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180509)、これだけは昭和時代にはあり得なかった利便性である。あの頃は、住む場所や学歴や職業によって、知識や情報を得る範囲が相当に異なっていた。そのために不利益を被っていた人々も、(私を含めて)かなりいたはずなのである。
一方、今では子どもの頃から暗記や反復練習をしなくても、検索方法さえ知っていれば、スマホ一つで全世界の知識が得られるのだから、新たな価値を生み出す知恵さえ備えていれば、どこでも暮らせるとまで極論する人もいる。つまり、わざわざ博物館や美術館や資料館や音楽会ホールへ出掛けていかなくても、家にいて全部が経験できるというのである。
私見では、そんなことは絶対にない。インターネット情報は、公平に開かれて自由なようであっても実は制約や誤謬があり、時間の節約のようでいて、出版元が明確な本で調べた方が確実で早いことも多い。第一、検索機能がいくら発達したとはいえ、検索語の基礎となる知識がなければ、理解のしようがないし、正誤の判断もできない。
この頃、若い人が素直になったが小さくまとまり、比較的内向き思考だと言われるのは、経済の見通しが暗いことに加え、人口減少で将来の負担が精神的負荷となってのしかかっているからだろうとは思う。反面、小さい頃からの基礎訓練や忍耐力が不足したまま、「自主性」「自分らしく」「個性の尊重」とばかりに、のびのびと放任のまま育ったので、知性が発達しにくいからではないか、とも思う。
逸れた話を元に戻すと、近隣の府市町では、大抵が無料で入館できる資料館があちこちにできている。「歴史資料館」「文化資料館」「歴史文化資料館」「歴史民俗資料館」「文化財資料館」とさまざまな名称だが、古代から近世までの文化の中心地だったことの名残で、地域によって、古墳や城跡や宮跡や寺社や遺跡やお茶室等、主眼となる各テーマが設定されている。
しかも、一般向けとは言え、趣味で詳しい人々も混じっている土地柄のためか、時々開かれる講演会は、この頃の大学講演会より遥かに充実していることが多い(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180624)。(但し、公共の場を借りての講演会やセミナーには、明らかに左翼の政治勧誘を伴う人寄せパンダも含まれているので、要注意である(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20151219)。)
余談だが、向日市文化資料館に隣接されている図書館を覗いてみたところ、学部生時代に公共図書館で見かけたような本がまだ並んでいた。つまり、朝日系というのかリベラル左派系である。女性の生き方講座シリーズもあり(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080319)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20101026)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160825)、お見合い結婚の不自由さや鬱屈の怨念を綴った指南書もあった。これからの女性は、自立して仕事を持ち、自分の人生は自分で切り開くよう、激励されていたものだった。そうすれば、自分にふさわしい結婚相手も見つかるのだ、という根拠なき人生訓である。
今でこそ批判の的となっているが、1970年代から80年代には、あれが普通であった。つまり、今の社会の中核層は、夏休みの宿題や受験勉強のために図書館に通い、そこで本を借りて勉強していたのだった。そのように時間を惜しんで努力することが、より良い将来につながると信じて疑わなかったのである。
閑話休題
初めて訪れた向日市文化資料館は、それほど大きな展示ではないが、暑い最中の学習としては適度な空間だった。せっかくの三連休だというのに、入館者は殆どなく、「おじゃまる」だとか何とか言いながら、さっさと立ち去っていった祖母と孫らしき人達がいた程度である。
「おじゃまる」って?
思わず笑ってしまったが、今のNHKEテレの「おじゃる丸」という変なアニメーションのことらしい。独断と偏見によれば、これは史実を歪めて伝える可能性があり、キャラクターの趣味も洗練されているとは言えない。つまり、これもリベラル左派の操作の一種なのだろう。
クレヨンしんちゃん」を読んで喜んでいた甥っ子も(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180706)、親が判断力を放棄しているため、晴れて犠牲者となっているのだ。これでは、同じ日本国民でありながら、日本語の知的会話が断絶する。言葉がまるで通じないのだ。
無料で入館できる資料館なので税金で運営されているのだろうが、どこでも大抵は、イメージ・キャラクターというのか、ポスターのイラストや大きなぬいぐるみが入り口近くに置いてある。我が町でもそうだが、「かわいくない!」の一言に尽きる。
不細工というのか、趣味が悪いというのか、誰に合わせるとあのような子供騙しができるのか、不思議で仕方がない。
恐らく、資料館で並べてあるものは古い展示物なので、子供が退屈しないように、小さな子でも入りやすいようにという配慮のつもりかもしれない。それにしても、ミッフィー程度に上品で可愛いものはできないのだろうか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080105)。(ミッフィーすら、最近では変なバージョンが出回っていて、迷惑この上ない。)
正直なところ、昭和の子であって私は運が良かった!
ピカチュウの頃から、背後で共産党辺りが操っているのではないかと、密かに疑っている。
さて、午後3時5分から4時30分までゆっくりと過ごした資料館では、テーマは二つあった。戦時中の向日出身の兵士の方の遺品展示と、桓武天皇ゆかりの10年間の長岡京の遺跡に基づく展示である。
前者はいかにも夏休みの課題図書を彷彿とさせるが(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20080818)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20090829)、御遺族への配慮のためか、余計な解説が全く無かったのは良かった。
後者については、庶民の食事と役人の食事と貴族の食事のメニューが示されていたのは良いとしても、カロリー計算まで表出されていたのが何とも変だった。第一、当時の食品栄養基準は、今とは異なっているのではないか?
最も栄養バランスが取れており、量も最適なのが役人の食事ということになっていた。メニューは、白米のご飯にワカメのすまし汁、瓜と茄子の漬物、大根と人参の味噌和え、鰯煮の大根添え、デザートが枝豆(!)や栗やスモモ、飲み物としてはにごり酒だった。だが、豪勢な宴会の食事を摂る貴族はどうやらメタボ体質らしかったのではと想像されており、庶民は肉や魚がなく、玄米と塩の支給で、青菜と漬物の一汁二菜程度。栄養不足でお腹もすいていただろうに、家族のために出稼ぎの労役で駆り出されていた、という想定が記述されていた。
その意図するところは、何か?何となくマルクス主義史観の匂いがするのだが、どうだろうか。しばらく前には、縄文文化の食生活の豊かさ云々と喧伝していなかったか?
関西には、京都に落ち着くまで転々としていた古代の都があちこちに散在しているので、地図を見て確かめるのは楽しい。学校では習わなかった新たな都の名称もあり、学ぶことには終わりがない。また、瓦の破片から宮の力量が想像でき、今時、格差だ何だとほざいている層は、全く歴史を知らないのだろうと思われる。
昔から、格差を当然のこととして、人々は分に応じて精一杯命を繋いできたのだ。
とはいえ、各地で発掘調査が本格的に始まったのは、戦後が中心だろう。宅地開発や、駅新設や高速道路や学校の建設工事がきっかけで、偶然のように遺跡が見つかることが多いようだが、時空を超えたロマンと同時に、少なくとも明治や大正時代まで、人々は主に文献のみで存在を知っていただけなのかもしれない、と知識幅の相違も痛感させられるところではある。それに、学校に通う期間が短ければ、何も知らないままに自分の生活だけで生涯を終えた人々も相当いたのではないだろうか。
とすれば、社会主義の思想によって、万人に広く一律に知識を広める手法は、その限りにおいて悪とは言い切れない。
恐らくは市民ボランティアであろうか、訪れた人に簡単な解説をするご年配の男性がいらした。本来は古墳に興味があるそうで、高槻市ならば継体天皇系だとか(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20160405)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180628)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20180713)、大山崎町なら千利休の話が中心だとのことだった(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20171114)。但し、清涼殿と間違えて京都御所の紫宸殿を「天皇の生活の場所」とおっしゃったのは、私の聞き違いかもしれない。
最近、このような資料館が各地で充実してきた背景には、その方の説明によれば、学芸員の配置が挙げられるそうだ。
実は、将来の進路を考えていた高校から大学の頃、古い文物を見ることが好きで、文献資料を集めたり調べたりすることが苦にならないタイプなので、学芸員はどうだろうかと調べたことはある。その当時、学芸員になるには、四年制大学の史学科を卒業後、博物館に就職するという狭き門だが、空きが少ないため、公務員試験を通って採用される人も少なく、やむなく高校の歴史教員をするケースが多いと書いてあった。従って、断念した次第である。
今や日本の経済力が低下し、人口も縮小したために、各地が殊更に観光地化しているせいもあってか、昔なら郷土史家がしていたであろう仕事を、必ずしも若くはない学芸員が積極的に知的な町興しとして担当されている。それはいいのだが、そもそもマルクス主義史観が浸透しなければ、もっとスムーズにいったのではないだろうか。
いつでも行けそうで、実はなかなか行けないのが、このような資料館である。そのこともあり、記念として、以下の4冊を購入した。

