ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

アメリカで撮った写真から

昨晩やっと、4月の二週間で撮った945枚ほどのアメリカ滞在中の写真から(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140508)、一緒に写っているものを選り分け、それぞれの方達に各ドロップボックスで送った。
帰国後しばらくしてから、今まで通りにメール添付で送ろうと思っていたが、重過ぎたらしい。自分宛に二枚ずつ試し送りしても、戻ってきてしまうか、送信不可と表示されていたので、少し放置しておいたのだった。
実は、人物写真よりも、図書館での一世紀ほど前の古い資料の撮影が中心なのだが、これほどあると、整理以前に、見るだけでもどっと疲れる。送信そのものもさることながら、うまく写っているかどうかの方がもっと心配だった。そのため、私の習性として、映像よりも文章書きや本読みの方を先回しにして、経験したことを整理し、沈静化させ、自分なりに深化する時間をまず取ることにした。
それに、二つの図書館から大量の複写資料が届いたのも、実のところ、かなり経ってからのこと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140525)。クレジットカードの明細書が届いて支払い金額の確認を済ませない限り、気分的に落ち着かず、写真どころではなかった。
ニューヨーク市から乗った車両そのものが50分以上も遅延したために、ニューヘイブンからの乗り継ぎが不可能になったアムトラックの払い戻し分も、三つの窓口で交渉しても埒があかず、結局は帰国後にチケットやパスポートやクレジットカードのコピーを添えた手紙を書いて、先月末でやっと確認できた。なんだかんだ言っても、アメリカと日本とでは時間がかかるのだ。
要は慣れの問題でもある。環境の違いを超えて慣れる意志や適性があるかどうか、どれほど場数をこなすか、理解をどのように進めていくか、なのだ。
振り返ってみれば、著名なクラシック演奏家達のツィッターフェイスブックの写真では、練習中の光景など、私が今回撮った写真より画像が明瞭でないものもあったりする。国際ニュースなどでも、今回初めて気づいたのだが、中東発の報道の方が鮮明な写真で、アメリカの方が霞がかった映像を平気で出しているものもあった。本当の意味での国力の差違と写真の細工は一致しないことの証左だ。
デジタルカメラであっても、私は一切修正を施さずに皆様にお送りした。修正してみたところで、外来人の私の細工など、地元の人々にはすぐに分かってしまうだろうし、あるがままの自然な方がむしろよいと思ったからだ。
パイプス先生と二番目の娘さん(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140508)は、素直にとても喜んでくださった。パイプス先生には、4月8日と10日の二つの倶楽部(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140509)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140510)での会合の様子を含めて二セットに分けて数枚ずつお送りしたが、特に嬉しいのは、私と一緒の写真とお嬢さんとの写真だと書いてくださった。その彼女には、上記の通り、既にメールで送ってはみたものの(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140612)、うまくいったかどうかはわからなかった。お父さんに遠慮してなのか、「受け取っているわよ」とフェイスブックでお返事してくれたが、こちらとしては長らく気になっていたところだった。お父さんの方はといえば、会合での要人や資金支援者の前では、責任感から緊張するのだろうか、さすがにお仕事顔なのだが、お嬢さんや私と一緒の場合は気楽で安心するのか、かなりリラックスして、嬉しそうで柔和な表情だ。お嬢さんも、フェイスブックの写真によれば、アメリカ人の友達と一緒の時には、それなりに自己主張を強く出しているものの、若く見える日本人の幼いイメージに合わせてなのか、私とは自然な可愛らしい表情で並んでいる。
それに、二つのニューヨークでの会合は、今改めて写真を見ると、「淑女倶楽部だよ」とは言われていたものの、やはり男性シニア層が中心で(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140510)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140511)、どう見てもユダヤ系が圧倒的だ。何やら難しそうな表情をされているおじさま方もいらした。厳しく危険な中東を対象にしているために、どうしてもそうなってしまうのであろうか。もし中東が落ち着いてうまくいったならば、資源もあるし、古代から続いてきた土地柄だし、これほどの展望はないだろうに、といったところだ。
そこからすると、ハートフォードやイェール(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140512)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140519)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140520)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140521)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140524)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140525)(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20140606)で撮っていただいた写真は、最も私らしい表情で、髪型が整い、目元もぱっちりと自然な感じだ。旅の半ばで落ち着いた頃だからでもあろうし、国が違っても、私には図書館が一番好きな場所だからだ。つまり、慣れているということと、本来の私のテーマ作業そのものだということだ。
今から振り返れば、気候的にも時期的にも、最もタイミングのよい時に三つの用件を重ねて実現できて幸運だった。ただ、観光旅行ではなかったので、楽しむというよりは、真面目なお勉強旅行ではあった。
写真とは、歳を取れば取るほど、顔のつくりが美形かどうか、体型がモデル風かどうかよりも、人柄や普段の考え方や生き方そのものの醸し出す雰囲気全体が滲み出るものだ。日本人の私は、この写真に反映している限りにおいて、アメリカでは若く見える。また、小柄なのは別としても、服装や顔つやなどに遜色はなく、充分に満足して幸せそうに暮らしているように見える。それは、安倍総理ハーマン・カーン賞を受賞した際の映像で感じたものと(http://d.hatena.ne.jp/itunalily/20131026)、まさに通底する。