長岡京の歴史と文化−都を動かした人々』(昭和59年/平成23年3月)
再現・長岡京』(平成13年/平成27年9月)
乙訓の西国街道と向日町』(平成27年11月)
乙訓郡誌と編纂とその時代』(平成29年11月)

最後に、新品で届いたばかりの本を。

井手久美子徳川おてんば姫東京キララ社(2018年6月)

平成生まれの若い人々にも気軽に手に取って読んでほしいという願いが込められているのか、ショッキングピンクの艶やかな表紙にコンパクトな作りだった。筆者は、高松宮妃喜久子殿下の妹君である。ちょうど二週間前に95歳で逝去された。
貴重なお写真が多数含まれていて、文章も読みやすい。但し、最も印象的だったのが、巻末近くの以下の文章だった。

「ニュースなどを見ていると、妃殿下がご健在の頃と近頃とでは、時代が変わったのだと感じることが多々あります。宮家らしさというものは後で身につけることはできず、生まれた瞬間から備わるもの、すなわちご結婚にあたり家柄が重視されるのは当然のことだと思わざるを得ません。何かうまくいかないことが起こるのであれば、そこに理由があるのだと、“家”に翻弄されてきた立場だからこそ強く感じます。人をどこまでも思いやることができる心、位高ければ徳高きを要す、それが培われる環境は一夜にして成らず、そう思います。」(pp.181-182)

(引用終)